一
暗闇の後。
材木
或る時、彼は自分の眼前に材木が聳え立っていることに気付く。
互いに動きもしないのに、彼と一片の材木との距離は三秒程の経過と共に離れていった。
するとそれは、一つの建物であった。
離れた、といっても材木のみを視界全体で捉えていたのが、その壁全体、似通う材木の仲間らと、屋根の薄黒い裏側、建物を地から支える四の石柱とその間にだけ建物の他の箇所と異なる冷えた匂いの漂う空間、を確かめることのできる距離へと移っていったにすぎないのだが。
彼は建物自身が動き離れていったなどということは有り得るはずもなく、「目の奴め、どうやら何かに誘われてあの材木ばかり眺めていたのだな」 と考えた。
何かあれだけに彼の目を誘惑する特徴でもあるだろうか、或いはもはや忘れ去られた仕草が?
「目が何かに急かされて私より前へ間違って出てしまったのか、内証でこっそり脱け出して覗き見していたのか、理由は目に聞かないと判らないが、目には耳も口もないからな」
正確には、その視界の収まりの過程で彼と目が捉えた映像には粘り気があって、つまりその分だけ普段あるべき視界と距離と時間の関係は仲違いした。
その映像は最初、重くだらしなく彼との中点に向かい線が集合する様に引っぱられて、言い換えるなら萎んでいく様に、収まっていき、中点からは逆に視界は速度を徐々に増し距離と共に放射線状に広がっていった。
この粘着性のため稀有な世界は時間に逆らったが、彼と目は三秒程で通常あるべき状態を取り戻した。
「あの世界、外から誰かが手で真ん中を摘んで上に引っ張ったらどのように見えただろう」
などと、彼は詰まらない思いつきと暫し戯れながら、
「この勝手で愚かな目が少し前の空間にくっついていたのだろう。一体、空間が悪戯をしあの粘りの犯人なのか、空間と材木は共犯関係なのか、目自体に粘着性があるのか。それともまさか、目が材木に未練でも感じたのか」
気怠そうに一呼吸を置いて、
「特に違和感こそないが、この目を洗いたい。もしかしたらいい懲らしめになるかもしれんし、…万一腫れでも出来たら敵わん」
寺
漸くして彼は前の建物に意識をやる。
「外観から判断するに、これは寺だな」
といってもそれは彼の憶測で、以前この建物を何処かで見た記憶があるわけでもなく、単に側面を一見で安に認めたにすぎない。
「いや違う、私は確かに夢でこの場所に来た気がする」
建物自体が何であろうと彼にとって大した問題ではないのだ。
石
彼は右手の中に幾らか刺激を伴う突がりを備えた銀青色の石を握っていることに気付く。
それに気付くと、仄かな刺激を感じるまで、きゅっと軽く握った。
彼には石が右手に包まれて、そこにあるということが瞬に分かった。
さして、そうすることは彼には必然だと思えた。
彼は、「早かったな」と呟いた。