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エピローグ 残光のガイア(2)

 

「ア……アァッ………アアアアアアァーーーーッ!!」


 一際淫らな声を上げ、小百合の巨体がどう、と倒れた。

 省吾らははじめ、あまりの美味さに昇天したのだと思った。随分特殊な性癖だとも。

 しかしそうではなかった。未開の原野に倒れた小百合は、一向に悶絶をやめない。往年の美貌は凶相と言っていいほどに醜く歪み、粘ついた脂汗を滝のように流す。透き通るようだった羽二重肌は赤黒く染まり、かと思えば血の気を失い真っ青に。

 喉と腹と爪を突き立て、自らを引き裂かんばかりに掻きむしる。明らかに尋常な様子に、和やかムードは一変した。



「小百合!? 一体何がどうした!? 痛むのか? 苦しいのか!?」──動転した省吾が、わかりきった質問を繰り返す。

「ソンナ……ドウシテ!?」──同じく顔を青ざめさせ、立ち尽くすジェシカ。


 手をこまねく二人を他所に、冷静さを失わぬものも居た。

 美獣の狂態に目を光らせたのは、今の彼女を誰よりも深く知る教授である。


「おかしい……今の小百合くんはガイアの化身、いわば自然そのものだ。外傷など立ちどころに再生するし、病に罹ることもない。だというのに、この苦しみ方は何だ……?」


 まさか、という予感とともに、教授は最後の一人に厳しい目つきを向ける。全てを仕組んだ犯人に──呆然を装う傍ら、策謀の成就に喜色を浮かべる老人に。

 目があった途端、身体が動いた。練達のろくろが無言のうちに鞘走って空を切る──ものの見事に躱された。必殺の蛇撃を見切った泰三が、後ろに飛んで距離を取る。(ましら)の如き身のこなし──老骨に似合わぬ躍動に、糾弾の声も震えを帯びる。


「ご老人、あの茄子に何をした!? まさか……まさか農薬を!?」


 ゆらりその身をくゆらせて、泰三がニタリほくそ笑む。こらえきれない愉悦と喜悦が、老人の言葉と背を震わせた。


「いいや、違うぞ教授とやら。そいつは正真正銘、溝静空最後の有機野菜よ。……ただし」


 青褪める息子らをたっぷり焦らし、勝利の美酒に酔いしれる老父。ひとしきり満足すると、ついにその口から毒悪そのものの真相が飛び出した。


「与えた水は中国産、各地を流れる河川の水……! 世界の工場が垂れ流す、ファンタスティックでカラフルな汚水じゃよ……!! 人類史上最凶の水、どうやら効果は抜群のようじゃのう……!!」


 絶句する若者たちを見渡し、老人は爆笑した。いや、既に彼は人ではない。老いた瞳に炯々と光を浮かべ、この世のすべてを呪う物の怪だった。


 この時ようやく、省吾たちは理解した。

 全ては策謀のための嘘偽り──痴呆を装い、好々爺を演じ、敵も味方を欺いて、親子の絆もとことんまで利用する。この老獪さこそぬらりひょんの真骨頂。辺境の魔王の執念としたたかさが、地母神を死の淵へと追いやったのだ。

 泰三は痛快な事この上ないと言った様子で、邪悪極まる哄笑を上げる。


「ゲッハハハハァ!! 青いッ! 青いのうお主ら! この儂が、この爺が! 村も畑もいいように荒らされて、生かして返すと思うてか!?」

「……嘘、デショウ? お爺ちゃん、『マンマ、マンマ』ってボケてたじゃない! オシメも変えてあげたでしょう? アレが全部、嘘だったって言うの?」

「おうとも、もっとも半分は素でボケとったがの! ……あの時は世話になったのぅ、異人さん。しかぶった儂をゴミみたいに見下す目つき、中々昂ぶる物があったぞい!」


 出来ればおねショタもしたかったがの──生臭い欲望を露わにして、泰三はくのいちの甘さを嗤う。年甲斐もなく好色な眼差しが、ぴっちりスーツの隅々までを舐め回した。

 姉ちゃんナンボや、ナンボでスケベ出来るんや──破廉恥に歌う怪老に、ついに教授の怒りが爆ぜる。初手から全力、いきなりの横切りしぐさ──しかしとうに予期していたか、泰三はひらり柳のようにこれを避けた。


