ナンパじゃなくて無償の善意です。
朝目が覚めて、ふと思った。
ユダさんが帰ってくる場所の一つが此処であったら嬉しい、なんて馬鹿げた考えだ。一人薄く嗤う。
どうやら私は傭兵と言う言葉に少し怯えていたらしい。
傭兵というのは雇い主に金銭で雇われた関係だと聞く。この前の話だと戦争にも参加するらしいし。
もし、ユダさんが家に来なくなったとして。私は時間が経つうちにユダさんの死を緩やかに悟るのだろう。そんなことは嫌だ。いくら最初の印象が不審者だったからといって、知り合った人が死ぬのは悲しいし、怖いのだ。
窓から見えたどんよりとした雲が私の気持ちを表しているようだ。もやもやとした感情に困惑したまま、私は仕事に向かう。
いつもと同じ日常。それがどんなに大切なことなのか私にはまだ分からなかった。
++++++
しまった。
「傘、忘れた・・・、」
考え事をしていたせいだ。帰り道、途中から降りだした雨粒は、空が見えないほど電車の窓を打っている。傘を買うか地味に迷う。コンビニまでちょっと距離があるし、第一コンビニの傘は普通の傘程ではないにしろ高いのだ。大事な書類も会社にあるし家まで走ろうかな。
「すみません」
そう思っていたら、斜め前から声をかけられた。優しそうな男だ。失礼に当たるので顔を凝視こそしないけれど雰囲気がイケメンだと訴えている。若干上げられた右手が私を示していたので私に用事なのだろうと知っている人かと記憶を探るが一向に見つからない。やっぱり知らない男だ。私何か落としたかな。
「あの、何か?」
「あ、この前はありがとうございました」
話し掛けてきた人に疑問を乗せて瞬きを返すと、照れたような表情が返ってくる。いや、まじで誰だよ。
「熱中症で助けて下さった方ですよね?」
「え、ああ‥‥、」
確かに助けたような気もする。へらりを挨拶を返すと彼は笑みを濃くした。
「お礼がしたかったんですけど、名前を聞き忘れて、」
「別にいいですよそんなもの」
第一、彼は私のいう‘お互いさま‘という言葉に納得してくれたんじゃなかったのか。わざわざ声を掛けるなんて律儀な人である。不審者がどうとか言っていた私とは大違いだ。何だか後ろめたい気持ちになって慌てて遠慮すると彼が大げさに慄いた。
「優しいですね。」
高校時代の友人に対するような気軽な言い方。その言い方だと遠慮したら嫌味に聞こえてしまうと思うんだが。思わず笑ってしまう。
「ありがとうございます」
私もおちゃらけて返す。
高校で同じクラスの男の子が「やっさしー」と茶化したのを真に受けて「ええ~?そんなことないよぉ~?」と言ってて引かれていたぶりっ子を思い出した。本気にしたら引かれるとか人間関係って恐ろしい。
『次は~~。~~。ご乗車~ありがとうございました~』
「あ、じゃあこれで」
聞こえたアナウンスにこれ幸いと電車を降りると、目の前に折り畳み傘が差しだされた。
そのまま彼は私と改札に向かいながら話し出す。
「お礼だと思ってください」
いたずらっ子のような笑みに笑ってしまう。私は笑みを浮かべたまま受け取った。善意は素直に受け取るべきだ。
「ふふ、ありがとうございます」
ふふ、なんて笑い方をしているのはよそ行きだからであって、いつもしているわけではない。だから笑い方に意外そうな顔をする彼に心外だという意味を込めて肘で小突いた。彼が気楽な話し方を望んでそうだったからであって、普段はよく知りもしない人を小突くことはしない。そこは分かっていただきたい。
「明日もこの時間の電車ですか?」
「ええ」
「じゃあ、明日この時間に改札で返しますね」
そんな約束をして改札で別れた。
悩み事は、何だかどうでもよくなっていた。無償の善意を受けて気が晴れたのかもしれない。因果応報だ。私が悩んでいたって死ぬときは死ぬし、それなら家で美味しいと思ってもらえる料理を作ったほうがましである。
私の心と反して、雨脚は強くなっていた。
++++++
「ただいまー」
「邪魔している」
「あっ、ユダさんこんばんは。何か食べてきます?」
「いや、予定になかっただろう。すぐに帰る。」
今帰られると、夜の森は危ないという建前がなくなるがいいのか。まあ、よく考えれば分かることなのだが、夜の森が危ないのなら、食材は昼間に持ってこればいいことくらいわかる。ただ私がそのことに気づいたときには貞操の危険はないと実証されていたので好きにさせている。
まぁ私に魅力あるとは思っていないのだが、ここまでスルーされると微妙な心境ではある。
ユダさんはちらりと私を見て、目を見開いた。
「・・・雨?」
「はい、傘を貸してもらえなかったらどうなっていたことやら。・・・どうかしました?」
言いながら、異世界と此処では天気が違うことに気付く。あー、まずいよね。言い訳が思いつかない。
ユダさんは逃げるように後ずさりした後、何か言いたそうに目を彷徨わせた。
「いや、なんでもない。・・・では、帰る」
どうやら聞かないでくれるらしい。これ幸いと扉の方に送り出そうとすると、拒否された上に引き攣った笑みを浮かべてそそくさと向こうに消えていった。
「何だったんだ一体・・・。」
疑問に思いながら洗面所に行って。横殴りの雨のせいで私のTシャツが肌色に透けて見えていたことにユダさんが動揺していたと悟るのはその後の話である。




