母のノート
私の子どもへ。
息子なら愛作、娘なら愛実がいい、って私が言ったら、あなたのお父さんは笑顔で素敵な名前だ、って言ったんだよ。愛って字は絶対に入れたかった。愛を持った人になって欲しかったからね。男の子だったら、小さい頃は周りのお友達に笑われちゃうかな、って心配はしたんだけど、男の子でも女の子でも、心に愛を持つことは大切なんだよ。誰かを思いやるとき、植物や動物を育てるとき、自分を大切にするとき、愛がなければ出来ないことがいっぱいあるんだよ。誰かや何か、大切にすることってみんな愛だと思うんだよね。だから、愛を忘れないで。
もし、誰かを傷付けるような事を言ってしまったときは、ちゃんと謝って仲直りをするんだよ。これが出来なかったら、あなたは大切な仲間を少しずつ失っていくよ。人って一人じゃ生きていけないから。一人ぼっちと感じたり、一人の方がいいって思うときが生きていれば誰だって何回かあるものだけどね。私もそうだった。でも、実際はそうじゃなかったんだ。私は会社に勤めた頃、全然馴染めなくて酷いことも言われたから、本当に一人ぼっちで、むしろ一人の方が楽だと思ってた。周りが全く見えなかったんだ。だけどね、たった一人、私が気付かないうちから助けてくれた人がいたんだ。浮いてた私にちょこちょこ話しかけてくれたり、休んだ時の手続きをしてくれたり、重いものを運んでる時に手伝ってくれたりした人がいたんだ。なんだ、そんなことかって思った?確かに小さなことかもしれないね。でも、自分は一人って勘違いをしてる時にこういうことをしてもらえると、たとえ小さなことでも大きな助けになるんだよ。私もすごく心強く思えた。この人が、あなたのお父さんなんだよ。ええっと、ごめん、話が逸れちゃったね。こんな風にね、人は一人じゃないし、一人で生きてるわけないんだよ。だから、周りにいる人を大切にしないと駄目だよ。最低限、お礼とお詫び、挨拶はちゃんと言える人になってね。これが出来れば人として上出来だよ。
人に迷惑さえかけなければ、あなたはあなたの大好きを大切にしてほしいな。自分の好きなものって、人に決められるものではないでしょう?自分の中の何かにときめくものを覚えて、好きになるんだもの。何でそれが好きなの、って聞かれることは生きていれば必ずある。聞いた相手はどんな理由で好きなのかを知りたいんだよ。私も人にそうやって聞いたこと、何度もある。聞かれたことも何度もあるよ。聞かれたときに、はっきりと答えられないことがあるかもね。答えられなかったからって、あなたの大好きを捨てる必要はないよ。好きになった理由がはっきりしている場合だってある。でもね、なんとなく好きになったって場合の方が多いと私は思うな。自分でも分からない自分の中のツボにハマってるんだもん。はっきり説明することのほうが難しいと思わない?だからね、周りの人に何を言われても、あなたの大好きを大切にしなさい。そのほうが、人生が豊かになるんだから。
相手の大好きがあなたにとってはあんまりってこともきっとある。その場合は、理由をちゃんと言えるようにしないと駄目だよ。好きになる理由ははっきりしなくても、好きになれない理由ははっきりしているものだから。理由がはっきりしないなら、それはあなたが触れる前に逃げてるだけ。そんなときは相手の大好きに触れなさい。触れてから判断するべきことだよ。触れてみて、好きになるかもしれないし、好きになれなかったらそのときは相手に自分の意思を伝えなさい。我慢する必要はないんだよ。人はみんな、どうしても受け付けないことがあるからね。でも、触れずに全否定してしまうのは相手に不快な思いをさせるだけだから、勧められたら一度は頑張ってみなさい。