「おのれ……おのれジジィッ! よくも、よくも騙したァァァァ!!」

「やっかましい! 今更被害者面など片腹痛いわ! なぁにがロハスじゃ、この盆暗どもめ! そら省吾、何しとる! とっととソイツをぶっ殺さんか! 儂の芝居を無駄にする……なッ!?」


 好き勝手絶頂のヒヒ爺のすぐ側を、にわかに死が通り過ぎた。

 けしかけたはずの息子が、父に牙を向けていた。見れば早くも悪鬼の形相、かつて無い殺意を載せて後家殺しのドラムが唸りを上げる。


「父さん……いや親父……この外道ッ!! 人の嫁になんてモノ食わせやがるッ!!」

「何じゃあ今更!? この期に及んで愛妻家気取りか! 考えなおせバカ息子! スピ系にハマった挙句、巨女になるような女だぞ! スケベもできんデカイだけの嫁なんぞ、生かしておいて何になる!!」

「その即物的な物言い、浅ましさ! まごうことなき血のつながりを感じるぞッ!! だが俺は目覚めたのだ!! 巨女というジャンルになぁッ!!」

「ニッチに走るか、愚か者ッ!! もうよい、貴様も我が畑の肥やしになれッ!!」


 昨日の敵は今日の友、省吾と教授は肩を並べて阿吽の呼吸で攻め立てる。

 相対するは海千山千の大妖怪、脱穀鬼の暴虐を鮮やかに躱し、江戸っ子のしぐさを絶妙にいなしてみせる。しかしやはり多勢に無勢、徐々に老いぼれの息が上がる──かと思えば攻守一転、しわがれた貫手が間隙を縫って繰り出され、慢心する若人二人を打ち据えた。

 双方ともに後退し、終わりなき死闘の合間に息をつく。

 天地が怯えて鳴動し、激しい雷雨が世界を閉ざす。怨嗟と憎悪が渦を撒き、裏切りの荒野に吹き荒れた。


「殺す……この爺だけは必ず殺すッ!!」

「気をつけろ、辰ちゃん! 俺の親父だ、何をしでかすかわからんぞ!!」

「待ってボス! サユリが……サユリが……!!」


 悲痛な叫びに振り返れば、そこに奇跡が待っていた。

 元のサイズに戻った女房が、ぐったりと友に身体を預けている。青息吐息の女の姿に、省吾も教授もあっさり戦意を投げ出した。

 それはまさに奇跡だった。汚水の毒気が、義父の仕掛けた卑劣な罠が、皮肉にも女の呪いを解いたのだった。代償に、あまりにも大きなものを支払って。


「小百合!」「小百合くん!!」──懸命の叫びが届いたか、小百合の瞼が少しだけ持ち上がる。うつろに揺れる双眸が、泣きむせぶ夫と情夫に微笑みかける。怒りもなく、悲しみもなく、透明な微笑。


「ああ……よかった……やっと話せる……」


 声を出せるという感慨が、瀕死の小百合に悦びを与えていた。絶え間ない苦痛にさらされながら、それでもどこか安らいだ表情(かお)。手を伸ばせば、必ず握り返してくれる──願ったとおりの温もりが、冷たくなった手のひらを包んだ。これ以上の幸福が、一体この世にいくつあろう。


「あなた……酒友君……お爺ちゃん……もういいの。もう、いいのよ」


 小百合はうわ言のように繰り返しながら、ゆっくりと左右に頭を振った。男たちは身を寄せ合い、耳をそばだて見守った。続く女の思いの丈は、まず感謝の言葉だった。


「お義父さん……お茄子、大変美味しゅうございました……。やっぱり、採れたてが一番ですわね……」


 あくまでも穏やかに、それだけを言った。恨みもつらみもまるでない、清廉にすぎる謝辞。思いがけない女の言葉が、老いぼれの大切な何かを呼び覚ます。


「何故じゃ……何故、そんな風に笑えるんじゃ? 儂ゃお前さんを嵌めたんじゃぞ? 出来れば夜もはめたかったんじゃぞ?」

「まぁ……ウフフ……ご冗談がお好きですのね……。でも……いけませんわ。私はあの人の妻ですから……マンマになら、なってあげられますけれど……」


 穏やかにいなしながらも、小百合は嫌悪を示さなかった。あくまでも和やかな、家族としての振る舞いだった。

 がっくりと崩折れて、泰三は己の罪深さに絶望した。やらかしちまった後悔が、今更のように押し寄せる。慰めてくれるはずの彼のマンマは、もう余命幾ばくもない。


 小百合は大きく息をつき、あらためて己の亭主に目を向けた。7年ぶりに間近で見る亭主の顔は、喪失の恐怖に歪んでいた。それを優しく撫でながら、美貌の妻は懸命に言葉を紡ぐ。


