配られた五枚のカード 1
北海道の六月といえば、まさに珠玉の季節である。
梅雨もなく、空気はからりとして、最高気温は二十度をこえる程度。
深緑のきらめく晩春から初夏。
最も過ごしやすい季節であり、長い長い冬から解放された北の大地が、一斉に活動をはじめる時期だ。
「そして、他のものもな」
男が呟いた。
開業したばかりの新函館北斗駅。
白とライトグリーンに塗装された北海道新幹線から降り立ち、北辺の空気を肺に取り込む。
ごくありふれたスーツ姿にキャスター付きのキャリーケース。
整えない前髪に中肉中背の体つき。
出張のサラリーマンといって、疑うものは誰もいないだろう。
「さあ、茶番の始まりだ」
皮肉げに唇を歪め歩き出す。
ホームから、レンタカーの受付カウンターへと向かって。
澪。
道南は渡島地方に存在する小さな小さな漁師町。
一昨年前なら、ほとんどの者がそう答えただろう。否、その名を知る者すら稀だったかもしれない。
しかし、いま違う。
巫という一族が街を牛耳って以来、澪の名は特別な意味を持つようになった。
日本国と比肩しうる存在。
たとえば、総理大臣が孫娘を人身御供として眷属に差し出すほどの。
北海道の片隅の小さな街が、日本、アメリカ、ロシアを相手取って戦い、しかも常勝不敗!
事情を知らぬ者が聞けば、馬鹿馬鹿しさに大笑いするだろう。
だが、わずかでも真相を知る者には、まったく笑えない。
なにしろ、支配者である巫というのは、人外である。そしてその周囲に集うのは、女神の末裔、鬼の一族、神の転生、勇者に忍者、人間。まさに百鬼夜行だ。
「そして、今まで勝利に導いてきた男が、澪を離れる」
デスクに両肘をつき、手を組んだ男が告げた。
ゆっくりと、歌うような口調で。
無個性な執務室。
だいぶ白いものが多くなった髪、穏和な表情に隠された眼光は鋭い。
「進学と、政府への協力ですね。どちらが名目か判りませんが」
応えるのは若い男。
三十には達していないように見えるが、じつは三十代と言われても、四十代だと言われても、不思議と納得してしまうような、つかみ所のない雰囲気だ。
「どちらも名目ではないさ。それに、問題となるのはそこではない」
「わかっていますよ」
やや険しさを増した上役の口調に、肩をすくめてみせる。
恐るべき軍師が澪を離れる。
まさにそれこそが重要なのだ。
勝利の方程式。
あの異相の男がある限り、澪に手を出すことはできない。どんな策略を巡らせても見透かされ、どれほどの作戦でも打ち破られるから。
むろんそれは錯覚である。
彼の魚顔軍師とて生きた人間であり、無謬ではありえない。
しかし、思ってしまうのだ。
何をしても、どんな手を打っても、怜悧なる魚顔の手のひらの上なのか、と。
それこそがあの男の恐ろしさ。
証明するかのように、澪は勝ち続けた。
自衛隊に、ヴァチカンに、バンパイアロードに、アメリカとロシアの連合軍に。
いずれも圧倒的大多数で攻めたにもかかわらず、辺境の小さな街に大敗を喫した。
いくら澪の戦士たちが怪物揃いといっても、この結果は明らかにおかしい。
百に届かない戦闘員で、六千名に迫ろうとするアメリカ・ロシアを撃退するなど、笑い話にしかきこえない。
その笑い話を演出した男が澪を離れる。
それは、まったく笑えない事態だ。
「もちろん、澪の頭脳は彼だけではない」
「はい」
「第二席、第三席の軍師も無視できぬ有能さを持っている。それに、御前の軍師を務めた者が、客将として身を寄せている」
「はい」
魔王の姪たる次席軍師。怜悧なる魚顔の薫陶よろしきを得ている第三軍師。
とびきり優秀な人材だ。
天界一の知恵者とまでいわれた客将の力量も、侮ることは絶対にできない。
「だが、やはり穴は大きいだろうな」
「でしょうね」
比較する対象が巨大すぎる。
あれと比べてしまえば、どんな人材だって見劣りしてしまうだろう。
魚顔軍師のいない四年間、最小で見積もって二年間が、勝負の時になる。
関係するすべての陣営がそう考えるのは、むしろ当然だ。
「ゆえに、君の任務はこの機に乗じようとする毒虫どもの蠢動を阻害し、排除することだ」
「はい」
男たちが会話を重ねる。
互いに愛想笑いすら浮かべず。
