09
義足の老メイド、ゲルダが微笑ながら去った部屋は、言いようのない沈黙に包まれていた。アレクサンドライトもティリも、何も語ることなく神妙な顔で手元を見ている。先ほど見たゲルダの右足が衝撃的過ぎて、何も言うことが出来ないのだ。
50年前の大戦。昔を語る本や当事者たちの話でそのことを知ったつもりになっても、それはただの知識でしかない。現実にあったことだという証拠を見せられればその痛ましさに声が出なくなる。
先ほどのやかましさを忘れてしまったかのような二人をじっと見ていたリリーナが、ふと静かな声でぽつりと言った。
「ゲルダは戦争終結間際に起こった『機械の暴炎』による被害者なのです」
『機械の暴炎』。
聞いたことのある言葉にアレクサンドライトもティリも下がってていた視線をリリーナに向ける。50年前の戦火のことを書く書物の中で、一際大きな題目で語られる事件の一つである。
それは戦争終結から一年程前…今から51年前のこと。『リングリラ』から攻めてきた機械兵器と機械人に対抗し、『テトラトル』の軍隊はウインドマリーの街から僅かに離れた場所で戦闘を繰り広げた。
その近くにある小さな街や村も戦火に巻き込まれて焼かれ踏み荒らされ、人々は逃げまどい大変な混乱が起きたという。
だがその戦で最も悲惨だったのは、規模が大きかったことではない。
両国の戦闘兵器と機械人にいまだに原因不明のエラーが起き、暴発。
敵も味方も人も機械も関係なく、全てが大きな火の海に包まれた事故が起こり、火災は一週間続いた。村も畑も森も野も全てが燃え、焦土以外何も残らなかったという記録はきっと誇張ではないのだろう。絶望の代名詞として語られるその事件は、その場で戦っていた両国の兵士たち、そしてウインドマリーの民たちから生きる希望を根こそぎ奪い去った。
その中で立ち上がったのが当時のウインドマリー辺境伯…ロイロット・ウインドマリー現辺境伯の祖父である。
彼は事件が起きたすぐに現場に急行すると、連れてきた兵士たちに指示を出し火災の消火と人命の救助に努めた。
老若男女、人間、機人械、村人、兵士、そして敵味方の区別なく手厚く救護する彼の姿に、当時の人々は統治者としての品格を見たと言う。事実、辺境伯の迅速かつ的確な行動で助かった命も多いと聞く。
当時の辺境伯が、戦争を体験した人々を中心に人気が高い理由であった。
そして先先代辺境伯はこの事件を重く見て、これ以上両国の血を流すことの無益さを訴え、テトラトル国王に和平を進言。『機械の暴炎』により軍に甚大な被害を被っていた両国は会談を開き、一年後に平和条約が結ばれた。
こうして戦争は終わったのだ。
「ウインドマリー家は今もあの戦争…特に『機械の暴炎』によって被害にあった方を中心に援助をしています。能力を買われてウインドマリー家に仕えている方も多いんですよ」
「…ゲルダさんもそうなんですね」
「ええ、それに、ゴードンも…お父上の代からウインドマリー家に仕えてくれています」
「え?あのおっさんもか」
あまり良い印象を持っていないためかつい悪態をついてしまったアレクサンドライトの脇を、ティリが肘でつついた。
やべえと横目でティリの半眼で睨む顔を見て、恐る恐るリリーナを見たが、深窓の令嬢は一瞬きょとんとした後、すぐにくすくすと笑いだす。
「気にしないでください。ここにはわたくし以外の目も耳もありません」
「わりぃ…いや、すみません」
「いえ、貴方がたがゴードンに理不尽に疑われたことを考えれば仕方のないことです…。でもこれだけは知っておいてください、ゴードンは当時の辺境伯様にとても恩を感じているのです。だからこそロイロット様の変貌が許せないのでしょう」