「あなた……今までずっと……ありがとう」

「小百合、小百合!! 大丈夫だ、心配いらない! 僕と辰ちゃんがついてる! だからそんな、お別れみたいなことを言うな!!」


 妻の手を握り返し、必死に省吾が励ましの言葉を繰り返す。だが小百合はそれを拒絶する。

 もういいの──もう十分。望んだ以上の幸福が、既に胸に満ちている。その対価が死であるのなら、喜んで受け入れる……諦めとも悟りともつかない気持ちで、彼女はとうに受け入れていた。


「きっと……バチが当たったんだわ。私も……私の方から……あなたを捕まえるべきだったのよ……。私……意気地がないから……待ってるばかりで……早く気づいてって、いつもそればかり思ってた。でも……愛って、そうじゃないでしょう……?」

「違う! 君は何も悪くない! もっと僕がしっかりしてれば、きっと想いに気づけたはずだ! それなのにこんな……こんな……ッ」


 とうとう耐え切れず、省吾は声を殺して涙した。小百合は夫の背中を慈しむように撫でながら、残される彼の傷を思った。不幸中の幸いに、後を託せる友がいる。


「ジェシカさん……この人のこと、お願いします。色々と手のかかる、子供っぽい人ですけど……」

「ワカッタ……ワカッタよ、サユリ。おサイフのヒモ、ワタシ絶対ユルめない。毎日メールもチェックする。私とサユリ以外、誰にもスケベさせないヨ」


 くのいちの気丈な言葉に、小百合はあらためて胸をなでおろす。

 男慣れした彼女のことだ、きっとうまく尻に敷く──その光景を思い描くと、嫉妬よりも可笑しさを覚える。似合いの二人が幸せをつかめるよう、心から祈った。



 そして、最後の一人。

 ここまで己を導いた運命の男が、憔悴しきって佇んでいる。

 もはや今の教授に、結社の長たる面影はない。そこにいるのは、職にあぶれ恋にも敗れ、理想と妄想に逃げ続けた三十路半ばに過ぎなかった。それでも小百合は、彼が愛しい。

 彼は、小百合とよく似ていた。夢も希望もあるくせに、待ってるだけで動かない。幾つになってもそんなだから、こじらせる他なかったというのに。

 それでも──どんなにダメな甲斐性なしでも、夢を語る横顔だけは、いつだって凛々しく在った。彼の語る優しい理想は、時に夫の存在を忘れるほどに眩しかった。そして、だからこそ、あえて厳しく告げるのだ。


「酒友君……あなたのお陰で、私、美しく生きられたわ……。それに、とっても楽しかった……でも……出来れば普通に働いて……もっとちゃんと、地に足つけて……夢見るだけじゃダメだって……昔何度も言ったじゃない……」


「めっ」と一つ叱りつけ、小百合はまた微笑んだ。7年もの間共に過ごした男に向ける、彼女なりのエールであった。

 それを受け、教授は何度も何度も首肯する。涙も鼻水も垂れ流しの、童のような泣き顔だった。その顔があまりに夫と似ていたから、小百合はつい、こう思ってしまうのだ。


(──頑張って……二人目のあなた)


