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エピローグ  残光のガイア(1)

 かくして戦いはエコテロリストの勝利に終わった。


 農協側は敗戦の一報が届くと、早々に現地エージェントに懲戒解雇し、後は知らんぷりを決め込んだ。ノルマを果たせぬ負け犬に、社会も組織も限りなく冷たい。

 退職金も社員旅行の積立金も、そして机の中のベルマークも、もう二度と返ってこない──むせび泣く社畜の末路に、敵である教授たちからも同情の声が上がっていた。


 一方の、勝者たち。


 かつて溝静空と呼ばれたちでは、早くもベジタリアンが大挙して押し寄せ、雑な知識で開墾を始めていた。危なっかしい事この上ない、見るも無残な素人仕事を、敗者たちは黙って見守る他はない。

 ただ、彼らはとても楽しそうだ。EM菌を撒き、苗木に優しく語りかけ、根腐れするほど水を与えるその姿が、彼らの中にひどく生暖くいものをもたらしていた。


 本当にこれでよかったのか、未だによくわからない。それも全て終わったこと──未練を振りきり、省吾とジェシカは背を向ける。

 連れ立つ二人に、もはや艶めいた空気はない。このままの二人で山を降り、人里についたら別れる予定だ。お互い、多少の未練はある。だが今の省吾に甲斐性はないし、ジェシカもまた、ロハで男と寝る気はない。

 その事が分かっていたから、黙々と歩いた。生まれ変わった溝静空の景色が、少しずつ遠ざかる。


 小一時間も歩いただろうか。もうじき故郷も見えなくなる頃に、敗者を待つ人影二つ。もう見慣れた白衣姿と、一糸まとわぬ美しい巨女──教授と小百合が、二人の旅路に待ち受けていた。

 お互いに敵意はない。征く者と見送る者、ただそれだけの間柄。


「……いくのかね?」

「ああ。早いとこ職を見つけたいし、君たちの考え方に賛同は出来ない。それに……早いとこ、小百合を元に戻す方法を探さなきゃな」


 見上げれば、いまだ巨大化した妻が押し黙って沈んでいる。

 あの日あの時、彼女の身体は決定的に変わってしまった。身体は戻らず、言葉もまともに喋れない。見送りの言葉をかけようにも、いやらしく啼くことしか出来ないのだ。慎み深い小百合には耐え難い恥辱であろう。

 気まずいのは教授である。なにせ彼女を産んだのは彼自身だ。散々人の妻を弄んで、治す手立てが分からりませんでは道理というものがない。


「……すまん。どうしていいやらわからない」

「いいんだ、辰ちゃん。君が気に病む必要はない」


 途方に暮れる旧友を赦し、省吾は妻の方へと歩み寄る。小百合は、今更全裸が恥ずかしいのか、夫の視線を気にしていたが、やがて観念してに三指ついた。数奇な運命を辿った二人が、今はじめて正面から向かい合う。

 しばらく、無言で見つめ合う──何をすべきかは分かっていたから、よどみなく言葉が溢れた。


「僕は……とにかく出世するのが、二人の幸せにつながると思っていた。闇雲に仕事に溺れて、家庭を全く顧みなかった。けど、間違ってた。もっと君と居るべきだった。いい暮らしを目指すより、二人の時間を大切にするべきだった。そんな事にも気づかないから、スピ系にハマるまで君を追い詰め


 たんだ。幸せにするって、約束したはずなのにな……」


 すまなかった──深々と頭を垂れ、万感の思いを吐き出した。赦しがあるとは思わない。一生をかけてでも償いたい。けれど今は、こんな事しかしてやれない。それが悔しくて、情けない。


 誰も、何も口を挟めなかった。慚愧に震える男の背中が、慰めを拒んでいる。

 放っておけばいつまでもそうするだろうその男に、触れられるのは一人だけ。

 おずおずと伸ばされた巨大な指が、そっと男の背に触れた。儚いものを愛でるような、柔らかく繊細な手つきが、こわばった男の背中を慰める。


「赦して、くれるのか? こんな僕に、君はまた笑ってくれるのか?」


 美しいかんばせが、ゆっくり大きく首肯した。もう苦しむなと、翠緑の瞳が言っている。

 不器用で夢見がち、けれどいつも前だけ向いていて、理想を一途に追い求める。そんな姿に惹かれたのだ。思えばはじめから、憎しみなど抱いてなかった。ただ、すれ違っていただけ──。


「小百合……小百合……!!」

「アアーーーッ、アナタァッ、アアーーーッ」


 夫は妻の指を抱き、妻は感極まって滂沱する。

 心も体も離れ離れだった夫婦の、今ようやくの雪解けだった。



 ◆


 二人の交歓はいつまでも続くかに思われたが、現実がそれを許さない。

 どれだけ互いを恋しく思えど、夫は今や無職の身、妻はご覧の有様だ。7年の歳月が、お互いの生態を大きく隔てていた。

 人と獣は、共に暮らしてはいけない──わかりきっていた事だから、名残はいっそう惜しかった。


「アアーーーッ」

「分かってるよ、小百合。職を見つけたら、僕は必ず帰ってくる。それまで辰ちゃんの言うことをよく聞いて、達者で過ごしていてくれよ」

「アアーーーッ、アナタァッ」

「ははは、馬鹿だなぁ。君がいるのに浮気なんかするはずないだろ? 桃地君は……彼女は、その、……ええと、なんだろう?」

「友達、でいいんじゃないノ?」

「そう、それ! 友達だよ友達! ……安心してくれ、どのみち山を降りたらサヨナラだしな! な?」


 早速の惚気に呆れつつ、ジェシカは頭をかきむしる。

 本当に仕方のない男だ。この期に及んで煮え切らない、そんな態度に腹が立つ。それでも助けてしまうのは、かつて惚れた弱みのせいか。


「……ワタシ、やっぱりボスについてくよ。今はコンナにシオらしいケド、男ナンテ目を離したらすぐスケベヨ。ダカラ、私が見張ってアゲルよ。小百合の………大事ナ友達の、旦那だからね」