何としても現辺境伯である彼の暴走を止めなくてはならない。強く責任を感じているのだろう、とリリーナは語って、喉を潤すためかティーカップを手に取った。湯気の無い、すっかり冷めた様子の青い紅茶を一飲みし、彼女は視線をゆっくりと庭の方へ向ける。あまりにも悲しげな横顔だった。
何を見ているのか、彼女の視線の先は広く美しい庭が広がっているばかりで、特定のものを見ている様子は無い。テラスから見える景色は確かに人の心を打つものだが、リリーナがそれを楽しんでいるようには決して見えなかった。
アレクサンドライトとティリ、二人はかける言葉を探して深窓の令嬢の横顔をじっと見つめていると、その視線に気付いて彼女は振り返り、薄く笑う。
「わたくしはロイロットさまの真意が知りたいのです。エリウットさまやゴードンは責任感の強さから彼のことを非難しておりますが、わたくしは彼が簡単に辺境伯の職務を放棄するとは思えないのです」
「リリーナさまは…辺境伯様のことを信じていると…」
「信じている、というのとは少し違う気もするのですが…、何だかあの方に違和感を感じてしまって…」
言いよどむリリーナに、アレクサンドライトはティリと顔を見合わせた。
聡明な受け答えをしているように見えるフレイムミル令嬢だが、やはり恋の魔力の前では盲目になってしまうということだろうか?アレクサンドライトはロイロットが酒に酔ってぐだぐだと一騒動起こした姿を見ているため、とても彼が元は真面目な辺境伯だったとは思えない。
しかしティリはアレクサンドライトのように盲目的なリリーナを軽んじる様子を見せることは無かった。視線を膝元に移動させてからしばらくあごに手を当てて何か考えたあと、観察するような瞳を前に向けて問いかける。
「リリーナ様が感じた違和感、と言うのはなんでしょうか?」
「そう、ですね…特に気になったのがにおいです」
におい?首を傾げるアレクサンドライトに、ティリははっとした顔になって「そういえば」と唇だけで呟く。何か閃いた様子の彼女に「どういうことだ?」と尋ねると、視線だけをこちらに向けて深刻な顔つきでティリは答えた。
「この前見たロイロット様、顔は赤かったけどお酒のにおいが全然しなかったんだよ」
「はあ?」
「そう、そうなのです!その、私の父も酒豪だったのですが、お酒をたくさん呑んだ方は独特のにおいがするでしょう。ロイロット様は歩みが不自由になるほど酔ってらしたのに、においがまったくしないなんておかしいな、と」
ぽんと軽く両手を合わせて同意するリリーナに、ティリもそうですよねと頷く。だが説明されてもいまいち理解できず、アレクサンドライトはぶしゅう、と唸るような蒸気を吐き出した。
自分たち機械人にはにおいを感じるセンサーが無い。発せられる成分や濃度を測ることは可能だが、それを人間がにおいを感じ取る嗅覚と混同してしまっていいのか疑問だった。ロイロットに出会った夜、アレクサンドライトは特にその機能を使うことは無かったので、彼からどんな成分が発せられていたのかは自分にはわからない。
首を傾げる自分にティリは苦笑して、「お酒のにおいは人間にはかなり特徴的なんだよ」と言った。それにさらに疑問が深まる。
「でもよ。あの時は結構ヒトがいたし、職人街はオイルとかにおいがするんだろ?気付かなかっただけじゃ…」
「わたくしがロイロット様に会ったのは、彼の自宅です。そこでもやはりお酒のにおいはしませんでした」
きっぱり言い切ったリリーナに、アレクサンドライトは押し黙る。彼女がこうも自信を持っていることと、ティリの言葉でアレクサンドライトはそういうものなのかと納得した。
だがそれほどまでに特徴的なにおいがしなかったと言うことは、いったいどういうことなのか?