 とうとう、眠りの予感がやってきた。既に意識は半ば溶け、彼岸と此岸もわからない。

 透き通るようだった小百合の肌から、残された最後の色が薄れていく。

 それでも彼女は微笑んで、男達の手を取り微笑んだ。


「さようなら……お義父さん、ジェシカさん……さようなら……酒友君……あなた……」


 もう持ち上がらない瞼を震わせ、懸命の吐息を紡ぐ──最後に願いがあるとするなら、既に答えは決まっていた。


「……美味しい野菜を……作ってくださいましね……」


 嫋やかな女の体から、残された最後の力が抜け落ちる。相変わらずの荒天の中、青ざめた女の骸は美しいのに冷たくて。

 のこされた男たちは、ひたすらに慟哭するほか術がない。

 風雨がやみ、満天の夜空が優しい光を投げかけても、いつまでも彼らは愛した女を悼み続ける。


 いつまでもいつまでも、いつまでもいつまでも──。



「……小百合ーーーーーッ」





 ◆





 後の出来事を、少しだけ語る。


 同じ女を愛した二人の男──幡羅木鉢省吾と酒友辰一は、亡き女の最後の願いを叶えるべく、それぞれのやり方で道を模索していた。

 時には互いを励まし合い、時には互いを叱咤しながら。それから二年、時は流れて──。


 ◆


「お知らせいたします。羽田空港発イカロス198便、北京行きのチケットをお持ちのお客様は18番ゲートまでお越しください。繰り返します──」


 フライトを告げるアナウンスが、空港のロビーに響き渡る。

 それを受けて立ち上がったのは、白衣を捨ててスーツ姿に身を固めた酒友辰一だ。

 漲る意欲と緊張に、その表情は少し固い。対して砕けた面持ちなのは、見送りに出向いた幡羅木鉢省吾だ。


「……では、行ってくる」

「ああ。達者でな、辰ちゃん」

「貴様こそ仕合わせになれよ。妻を泣かすこと、金輪際許さん」

「分かってるさ。もう、僕一人の人生じゃないからな………」


 振り返ったその先には、昨年入籍をはたした妻ジェシカと、腕の中で安らかな寝顔の第一子、“リーリオ”ことサユリ・幡羅木鉢の姿があった。

 妻子の健やかな様子にしばし目元を緩ませる省吾であったが、気を取りして再び友へと向き直る。


「お前のほうこそ気をつけろ。中国(むこう)さんは甘くないぞ。人も……そして自然も……」

「いらぬお世話よ……と言いたいところだが、忠告ありがたく受け取ろう。国内は任せたぞ、省ちゃん」


 もう言葉は不要だった。互いに熱く抱擁を交わし、後はもう振り返らない。いつかまた、旨い米でも食い交わそう──旅立つ男と見送る男、共に抱いた固い決意が、再会の約束手形だ。



 ──そしてこれが、二人の永遠の別れとなった。



 ◆



 秘密結社ロハスの首魁、教授こと酒友辰一は自ら結社を解体。新たにNPO法人を立ち上げ、中国の環境問題に真剣に取り組みをはじめる。

 彼の国における環境汚染の実態を赤裸々に綴った「サカトモレポート」を執筆中、現地妻の通報によりスパイ容疑をかけられ収監。その後の消息はレポート共々不明のままだ。


 幡羅木鉢省吾はかつての上司の後ろ暗い過去をネタに強請を働き、エージェントとして復職。国産の野菜のブランド化に尽力し、大々的なキャンペーンを展開してジャパン・ベジブームを巻き起こす。

 これらの実績を引っさげ政界に進出し、「耕そう日本」を合言葉に多くの農家の支持を経て当選を果たすも、謎の組織TPPの刺客が放った関税撤廃パンチによって暗殺される。享年37歳。その名の通り、多忙に生きた男の早すぎる死だった。


 その父、幡羅木鉢泰三は未亡人ジェシカを後妻に娶り、20人の子女を設ける。復興した溝静空村で家族対抗サッカー中、末子カルロ(7)の放った抉るようなバナナシュートを頭部に受け死亡。98歳の大往生であった。


 夫二人に先立たれたジェシカは一連の悲劇を小説化し、遅咲きの文壇デビューを飾る。

 デビュー作「南米くのいち繁盛記 ~ファベーラから始める成り上がり~」は異国情緒溢れる精妙な筆致と女性ならではの官能的な表現が話題となり、発売直後からベストセラーに。

 映画化発表の記者会見では彼女の子供21人全員が種違いであることが発覚するなど、何かと奔放でスキャンダラスな人物として注目を浴びた。

 その後も「ベ・ラ・ド・ン・ナ」「実録・閨房暗殺拳」などの大ヒット作を連発し、遺作「ぅちゎ<σぃち」の執筆中、心不全に倒れる。82歳でその生涯の幕を閉じると、多くのファンが葬儀へ訪れ、その死を惜しんで涙した。


 参列者の中にはには彼女の二人目の子供の父親であり、最終決戦で出番を全カットされた宇気守道淳(76)の姿もあった。

 女の棺に唐揚げを添え、出落ち男は静かに語る。


「ジェシカさん……出番ってのは厄介だねェ。ありすぎても無さ過ぎても、とことんロクな目にあいやしねぇ。その点あっしは運がいい、見せ場もあって、ガキもこさえて、ま……上々の人生でさァ」



 完


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