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16

アレクサンドライトには、生まれる前の記憶と呼ばれるものを保持していた。

と、言ってもそれは果たして『アレクサンドライト』の記憶なのか、他の誰かの記憶なのかは判断が出来ないのだが…何にせよ、自分がトストに製造され、名をつけられる以前の光景が断片的によみがえることがある。


記憶回路の中に漂うそれは、燃え盛る炎かと錯覚するほどに赤い夕陽と、焼け焦げた大地、そして人目もはばからず大声で泣き叫ぶ幼い少年の姿だ。

その少年は、まるでどしゃぶりの雨の如く大粒の涙を流しながら、己を見下ろしている。あまりにも痛々しいその姿にしかし体は動かない。彼の涙をぬぐうことも出来ず、発声回路は稼働せず、まるで意思のない無機物へと戻ってしまったかのような錯覚を覚えた。


「ごめんなあ、ごめんなあ…!」


嗚咽に交じって聞こえてきたのは、ガラガラ声の謝罪だった。美しい声とは程遠いその響きであるのに、どうしても心が締め付けられる。

あやまるなよ、気にするなよ、お前のせいじゃないよ、なあ、笑ってくれよ。伝えたい言葉は胸の中にたまるばかりで、もどかしさだけが己の体を支配していく。無論音にならない気持ちが少年に伝わるはずもなく、彼はことさら激しく泣き喚いた。

あまりにも物悲しい時間は涙とともに過ぎ去り、ひとしきり喚いたあと少年は己の元へとふらふら歩み寄る。倒れるのではないかと心配になるほど力なくしゃがみこんで、彼はその小さく短い手で己の体をかき抱いた。


「ぼくが、ぼくが必ず…お前をなおしてやるから…!!だから、だから…」


―――また僕を友達と呼んでくれ…!

聴覚回路を響かせて伝わる少年の声に応えたい気持ちは強くあるのに、やはり体は動かない。震える矮躯を抱き返してやることも出来ない。

武器を持って戦い、銃弾の雨をかいくぐり、炎を物とせず突き進んだ…鋼の肉体と歯車の心臓を持つ機械のくせに、何とも情けないことではないか。涙を流す幼い少年よりも頼りない存在に成り下がってしまった現実に、心の中で嘆息した。


―――なあ、大丈夫だよ。俺は少し眠るだけだ。また必ず戻ってくるよ。なあトスト、俺たちは友達だろ?


結局声にならなかった言葉を、胸の中で伝えた。カミサマなど信じていないが、まるで呪文のようじゃないかとおかしくなって少しだけ笑い、そしてゆっくりと視覚センサーを閉じた。

かちん、と小さく歯車がかみ合う音がした。


そして次に己が視覚センサーを稼働させると、そこにはもう夕焼けも焦土も、泣く少年の姿も無い。

ゆるやかな日の光が当たる小さな部屋の中に自分は立っている。―――否、自立しているというわけではなく、何か台のようなものに乗せられて、高い位置から部屋の中を見下ろしていた。

あまりにも暖かく穏やかな部屋の中には、幼い赤子の笑い声が響いている。姿は見えないが、それをあやす女性の声とゆっくりとした足音とともにだんだんと近づいてきているようだった。


「さあ。見て、ティリ。彼が貴女の弟になる機械人よ」


扉を開けて入ってきたのは、金色の長い髪が美しい女性。腕にはふくふくと太った健康そうな赤子が抱かれており、彼女はその赤子を見て微笑む。赤子もまた相手が笑ったのを見て嬉しかったのか、きゃあきゃあと愛らしく声を上げた。

恐らく、親子だろう。きらきらと輝く翡翠色の目が同じだった。

母親がそっとこちらの方へ視線を向けると、赤子も涼やかな緑の目を追って己を見つめる。何とも不思議そうな顔だった。幼子と言うのはこうまで考えていることがわからないのか、と少し疑問に思う。

見つめ合う己と幼子をよそに、母親は微笑みながらまたこちらへ歩み寄ると先ほどよりも暖かな口調で語りかけた。


「ティリ、この子と仲良くしてあげてね。大丈夫、きっと仲良しになれるわ。だって、お父さんが貴女のために作ってくれたんですもの」


その声には反応せず、赤子はあまりにもまっすぐに己を見つめている。己も同じようにじっと見つめ返したが、やはり今回も体は動かなかった。

しかしそれでも、先ほどの記憶とは違い、切なさは湧いてこない。ただ金髪の母親が言ったように、この幼子と『仲良し』になれるのだとしたら、きっと恐らくそれは素晴らしいことなのだろうなと、漠然と考えた。