上役がちらりと視線を走らせた。部屋の隅に置かれたキャリーケースに。
「その中には、君が入っている」
男が演じるべき役割、経歴、性格、癖、そして、現時点で彼の陣営が掴んでいる他の陣営の情報。
「出立までに完璧に叩き込んでおけ」
「言われるまでもありません。ところで」
「なんだ?」
「事が荒立ったときについて、確認しておきたいのですが」
「任務に支障ありと君が判断したときは、必要な対応をしてかまわない」
「良かった」
「ただし」
「はい」
「枝の一本、葉の一枚といえども、揺らすことは許されない」
殺してもかまわないが、それをけっして澪の人間に悟られてはいけない、ということだ。
もし敵対組織と戦うことになったら、証拠も、それどころか殺人が起きたことすら、誰にも知られないよう処理する。
万が一にでも事が表沙汰になれば、間違いなく澪のモンスターたちが介入してくる。
ただの人間では対抗することのできない怪物たちだ。
絶対に悟らせてはならない。
「安んじて、お任せあれ」
にやりと笑い、男が一礼した。
優雅に。
大学生というのは、だいたいにおいて飲み会ばかりしている。
などというのは、泡沫経済時代の認識であるが、現在においても、じつのところたいして変わったわけではないだろう。
社会に出てしまえば、そうそう勝手に自分を処することもできない。
「好きなことできるのは、いまのうちってねー」
すでにむちゃくちゃ勝手なことを言いながら携帯端末を操作し、合同コンパの誘いに了承の返答を送る女性。
函館に存在する女子短期大学の一回生。
名を、安寺琴美という。
栗色の髪と同色の瞳をもつ歴然たる美女だ。
澪の生まれで、べつに函館で一人暮らしをすることもなく、片道五十キロ弱の道のりをマイカー通学している。
十八歳で自家用車保有というのもなかなかすごいが、自分の金で買ったものではなく、大伯父からの入学祝い品だ。
何を隠そう澪の魔王というのは、彼女の血縁なのである。
つまり、彼女もまた人間ではないということだ。
「アンジー」
背後から愛称を呼ばれ、琴美は振り返った。
さらさらとセミロングの栗毛が揺れる。
「今夜の合コンいくの?」
短大に入ってからできた友人である。
「うん。いまOK出したよ」
「みらい大学でしょ。有望株がそろってるかも」
並んで歩き出す。
花の女子短大生。
飲み会の誘いなど掃いて捨てるほど、とはいえない。
金を使うのが格好良かったバブル時代とはやはり違うのだ。日本の景気は少しずつ上向いているとはいうが、残念ながら就職戦線は相変わらず買い手市場だ。
東京などの大都市ならともかく、地方都市では求人そのものが少ないのである。
そうなってくると、むしろ永久就職しちゃった方がラクかな、などと考える女性だって少なくない。
「どうだろうねー?」
曖昧な笑みを返す琴美。
国公立大学の方が、たとえば私立文系に比較すれば就職先の選択肢は豊富である。
函館みらい大学の学生を有望株と友人が評したのは、そういう意味だ。
「アンジーは良いよね。もう就職先も決まってるんだからさ」
積極的な同意を得られなかったためか、やや不本意そうな表情を友人が作った。
これには琴美も苦笑するしかない。
就職先の心配をしなくて良いのは事実だろうが、その就職先が年に何度も襲撃があるような場所であるというのは、はたして羨望に値するだろうか。
世にブラック企業と呼ばれる会社だって、そう滅多に敵襲はないだろうし、実弾や超能力や魔法が飛び交ったりはしないと思う。
琴美が配属されるのは常に最前線であり、将来的には次期当主の秘書たるを望まれている。
けっして安穏な立場ではない。
「就職決まらなかったら、アンジーのお世話になっちゃおうかな?」
「え? いいよっ! 是非きてっ!」
冗談口に食いついたりして。
なにしろ澪は人材不足である。優秀な人材は、それこそいくらでも欲しい。
彼女たちが籍を置くのは『こども学科』。ようするに幼稚園教諭や保育士の卵たちだ。
これからの澪ではどんどん需要が高まってゆくだろう。
「好待遇を約束するよ!」
「や……目が怖いんだけど……アンジー……」
けっこう退いちゃう友人だった。