不審者とか笑えないから。
それはクローゼットの中が森になっていることをすっかり忘れた仕事帰りの夜のことだった。
「ただいまー、」
鍵を開けて、誰もいない部屋に向かって挨拶する。別に痛い子な訳ではない。不審者対策だ。若い女が一人で暮らしていると危ないとかいうし。正直私の家に金目のものなんてないし有り得ないでしょ、とは思うが、猟奇殺人に会わないとも限らないので念には念をいれる。
そして、臆病者の私は自室から返事がないことに少しだけ安堵するのだ。
「ぅ、」
でも、今回は違った。小さな低い呻き声が自室から返ってくる。その後すぐ大きな物音がして、聞き間違いではないことを確信する。
「ま、じで?」
仕事から疲れて帰ってきて、やっと寝れると思ったら不審者がいました、とか何それ笑えない。
慌てて部屋から、というか玄関から出て、ドアから少しだけ離れた、尚且つドアから見えない物陰に隠れる。部屋にいたんだ、通報されても文句は言えないと思うが、もし何かの手違いだったら、とか有り得ないことを考えてしまう。が、いつまでたっても誰も部屋から出てこなかった。
「え、やっぱり聞き間違い‥‥?」
怖いときって声を出して恐怖を誤魔化すよね。だから独り言は仕方ないと思うんだ。なんて馬鹿なことをぶつぶつと呟きながらドアの前まで近寄る。私が不審者である。震える手でいつでも緊急通報できるよう110とスマホに入力すると、誰もドアから飛び出て来ないことを確認して玄関に入る。
恐る恐る自室へ向かうと、自室のクローゼットの前で男が倒れているのが見えた。
「あの、」
「おい、」
「ひっ!な、何ですか!?」
「人、は、呼ぶな、すぐ、出ていく、」
苦しそうに息を吐きながら言う男に怪我でもしているのかと気にはなるが、電気でもつけて顔を見ようものなら何か危険に巻き込まれるかもしれない。
暫く観察して、男が動かないことを確認してからゆっくりと近寄る。
「大丈夫、ですか?」
すぐ出ていくと言うのだからまあ危害は加えないんじゃないだろうかと男の身体を起こそうと肩を触ると、男の服は何かに濡れている気がした。水とは違ったべたりとした感触に肌が泡立つ。慌てて手を引いて、掌をみる。
暗くてよく見えなかったけど、これは、確かに、
「血‥‥‥!?」
手がベタつく程の血の量にぎょっとして、慌てて傷をみようと近寄ってから、思いとどまる。
「電気、つけてもいいですか?」
「な、に?」
「血を、拭きましょう。」
男から離れて電気をつけると、男は身を固くした。私は気にしないようにして風呂場へ向かう。
血液は、危険だ。健康そうな人でも感染症を患っているかもしれない。
ゴミ袋を2枚重ねて洗面器に被せる。洗面器にはお湯をはって手を洗った。綺麗な水が真っ赤に染まる。私はお湯を張り替えてからゴム手袋をはめ、真新しいタオルを水で濡らして、傷がなさそうな腕から順に拭いていく。
というか自宅で不審者の手当てとか何してんだ自分。救急車呼ぶとか色々方法はあるだろうとは思わないでもないが、やめておく。
男は人を呼ぶなと言っているし、何よりそれは私にとっても都合が良さそうだからだ。別に救急車を呼ぶのが嫌な訳ではない。
ただ、この男は確実に異世界人だろうから。
じわじわと実感していく私は、少し開いているクローゼットの扉を見てため息を吐いたのだった。