思春期になれば、お父さんとぶつかることが増えてくるかもね。クソ親父、って思うこともあるかもしれない。さっきも言ったけど、あなたのお父さんは私を助けてくれた救世主。とても優しい心を持った人だよ。喧嘩して、すぐには謝れなくて、口を利かなくなる、そんな態度をあなたがとっても、お父さんはあなたを嫌いになることはない。邪魔にも思わない。思春期だからしょうがない、くらいに思って、時の流れに任せるだろうね。だから、いつもと変わらず、仕事も家事も淡々とこなすんだろうなあ。さっきは、すぐに謝れって言ったね。でも、思春期真っ只中のあなたとお父さんとの関係は複雑かもね。すぐに謝れないかもしれない。もし、そうなったら、何か月、何年経ってもいいから、素直になれたときに謝りなさいよ。きっと、お父さんは全然気にもしてないだろうけどね。お酒を飲める歳になったら、一緒にお酒でも飲んで、本当の気持ちをぶつけ合うのもいいかもね。気持ちが顔に出にくいお父さんだけど、優しさは本物だし、あれで案外楽しんでるんだよ。
息子・愛作、娘・愛実。愛を作り出す男の子と、愛を実らせる女の子。あなたはどっちかな?私はそんなことも分からずに、姿を消してしまって、本当にごめんね。どっちであろうと、私は遠くから、あなたの事を大切に思ってるからね。伝えたいことは、まだまだいっぱいあるけど、あまり長すぎてもあなたが疲れちゃうし、時間取らせても悪いしね。人生は長いけど限られてる。突然終わる事だってある。苦手なことが多くても与えられた時間を楽しむ資格は誰にだってある。楽しめないときもあるけど、それも人生の糧になることもある。人の道だけは絶対に踏み外さないで。胸を張って、あなたの人生を歩みなさい。母より。
この場所に眠って五十年前後。夫に連れられてよくここに来てくれていた男の子が一人でやってきた。随分老けた。私が眠る場所の目印となる石の前に花を手向けて、こちらに向かって話しかけた。
「父さん、そっちの暮らしは慣れたか?俺も、だいぶ落ち着いたよ。」
そういえば、最近私の周りに誰かが来たらしく、一人分の空間が新たに追加された。まだ、その誰かを見てはいない。
「父さんの部屋を整理してたら、母さんのノートを見つけたよ。正直、嫉妬した。俺のより長くて、母さんから愛されてたんだな。俺も母さんに会いたかった。でも、こればかりはしょうがないか。母さん、俺にもノートを残してくれて、父さんよりは短いけど、そのお蔭で辛いときは何度だって救われたんだ。」
少しは役に立てたらしい、ということが分かって、今更ながらホッとした。私の息子・愛作は立派に大人になって、結婚もして、子どもも男の子と女の子の二人出来た。結婚してからも、年に一回は家族四人でここに来てくれていた。
「優作は来月から海外出張らしい。二か月で戻って来るけど、やっぱり少し寂しいよ。愛実は国家試験に合格して、春からは看護師として近くの病院で働くよ。俺と奥さんも、落ち着いたら若い頃みたいにたまには一緒に旅行に行こうって話してるんだ。俺も奥さんも、子ども達も、みんなちゃんとやってる。だから、俺らのことは心配せずに、ゆっくり休んでくれよ。父さんがいなくなって寂しいけど、父さんも久々の夫婦水入らずだろ?」
愛作のその言葉が終わると同時に、若いままの私の手にしわくちゃになった手が添えられた。老人がこちらを見つめている。変わらない。顔には出さないが、優しさと温もりはあの頃と何も変わらない。あなたも、とうとうこちら側に来ちゃったんだ。でも、やっと会えたね。
「じゃあ、今日は行くよ。母さん、父さんをよろしくな。」
楽しかったこと、辛かったこと、驚いたこと、こっちに来てからすぐに会いに来てくれなかった事、いっぱい聞きたい。でも、今は疲れてるだろうから、一気には聞かない。時間はあるからゆっくり聞かせてもらおう。
長い人生、お疲れ様。生まれ変わったら、あなたとまた結婚して、今度は私も一緒に長く人生を歩みたいな。