かちん、と再び、歯車が震えてかみ合った。


同時に、また場面が転換する。


「結局上手に『お前』を治すことは出来なかったな…」


今度目に入った物は、夜の闇だった。ただ、自分が同じ部屋に立っていることはわかる。すっかり日が落ちて明かりも消されているが、先ほどの母親と赤子が己に話しかけていた部屋で間違いなかった。

唯一の明かりは、目の前に立った初老の男が持ったランプのみ。分厚い眼鏡をかけたその姿に何故だか既視感を感じたが、はっきりと思い出すことは出来なかった。

男はレンズの奥ですっと目を細めて小さく笑うと、独り言なのか語りかけているのかわからぬ口調で呟く。


「だが、新しい命を吹き込むことは出来そうだ。私たちの新たな家族…『アレクサンドライト』」


男のしわのある節くれだった手が、ゆっくりと己の装甲を撫でる。固くごつごつしている、職人の手だと思った。それがあまりにも優しく己を撫でてくれる様は、少しだけむず痒く恥ずかしい。

口がきけるのならば「やめろよ」とぶっきらぼうに言ってのけて、振り払ってしまいそうだった。しかしこちらがそんな反抗期の子供のようなことを考えているなど知るはずも無い男は、柔らかく微笑んだまま続ける。


「あいつの目は一つしか回収できなかったから、赤と緑の、違う色の目だ。だから、アレクサンドライト、と…」


言いながらふと軽く息を吐いた男は、目を閉じて「いや」と首を横に振る。何かを思い出しているのだろうか、感慨深そうな面持ちでしばらく口をつぐみ、そしてゆっくりと顔を上げた。

しわの奥に隠れた緑の瞳には、うっすらとした涙の膜が張られている。何故だか、泣くなよ、と何処かで言いたかった言葉が胸の中に湧いて出てきた。

男は真っ直ぐに己を見上げる。あの母親と娘と同じ瞳をしていた。彼は薄い唇を震わせながら、何かに祈るかのように言葉を紡ぐ。


「『アレクサンドライト』。炎と平和、二つの世界を渡り歩いた機械人…。どうか色を変えて、あの子を守っておくれ」


―――ああ、わかった、わかったよ。約束だ。俺はあいつを必ず守るから。

かちん、と今一度、先ほどよりもずっと強く歯車がかみ合った。



アレクサンドライトはふっと停止していた視覚センサーを稼働させる。

機械人には必要のないその行為だったが、感傷に浸るにはちょうど良かった。だが、そんな心持ちでいたせいか、過去の…否、体験した記録のない昔の映像が回路の中で再生されてしまった。

己が製造されたときからメモリの片隅にひっそりと残っているそれは、果たして生まれる前に見た光景と呼ばれるものなのかはわからない。ただのエラーか、バグの可能性だってある。

それでもアレクサンドライトは、生まれてこのかたこの映像を消そうとは思ったことが無かった。むしろこれこそが己が生まれた意味なのだと、そう思って歯車の心臓を回転させてきた。

―――だというのに、まったく情けない。


「…ちくしょう」


ぶしゅう、と深く蒸気を吐き出して、天井をふり仰ぐ。ゆったりとカーブを描く狭い天井が、こちらを見下ろしていた。

アレクサンドライトは現在、ウインドマリー発、王都テトラトル行の蒸気機関車の席に座っている。車内には己のほかにも着飾った紳士淑女、そして機械人たちが乗り込んでおり、安息日でもないのに大変にぎわっていた。

ゴードンに不名誉な決定を下され、トストにウインドマリーから去るように言われたのは、昨日である。

もう少しこの街で対策を練ると思っていたのに、いくらなんでも行動が早すぎる。アレクサンドライトとしては、ウインドマリー家に直接文句を言いに行っても構わないとすら思っていたのだ。

それだと言うのに…蒸気で薄汚れた天井をひとしきり睨みつけたあと、アレクサンドライトはゆっくりと視線を目の前へと戻す。


「アレク?どうしたの?」


不機嫌な己の様子に、前の座席に腰かけていたティリがくりりと首を傾げた。やけに邪気のないその仕草に、思わず唸るような声を出して彼女を睨みつけてしまう。

何も言わずにセンサーの光だけ強めるアレクサンドライトに、ティリはひょいと首を竦めた。

その仕草に普段の簡素な作業着では無い、緑色の彼女の一張羅のすそがふわりと揺れる。去年の誕生日に新調したばかりのドレスは、ティリの翡翠の瞳に相まってよく似合っている。だが、今はとてもそれを褒めている気持ちにはなれなかった。


