ガイアの夜明け(2)
──絶対に、正妻なんかに負けない。
決意を固く胸に秘め、一面黄金の豊穣へと飛び出したジェシカであったが、いざ御敵を目前にして身が竦む思いであった。
「アアーッ、アナタァッ、アアーーーーーッ」
グズグズに蕩けた声が山野に響くたび、そこかしこで生命が花咲く。きのこもたけのこも別け隔てなくすくすく育ち、仲良く森のめぐみとなる。
理性を焼いて野生をむき出す女の声は、動物たちの本能も狂わせた。発情期の獣もそうでない鳥も、身の裡で沸き起こる衝動に突き動かされて雄も雌も種族さえも区別もなく、渾然一体くそみそとなって繁殖に励む──産めよ増やせよ地に満ちよと、生命乱舞が止まらない。
愛と悦びに満ち満ちた、ハプニングバーの如き圧巻の空間──その中心たる彼女は今も、逞しく育った世界樹のような千年杉を柱に見立てポールダンスにふけっている。
風鳴り地鳴りをBGMに、星星の光をスポットライトに、地球意志よ照覧あれと一心不乱に乱れ咲く。恥辱と恍惚を行きつ戻りつたゆたう様は天宇受売かはたまたサロメか──淫らでいながら神々しい、官能の極北とでも言うべきその姿は、数多のスケベを体得したジェシカをして神話を見出す程のものだった。
ジェシカは、愛した男の姿を想った。清純派と信じた妻の変わり果てた姿に、屈辱と後悔と、そして仄かな悦びに震えていた恋人を。ついで己と小百合、互いの武器を推し量った。
若さも、経験も、テクニックにも優っている自負はある。ただ一点、ジェシカには未だこなせぬプレイがあった。それがどれほど強力かは、昨今の薄い本を紐解けば察するに余りある。
NTR妻という属性は、くのいちをして難敵だと認めざるを得なかった。
「モウヤメテ!! ボスが……あの人が、新しい世界に目覚めちゃう!!」
「アアーーーッ」
懸命の叫びも、堕落妻の法悦の前には虚しく溶けた。
彼女はもうダメだろう。一度識った悦びは、そうやすやすと忘れられない。なまじ正気を取り戻せば、夜な夜な疼きに苦しむだけだ。
せめて彼女という大輪の花が極みに居る間に、速やかに散らしてやるのが情けというもの──泥棒猫の計算高さが冷徹なくのいちの殺意へ変わった時、既に音もなく飛んでいた。飛翔の様は夜空を滑る猛禽のそれに似て──手にしたクナイを鈍く光らせ、美獣ジェシカが夜を征く。
敵ながら天晴な艶舞を見せる、裸身の肌が夜空に白い。オーイェスシーハァ、湿った吐息が夜風に乗って妖しく香る。
荒く息づく巨大な女体はただ在るだけで至高のわいせつ、傷物にするにはあまりに惜しいわがままボディ。殿方ならば仏心と助平心に躊躇が生まれる絶景を前に、くのいちが胸に抱くは忍一文字。心を殺し気配を殺し、桃色吐息を切り裂いて、一迅の旋風と化す。
小百合改めヴィーガンは夜鷹の殺意に気づかない。今も全身春めいたまま、忘我の中で乱れ舞う。眩いばかりの生と愛とが、巨獣の目を曇らせていた。
肉薄目前、もうすぐそこに死が視える──必殺を確信し、今しも刃を突き立てんとしたその時だった。
「マンマ! マンマ!」
しわがれた無邪気な声が、歓呼の声をあげていた。みすぼらしい鉢植えをしっかりと抱え、息子の嫁の倒錯エロスに目を血走らせる泰三であった。
「お爺ちゃん!?」
見当たらないと思っていたが、よもやかぶりつきで見ていたとは。
老いてなおますますお盛んな様子に、呆れる暇もあらばこそ──その一瞬が、命取り。
小百合が──ヴィーガンがジェシカに気づいた。両の瞳が焦点を結ぶ。虚空を舞うプッシー・キャットを捉えた瞬間、ヴィーガンの脳裏に過去の記憶が去来した。
出張から帰った夫、その襟ぐりにうっすら色づくルージュの軌跡、車のシートにほつれた金髪。財布から零れた名刺に『また来てね』のサイン入り──極めて特殊なお風呂屋さんの屋号と住所が出張先を告げている。
見て見ぬふりを気取ってみても、疑念と怒りは拭えない。憎い。疲れて眠る夫の顔の、てかてか光る充実顔が。あの人を誑かした女はもっと、もっと憎い──!!
「……アアーーーーッ!!」
八つ当たりにも程がある、突然の激発だった。
慈母の仮面をかなぐり捨てて、変わって浮かぶは夜叉の形相。技もなく業もなく、力任せのスナップ一閃──ただ闇雲な平手打ちが激情任せに振るわれた。くのいちは四肢を畳んでとっさに防ぐ。
だが所詮は悪あがき、鬼女の平手はその程度で防げない。咲き誇る白百合を思わせる嫋やかな女手が、この時ばかりは稲妻の直撃を思わせた。
「…………~~~ッ!!」
苦痛の呻きも許されず、ジェシカは肥沃の大地へ叩きこまれた。全身がバラバラに砕けたような激感に身を捩る。落下地点は一面稲穂の黄金の海──全くもって運が良かった。柔らかい泥土のベッドでなければ、ジェシカの身体は今頃柘榴のように弾けていたかもしれない。
しかしながら正妻の怨讐こもった打擲は、歴戦のくのいちをただ一撃で戦闘不能へと至らしめていた。手足は痺れ、視界はくるくる面白いように回り続ける。呼吸する度、ヴィーガンにも劣らぬ生々しい呻きが漏れた。ただしそれは悦楽ではなく、どこまでも冷たい断末の吐息。
もはや妖艶の胡蝶が、闇夜に羽ばたくことはない。
敗北を悟り、そっと嘯く。
「ヤレヤレだね……キャットファイトじゃ分が悪いヨ……」
無謀は承知の上だった。あのちょいワル気取りの男のことだ、こうなることは分かっていたはず。
馬鹿な男に惚れたものだと、今更ながらに苦笑が漏れる。彼に貰ったの指輪も黄金も、泥にまみれて色あせていた。どうせこれもイミテーション──わからないほど馬鹿じゃない。もういい。存分に夢は見た。せめて最後はくのいちらしく、覚悟と共に死に逝くのみ。
痛みはいつしか消えていた。ただ、痺れが──死力を尽くしてなお届かぬと悟らせる、せつなく甘い敗北の痺れが、戦う意志を奪っていた。
まぶたを閉じれば、夜の闇より暗い黒。星も月も見たくはなかった。きれいなものは、きれいな夢を見せるから。それがどんなに遠くにあるかは、もうとっくに知っている。
いよいよかすれた女の意識を、夜風がさらって消えていく──。