【SSコン:給料】 俺にとって最高の給料
とある会社のとあるオフィス。今日も俺の手は腱鞘炎になりかけながらも休むことなくキーボードの上を舞い踊り、連日の残業で充血した眼はディスプレイに表示されていく文字列の先頭を追いかけ続ける。「——くん」脳の処理能力のほとんどをプログラムの構築に注ぎ込み始めて何時間経ったかわからない。周囲の喧騒も、全身に溜まっているであろう疲労も、俺の意識には届かない。「白城君! ねえ、聞いてるの? おーい、戻ってきてくださーい。はあもう、仕方ないなぁ」「いてっ!」仕事に集中していた俺の意識に痛覚が突然割り込んできた。どうやら両頬を引っ張られているようだ。俺にこんなことをするのは一人しかいない。とりあえず、俺の後ろに立っているであろう彼女の顔を確かめるために、いつの間にかディスプレイに食いつくようになっていた上半身を背もたれに寄りかからせる。上を見る俺の視界を予想通りの人物が覗き込んできた。「あーー、疲れたーー。なんだ日下部か」日下部渚。会社の同期の中では一番付き合いがあり、いまさら新たな発見などないかもしれないが、脳の休憩がてら、改めてその人物を観察してみる。目つきは若干悪いものの、肌艶も良く、パーツも整っている。まあ美人だろう。前まではずっとミディアムにしていた黒髪も、ここしばらくは伸ばしているらしく、肩を越して流れてきた後ろ髪からして背中の中ほどまではあるのだろう。実際に生で見たことはないが、頭部に押し付けられている、沈み込むようで弾力もある柔らかい感触から胸も結構でかいとみた。こうして考えてみると、安定した収入もあり、顔もスタイルも良い方、年齢は……確か、再来月の誕生日で26になるはずだから今はまだ25で、つまり若い。ここ数年恋人はいないと聞いたが、それが不思議なくらいの優良物件だな。「随分と失礼な物言いじゃない。せっかく私が白城君をこちらの世界に引き戻してあげたのにっ」心配するように覗き込んでいた日下部は途端にむっとした顔になり、俺の両頬を再び引っ張る。さっきより力が弱いから痛くはない。「悪かった悪かった。いつもありがとな」「どういたしまして」俺の両頬はようやく解放され、日下部は俺の隣のデスク——彼女の仕事場の椅子に腰掛け、こちらを向いてから足を組んで口を開く。「それより、もう終業時間よ。今日は待ち侘びた給料日だし、私も残業したくないから、どこか飲みに行かない?」すっかり忘れていた。今日は給料日だったな。まだ仕事が処理しきれていないのが気になるが、給料日だし、明日は休みだし、今日くらいは仕事のことを忘れることにしよう。日下部には仕事の件でいつも助けられているし、仕事以外での日頃の礼もしたい。今日は俺の奢りで飲みに行くか。「どこがいい」「そうね、どこがいいかしら。久しぶりに焼肉が食べたい気分」「じゃあ焼肉で」俺と日下部はさっさと帰り支度を済ませて会社を出ると、そこそこ良い焼肉屋に来た。奢ることはあえて言わなかった。きっと彼女は一歩も引くことなく断るだろうから。それに、気を遣って飲むのも嫌うだろう。4年ほどの付き合いはあるものの、未だに彼女がそういうことを気にするのも知っている。「何食べよっかな〜。とりあえずカルビとタン塩は食べるだろうから二人分、生ビールも二人分注文するけど、白城君は食べたいものある?」個室の二人席に案内された俺たちは早速注文するものを決めていた。木製の机、暖色の照明、掃除の行き届いた部屋。清潔感があって落ち着いた雰囲気のこの店は個人的にかなり好きだ。「ラムと肉寿司が食べたい」「あ、私も食べたい。