「ロイロット…様は酒を呑んでなかったってことか?顔真っ赤にしてたのに」
「顔色は化粧で何とでもなるし、足取りや口調もなんとでも出来るよ。…つまりロイロット様は酔ったふりをしてたってことかな?」
「しかし、何故彼はそんなことをしたのでしょう?ロイロット様は特にお酒が弱いわけではないですけど、あえて酔ったふりをしてお酒を断っていたのでしょうか?」
婚約破棄の末の堕落と放蕩にしては、その答えはお粗末だ。他国との友好の証である婚姻を無碍にするような男が、今更酒豪のふりをして体面を気にするとは思えない。他に酒に酔っているように見せかける理由とは一体何か?
しばらく三人は額をつき合わせて悩んでいたが、ここで考えていても正解が降って沸いて出てきてくれるはずもない。事件に関しての取っ掛かりのようなものは発見できたが、推理するには材料が少なすぎる。
これ以上の思考を諦めてか、ふう、と一つため息を落としたティリが、改めてリリーナに向き直った。
「リリーナ様。私たちは自分たちの汚名をすすぐためにこのことを少し調べてみようと思っています。その…リリーナ様もご自分でロイロット様のことを調べていたんですよね」
「はい。あの地区でロイロット様とスティングが歩いていたのを見たと聞いたもので…」
「それであんなとこまで一人で行ったのかよ。無茶が過ぎるぜ…いや、すぎます、ね」
言い直したアレクサンドライトにリリーナは少しだけ困ったように笑って、「本当にお世話になりました」と頭を下げる。その礼に最初に見た悲痛さは感じられなくて、彼女の心が少しだけ和んだのだろうかと思った。
アレクサンドライトと同時にティリもまた深窓の令嬢の態度が砕け始めたことに目を細めていたが、すぐに顔を引き締めて申し訳無さそうに告げる。
「リリーナ様、心がけはご立派ですが、今後また危ない目に合うかもしれません。貴女が危険な目にあったら、今度こそ『テトラトル』と『リングリラ』の関係にひびが入りかねないです」
静かだがはっきりと言われた言葉に、リリーナが無言で目を閉じた。
50年前まで長きに渡り戦を続けていた『テトラトル』と『リングリラ』。今でこそ戦火の影など見えない両国だが、50年という和平は長いようで短い。誰かのちょっとした行動が、最悪の結果に転ぶことにもなりかねない繊細な時期なのだ。
だからこそエリウットとゴードンはロイロットの放蕩に怒りを感じ、慎重に動いていたのだし、リリーナもそれを憂いた。最もそれは焦りとともにあったために、両者違う方向へと暴走してしまった結果になったが。
彼女自身それは身に染みてわかっているようで、伏せていた目を開けて「はい」と頷く。
「軽率な行動をしてしまったことをお許しください。でも、わたくしもロイロット様の真意を知りたいのです」
ですから、と一旦言葉を切って、リリーナはひどく悲壮な、そして強い光を宿した瞳で真っ直ぐこちらを見つめる。
「お手伝いをさせてください。無茶は絶対にいたしません。ウインドマリー家内で起こったことでしたら、私でも調べられると思います」
突然の申し出に、アレクサンドライトとティリはぎょっと目を見開いてリリーナを見つめ、そしてお互いの顔を見合わせた。
驚きと、どうするべきかと言う迷いがティリの顔にありありと浮かんでいる。アレクサンドライトもまた、リリーナの切なる訴えを無視して屋敷で大人しくしていろという言葉は、流石にすぐには口に出来なかった。
改めて深窓の令嬢に視線を戻し、その真剣さを目の当たりにする。よほどロイロットのことが心配なのだろうか、断ってしまったらまた再び自ら行動を起こしてしまいそうだと感じた。
ちらり、と視線のみをティリに向ける。彼女はとても悩んだ様子だったが、思いつめたリリーナに一つため息をついてしぶしぶと頷いた。
「わかりました。もし私たちが知りたい情報を調べられるようでしたら、調べてくれますか?私たちも調べたことは逐一報告します」
ただし絶対に無茶はしないこと、と付け加えて告げたティリに、リリーナは花がほころぶが如く嬉しそうに微笑んだ。