俺は愚か者だった。
「‥‥‥あ、来てたんですね、おかえりなさい」
おかえり、とチヅルが俺に向けて言ってきたのは初めてだった。
自分が何を言ったのかあまり理解していないのだろう。その言葉は、俺がチヅルの生活の一部に入り込むことを許容したように聞こえる。
浮わついた心臓を無視してただいま、と返すが、返事は帰って来ない。
「‥‥チヅル?」
「先お風呂に入ってもいいですか?」
チヅルは無理に明るく振る舞っているのか、いつもより2倍程軽薄さがましたへらへらとした笑みを見せた。そして、俺の目を見ないまま風呂場に駆け込んでいく。
「チヅル?服は、」
追いかけようとしたその時、壁を殴ったような鈍い音に肩が跳ねる。
「チヅル?」
返事は、ない。
気配を消してチヅルの元に向かうと、座り込んで壁に額を付ける姿が見えた。落ち着こうと深呼吸をしようとしてはいるが、無理に吐き出された息はやけに大きく震えている。
「、」
どうした?
そう言おうとして、口を閉じる。
俺が何があったのか聞いていいという道理があるだろうか。
初めて会ったときに血だらけであったし、沢山の事を秘密にしている俺にチヅルは気付いているだろう。倒れてる他人を助けると面倒なことに巻き込まれる可能性も考えたに違いない。
だが、俺を見捨てることができなかった。だからこそ何も言わず看病してくれたのだろう。
チヅルは十分すぎるほど優しかった。優しいからこそ何も言えなかったのではないか。だから、食事も無償で提供し、見返りを求めないのではないか。
何があったか、知りたい。チヅルならば聞けば答えてくれるだろう。だが、いくら笑顔を浮かべても、疚しいことをしていそうな男に弱みを見せたくないのは当然のことだ。
ずきり。
腹の底が締め付けられるような痛みが走る。
思えば、チヅルの負の感情は見たことがない。目が恐怖を訴えていたり、不安そうに揺れたりするときはあった。だが、それらはチヅルが張り付けた笑顔にいつも覆い隠され見えなくなってしまう。
此処にいてはいけない。そう強く感じた。
その内抜け出せなくなる。もっともっとと強張るようになるかもしれない。チヅルに俺が必要だと求めて欲しくなる。
いや、もう既に手遅れかもしれない。
それでもいいと、抜け出せないことが本望だと心が歓喜している。
幸せな家族が羨ましかった。
厳しくて能力主義の父。自分の容姿だけを気にする母。自分本意な兄。
貧乏でも温かい家庭が羨ましくて、妬ましくて。だからチヅルと親しくなって充実した生活を送れていることは、俺にとって理想の塊だった。
まるで年の離れた妹が、俺の帰りを待っているようで。
その内おかえり、なんて言われたら、もう何も言い残すことはないと思えるくらいに。
俺は苦く笑う。
馬鹿馬鹿しい。血が繋がってるわけでもないのに家族面とは。
もう、ここには居られない。