じゃあ、一旦これで注文しちゃうね」「頼んだ」注文のため呼ぶと、すぐに店員が来てくれて、日下部はスムーズに注文を済ませた。自然な流れで世間話なんかをしていたら、それほど待たずに注文したものが来た。「ええと、今月もお疲れ様でした——」「「カンパ〜イ!」」二人のジョッキが軽くぶつかってカツンと良い音を鳴らし、続けて、液体がゴクリゴクリと喉を滑り落ちていく音が二重に鳴る。「「ぷは〜〜っ! うまい!」」俺と日下部はほとんど同時にジョッキから口を離すと、個室席で人目を気にする必要がなくなったせいか、それなりに大きな声で勢いよく言った。日下部と目が合い、俺も彼女もなぜか自然と笑みが溢れていた。日下部と食事をし始めてからどのくらい経っただろうか。最初に注文したものを食べ終わってから何度か追加で注文を行い、お酒はビール以外にも日本酒を頼んだりしたはずだ。俺はセーブしたものの流石に酔っているみたいだ。そもそも俺はお酒に強くないから仕方がない。目の前でベロンベロンに酔っている日下部よりはマシだろう。「だーかーらー、白城君はいつも無茶しすぎなんだって〜。一緒に仕事してる身としてはすっごーく頼もしいけど、白城君の頑張りを一番近くで見てる私としては心配で心配で仕方がないよ」呂律は回っているようだが、それにしても飲み過ぎだ。体にも良くないから飲み過ぎは止めるべきなのだろうが、彼女が幸せそうにお酒を飲むものだから止めるのを躊躇ってしまう。結局いつものように泥酔して眠ってしまった彼女を俺が介抱することになるのだろうと諦めつつも、それでもいいかと思ってしまう自分がいる。一人暮らしの俺の生活習慣を正したり、仕事にのめり込んで休憩を取らない俺を現実に引き戻して休ませたり、いつもは何かと世話を焼かれている俺が日下部の世話をできる機会などあまりないからな。「ねえ、私の話ちゃんと聞いてる〜?」「聞いてる聞いてる」「白城君は仕事に熱中すると私が話しかけてもいっつも気づかないし」それは悪いと思ってる。だけど、熱中してしまうとほんとに周りの声が聞こえなくなるのだ。「白城君が髪の長い女性がタイプだって言うから伸ばし始めたのに全然気づいてくれないし」俺がいつそんなことを言ったのか覚えてないが、日下部が髪を伸ばしていることは気づいていたぞ。だが、それをわざわざ言うのもなんだか、いつも彼女のことを見ているみたいで気持ち悪いじゃないか。「ブラのサイズ変えたのも新しいパンツ履いてることも気づいてくれないし——」は?「おいちょっと待て、最後のはどうやって気づけって言うんだ!? 俺は日下部の下着を見たことは一度も無いぞ! 大体な、恋人でも無い男にそういう話をするな! いや、恋人相手でもありえねぇぞ!」動揺でつい声を荒げてしまったが、あれは動揺するなという方が難しいだろう。だがまあ、俺が怒鳴るような形になってしまったことには変わりなく、見る見るうちに日下部の表情は陰っていき、今にも声を上げて泣き出さんとばかりの顔になってしまった。「そんなに強く言わなくたっていいじゃん……」さっきまでの怒り口調が嘘のように弱々しい声で彼女は俯きながら呟く。「ごめんごめん。俺が悪かった。気づいてやれなくてごめんな」俺は彼女の頭に手を伸ばし、その艶の良い黒髪をそっと撫でることを繰り返す。日下部の表情は段々と穏やかになっていき、やがて眠ってしまった。「少しは警戒心もてよ」すやすやと静かな寝息を立てながら幸せそうに眠る彼女の寝顔を見ていると勝手に言葉が漏れ出る。だって、最高に可愛いと思ってしまったのだから。きっと、俺にとっての一番の給料はお金なんかじゃなく、この寝顔なのだろう。