三
彼は翻り、元いた場所に戻る。
そして先ほどはあえて注視しなかった左側、人影の方、に身体を向け視界を移す。
動き軽やかに。
ふわりふわりと誘い出される足取りで、彼は彼らに向かい歩き出す。恐れなどない。
動き軽やかに。
人影
二人の人影は近づいてもなお黒く、なぜなら彼らは黒い布を頭から足元へ、全身を覆っていた。
「もしかしたら中身は布に包まれた液体かもしれない」と彼に思わせる程に、布は水の表面の様に波打っていた。
「人が中に入っているのかわからないが、入っていると思えなくもない」
歩き近づくと、一人が布の中から声を発してこう言った。
「ここから先、止まってはいけない、走ってもいけない、体を掻いてもいけない、目をじっと閉じてもいけない、振り向いてもいけない。一つでも破れば、あなたは死んでしまうだろう」
彼は暗にこれを了解した。問いも否定も彼の思考の視野には映らなかった、映らないことに対する疑問でさえも姿を隠していた。
二人を横から通り抜けると、もう一人が言った。
「あ、そうだ、待ちなさい」
彼は止まりかけた。
しかし、止まらなかった。
罠だと気付いたからだ。
「ふふ」と微かな笑い声が聞こえた。
彼は歩いた。
道の終わりは見えず、白く細い道が続いている。一体こんな無責任な黒板は有り得ようか。
二人を通り抜いてから風景は全く同じ、道以外は何処までも砂利畑、空は銀青色。このよく似た二つの世界は重なり合い、そして共謀して、その境界を彼には教えようとしない。
彼は歩いた。
人影
歩いていると、先ほどの二人と同じ姿をした者十数人がふっと、日本刀をもって現れ、彼を円状に取り囲み、その冷え過ぎた日本刀を振り上げ襲い掛かった。
彼はこれも罠だと思い、斬られる事はないと考えたので、目を瞑らず、歩みも変えず、そのまま進んだ。こう皮肉に考えながら。
「あえて切られてやろうか?」
すると日本刀はそれぞれがそれぞれに当たり、一人消え、二人消え、歩き続けるといつのまにか、全員消えていった。
彼は歩いた。
不快な重い気配
歩いていると、次は巨大で不快な重い気配が後ろから迫ってくるのを感じた。
捕食者の口が切に身に迫る気配。
先ほどの者らの時よりかは少し恐怖を感じたが、彼はけっして走らず、振り向かず、ただ歩いた。
すると、一匹の真白な金魚が足元を泳ぎながら通り抜け、恐怖感も連れて道を逸れ、消えていった。
「いつまで歩けばいいのだろう。風景が同じだと歩いているという事実も見失いそうだ」
意識が朦朧としていることにも気付けず、彼は前を見、少しふらつき始めながらも歩いた。ふと両手の石を握ってみた。左手の感覚にも明らかな変化が現れる。
「どうやら左手の神経は疲れてお休みか、もしくは気分転換のお出掛けか」
右手はまだ彼に従順にその刺激を伝えていた。
彼はこのただ歩くという行為がこんなにも苦痛なものかと考えていた。
しかし、そうは考えていたが、その程度ほどには苦痛の実感は彼に追いついてはいなかった。追いつくこと自体、既に放棄してしまったのだろうか。
彼は歩いた。
糸柳
歩いていると、幽かに、一本の糸柳が遠くに見え、この道を遮っている。
ここまでにどの程度の時間を費やしたか、それを彼は誰かから伝えられれば二日でも二年でも疑いもせずに納得しただろう。
そもそも今の彼には客観的数字も、それどころか主観的判断でも、時間や距離など意に介していなかった。
彼はこの訪れた変化にほっとし、あと少しでこの苦難も終わるのかもしれないと気は急いた。
「果たしてこれは苦難だったのか?それすらもはや私にはわからない」
糸柳に近づいていく。歩みを止めるわけにもいかない。
その痩せた滝の様な姿を彼に見せる葉らは皆、唐紅色。囁きの音楽。恥ずかしげもなく。むしろ親しげに。
そのとき彼の目にこの葉らの一糸がすっと入り、不意にそれを感じた彼は右手の石を落とし自分の目を掻いた。