「アアーーーッ?」

「ウン、そう。アナタ()友達。……それともサユリは、こんな阿婆擦れはイヤ?」

「アアーーーッ、アアーーーッ!!」


 思いもよらない申し出に、感極まる小百合である。

 女同士の気楽さで、久しぶりにできた友達と早速意気投合している。その光景を微笑ましく見つめながら、男二人も別れの名残を惜しんでいた。


 と──。

 村の方から「おおい、おおい」と彼らを呼ぶ、しわがれた声が近づいてくる。

 息せき切って向かってくるのは、いつの間にか正気に戻った泰三だった。鉢植えを小脇に抱え、難儀な様子で4人の元にへたり込む。


「どうやら、間に合った、ようじゃ、のぅ。……全く、この父には何かいう事はないんかい」


 今事件最大の被害者のもっともな言葉であった。住処も糧も奪われて、今や野生の後期高齢者である。恨みはさぞ深かろう──省吾が息をつまらせていると、泰三は一転、破顔一笑してみせた。


「いいんじゃ、省吾。もういいんじゃ。……どうやら儂ゃ、とことん開拓が好きみたいでな。村はあんなになっちまったが、逆に言えばまた一から作り直せるんじゃよ? こんなに楽しいことはないわい」


 呵々と笑う父の姿に、一切の悲愴はない。それどころか、ますます意気盛んに燃えている。これは当分、殺しても死なないな──呆れ半分、安心半分、苦笑を浮かべる省吾である。


 父は溝静空に残り、コミューンの農業指導にあたるらしい。確かにこれほどの適任は居ない。

「こいつら田舎暮らしをナメとるからな。一からみっちり仕込むつもりよ」と、豪快に笑う父の弁。早速飛び出たスパルタ宣言、恐々とするのは教授である。だが彼も、念願のスローライフが叶って嬉しそうだ。



 気づけば空は暮色を帯び、沈む夕日が旅立つ二人を急かしていた。

 今少し、もう少し……募るものはあるけれど、無粋な涙は門出に不要。せめて笑ってさよならしたいが、きっかけが掴めない。

 こんな時こそ頼りになるのが年の功、ヤレヤレ、まったくしょうもない──苦笑交じりの泰三が、ぎこちない空気を断ち切る。


「省吾、受け取れ」


 藪から棒に差し出したのは、彼が生きた証そのもの──退行しても手放さなかった鉢植えだった。

 まるまる太った秋ナスが、夕映えにてらてらと光る。


「ワシが育てた最後の野菜じゃ。県下に名高い溝静空の味、その手で妻に味わせてやれ」

「そんな……そんな大事なもの、いくらなんでも受け取れない! これが最後の収穫なら、それこそ父さんが食べるべきだ!」

「たわけが。人の話聞いとったのか? 儂ゃ嫁さんにと言ったんじゃ」


 フンと大きく鼻を鳴らし、泰三は小百合に目を向けた。倅のそれとよく似た眼差しが、別離に翳る妻に柔らかく微笑む。


「見れば見るほど、お主には勿体無い嫁さんじゃ。置き土産くらいしてやらんとバチが当たるわ。なぁ?」


 バチンとお茶目にウインク一つ、ニンマリ笑う好々爺である。

 なるほど、まさに妙手であった。いつとも知れぬ別離の間、思い出は何よりも励みになる。

 自称江戸っ子の教授などは、この粋な計らいにしたり顔で頷くばかりだ。


「ほれ、なにボサッとしとるんじゃ。さっさとお主が食わせてやれ。たまには旦那らしい所みせとかんと、今度こそ三行半じゃぞ」


 悪戯っぽく笑いかけ、鉢植えを押し付ける。幾つになっても親にかかれば洟垂れ同然、泰三の貫禄勝ちだ。

 省吾は何やら難しい顔で手渡されたものを見ていたが、やがて観念したように、大げさなため息を付いた。

 見れば小百合も、ひどく照れた様子でもじついて、ジェシカに冷やかされている。

 こういうことは、サッサと済ませてしまうに限る──好奇の眼差しがチクチクとつつく中、一つ、二つと実をもぎ取る。


「……小百合、『あーん』だ」


 夫の命に従って、妻のみずみずしい唇が艶めかしく開く。白い歯が夕日に映えてねらねらと濡れ光り、ねっとり妖しく蠢く舌が、夫の差し出す黒々としたモノを今か今かと待っている。熱く湿った吐息が漏れて、焦らす夫をけしかけた。

 無駄に淫靡なその仕草が、男心に火をつけた。そんなにコレがほしいなら、お望み通りくれてやる──一つ目の茄子が舌先に触れるやいなや、桃色舌がはしたなくひらめく。無茶苦茶にしゃぶりついたかと思うと転がすようにじっくりと味わい、たっぷり魅せつけるように舐ってみせる。

 青臭い瑞々しい果実をたっぷり二分もしゃぶり尽くすと、ようやくコクリと嚥下した。


 省吾は衝動のまま、次々とおかわりを喰らわせた。その数7つ、小百合はさっぱり平らげて、自然のままの優しい味に目を細める。

 法悦に酔うその様を、一同がいやらしくも微笑ましい気持ちで見守っているさなか──。



 最悪の、そして最後の異変が始まった。






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