「…いいのかよ、このまま出て行って」


不機嫌に呟けば、目の前の彼女は少しだけ苦いものを滲ませたような表情で小さく微笑む。


「仕方ないよ。責任は取らなきゃ」

「だけどよ…」

「大丈夫。ほら、そろそろ出発するよ」


言われて、アレクサンドライトは見送りに出ているのだろう人々が立つプラットフォームを窓越しに見つめた。間を入れず、車掌が笛を鳴らす音があたりに響きわたり汽車が激しく蒸気の息を吐き出す。がたん、と車輪が回る振動が伝わり、列車はアレクサンドライトの感慨も不満も連れて、あっさりとウインドマリーを離れた。

もはや乗車を取り消すことも叶わない。遠く見えなくなっていく駅に後ろ髪をひかれながらも、しぶしぶと視線をティリに戻す。

少しは悲しそうな表情を見せていると思ったが、彼女はいくつも折り目のある紙を広げて食い入るようにそれを見つめていた。あまりにも未練の無い態度にまた一つぶしゅう、と不満の蒸気を吐き出しながら、アレクサンドライトは捨て鉢な気持ちで尋ねた。


「これから、何処へ行くんだ…?」

「うん、まずはウインドマリーの郊外に行こう。ロイロット様もそこを通ったみたいだから。そこから貴族の避暑地に行って…ええーと、ウインドマリー家の別荘は…」

「…ん?」


色々と予想外の単語が出てきた気がして、アレクサンドライトは背もたれに預けていた上体を起こしてティリに顔を近づける。ティリもまた己の行動が唐突だったためか、「ん?」と首を傾げて紙からこちらへ視線を向けた。

二人の視線がしばし無言で交わされる。言葉は発しなかった。何を言っていいのか、何を問えばいいのかわからなかったこともある。恐らくそれは、ティリも同じだっただろう。

一度、二度、視覚センサーを点滅させてアレクサンドライトは、ゆっくりと思考を安定させた。そしてまたゆっくりと発生回路を開く。


「俺たち、街を追い出されたんじゃなかったのか?」

「ん?んー…まあ、追い出されたっていうか、街では行動できないっていうか」

「…」

「でもおじいちゃんは最後まで責任を持てって言ったじゃない。関わってしまったからにはこの騒動を最後まで見守らないと」

「…」

「リリーナ様から手紙も着てたし…。ロイロット様はもうウインドマリーにいないって書いてあったから」


そこまで聞いて、アレクサンドライトはがくりと大げさに肩を落とした。

つまり、つまりだ。トストはティリに騒動を起こした責任としてクビにしたわけではない。責任を取り事態を収拾させろ、と言って街から出したのだ。思い出してみれば昨日の会話からは確かにそう言った意味も読み取れる。

むやみやたらに落ち込んでしまったのは自分だけか…となんとなくアレクサンドライトは情けなくなった。

先ほどまでのもやもやした気持ちと行動を思い返して恥ずかしくなり、無言で歯車を鳴らす己を見て慌てたのか、ティリが「大丈夫?」と尋ねてくる。


「もしかしてアレク、私が夢を諦めたのかと思ってた?」

「…悪ぃかよ」

「あ、ご、ごめん。確かに私も説明が足りなかったよね」


眉を垂れ下げて謝罪するティリに、アレクサンドライトは少しだけ怒ってやろうかと思った―――が、やめる。結局は自分の早とちりだったのだ。彼女とて自分のことで手いっぱいだったに違いないし、己も当然わかっているものと思っていたのだろう。

今更感情でどうこう言っても仕方がない。納得した風にぶしゅう、と蒸気を吐き出すとティリは安心したように微笑み、そして表情を引き締めた。


「アレク、これが最後のチャンスだよ。上手に事態を解決出来なきゃ、私たちは本当に街を追い出されちゃう。それは、嫌だよ」

「…ああ、そうだな。こうなったらロイロットの奴を見つけ出して、直接謝罪させてやろうぜ」


誰かに聞かれれば不敬罪を問われそうな言葉だったが、ティリは咎めることはしなかった。

代わりに一つ頷くと、「がんばろうね」と力強く言った。

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