Interlude ~運命のガイアメモリ~
これは記憶。語られなかった記憶。
一人の男の妻として、家庭を守り貞節を守り、やがてひっそり姿を消した女の記憶だ。
馴れ初めの頃、女は幸せだった。
1つ年下の彼女の夫は出会った時から理知的で、仕事に実直、己の夢にとても一途な青年だった。
いざ交際を始めてみれば、実に寡黙で不器用で、プロポーズさえうまく言葉を飾れない。散々待ったその言葉も、ごくありふれたフレーズ一つ──「幸せにしますから」。
ただそれだけの一言に、どれだけ時間をかけるのか……じれったいやら微笑ましいやら、あの時ほど憎らしく、幸せだった事はない。
この男に愛されたい。そのためにうんと可愛い女でいよう──二人だけの教会でささやかな誓いを交わしながら、胸の内で決意した。それがどんなに愚かな決意か、知ろうともせずに……。
◆
「いってきます」を聞いたのは、もう何日前のことだろう。
夕食にラップがけを施しながら、何の気なしに時計を見た。午後23時56分。あと4分で魔法は終わる。ただいまを夢見る魔法は。
残り時間で奇跡が起きると、最早彼女は信じない。その程度には、小百合は夫を理解していた。
結婚以来、夫の省吾は昼夜の別無く働いている。小百合は仕事の中身を知らないが、日本の社会を左右する、とても有意義な仕事なのだそうだ。それ故にやりがいを感じ、嬉々として会社に泊まりこむ。
たまの休みに帰ってきても、寝るか仕事かのどっちかで、留守を預かる己の妻に、ねぎらう言葉の一つもない。まるで家の付属物。
こんなはずではなかったのに──ため息を付きながら、それでも小百合は夫のために己を磨く。ワインにピラティス、ガーデニング──キレイを求めCawaiiを求め、持参金はみるみるうちに減っていく。
足りない。まだ足りない。あの人を振り向かせるには、何かが致命的にかけている。おそらくはその『空白』こそが、夫を遠ざける原因なのだ。
やがて彼女は、一つの疑問に囚われた。カラダは十分磨かれた。それでも夫は振り向かない。とっくに愛想をつかされたのか、それとも──もう自分には魅力がないのだろうかと。
◆
運命が回り出したのは、日頃の鬱憤晴らしと帰らぬ夫へのあてつけに、お一人様ではしごを繰り返していた時だった。
ほろ酔い加減で繁華街をうろつくと、周囲の男の、舐めるような視線が刺さる。そのことに得も言われぬ快感を覚える。引き手数多の口説き文句を、さらり軽やかにかわし続け、飲みに飲むこと7軒目。
そこに、運命が待っていた。
◆
落ち着いた店内は、男の怒号で洒落た空気を台無しにされていた。
「なんて事を! なんてものを客に出す! 貴様、生命をなんと心得る!!」
騒ぎの中心、お一人様のその男は、出された品に難癖をつけていた。つまみに出された生ハムが、いたくお気に召さないらしい。
「いいか、動物はご飯じゃない!! もっと命を大事にしろ!」
恫喝と共に、ほとばしる正義のままに店員を叩きのめす。生命の脆さと儚さを、その身に刻む鉄槌だ。店内の客が後ずさる。ただ一人その場にとどまる小百合は、その男に見覚えがあった。
「……酒友君?」
パウンドの手を止め、男がぎくりと振り返る。目と目がぶつかり、男が目を丸くした。険しい平和主義者の仮面が剥がれ、返り血まみれで優しく微笑む。
「斎藤さん……いや、今は結婚して幡羅木鉢さんだったね。一体どうしてこんな所に?」
大学時代の夫の友人、酒友辰一であった。
◆
小百合のお一人酔いどれツアーは、酒友の暴力行為でお開きになった。乾杯代わりに鳴り響くのは、現場へ急ぐサイレンだ。酒友がハッとなって踵を返す。
「逃げよう!」
「えっ!?」
なんで私も──疑問を抱く暇もなく、気づけば小百合は男の腕に攫われていた。抵抗はしなかった。いきなり過ぎたのも理由だが、実のところ、彼のことが気になった。
特にその目だ。まっすぐで、一点の曇もない澄み切った目が──かつての夫と重なったから。
◆
河岸を変え、二人は場末くさい店で肩を並べる。
とりあえずの乾杯の後、しばし何気ない雑談が続いた。酒友の話術は巧みだった。口下手な小百合をさり気なくリードし、話題を見つけて気持ちよく喋らせる。その返しも機知に富み、さりげない薀蓄を添えて小百合の好奇心を刺激する。
やがて話題が底をついた。気まずいとも心地よいともとれる沈黙が流れる。それを埋めるには、あえて避けた話題しかなかった。酒友が低くささやく。
「あいつとは……省吾とは今は疎遠でね。奴は今、どうしてる?」
「……知らないわ。あんな人。いつもいつも『仕事、仕事』で、たまの休みがあったって、寝てるか接待の準備ばっかり」
火照った身体に酔いが回って、ついつい愚痴がまろび出た。失敗したと気づいても後の祭りだ。ましてや他の男の前で口走るなんて、誤解されても仕方がない。
酒友はしばらく言葉を吟味するようワインを持つ手をくゆらせていたが、やがて一口なめて呟いた。
「相変わらず、世界が狭い男だな」
その一言にカッと来た。自分でも驚くほどの大声が、煤けた店内に反響する。
「あなたに彼の何がわかるっていうの!?」
「分かるさ。君よりもずっと分かっている。あいつと僕は腐れ縁だ、互いのことはなんでも知ってる。好きな食べ物、服の着こなし、女性の好みにこじらせた性癖までもね。だからこそ、僕たちは袂を分かった」
酒友はそこでワインを飲み干すと、常にない鋭い目つきで小百合をみた。
「君こそ、何故彼を救わない?」
思いもよらない言葉だった。衝撃が電流となって小百合の肢体を駆け巡る。
そんな発想はなかった。なぜなら彼女の夫は、いつも真っ直ぐで情熱的で……妻の存在を忘れるくらい、ひたむきな人なんだと思い込んでいた。こんな自分が救わねばならないほど、傷つき弱っているだなんて……。
「じゃあ……どうすればいいの? 分からない、私にはもうわからないのよ、酒友君……」
「これまでの話から察するに、君たち夫婦は病んでいる。だがそれは、何も君だけに限った話じゃない。むしろ、原因はあいつに……省吾にある。君の努力が実らないのも、おそらくはそのせいだ」
追加のボトルを開けながら、男は訳知り顔で捲し立てる。
──病んでいるのは、なにも君たちだけではない。世界中が病んでいる。
──「文明」と「科学」、そして両者がもたらす「便利」こそ、この世界が抱える宿痾そのものだ。
──人々は、気づかぬうちに「便利」の奴隷になっている。自然がもたらす試練を避け、怠惰と享楽に溺れ続けているのだ。
──君の夫は、それに加担させられている。世界を壊す逆賊共に。
──心配いらない。私がいずれ、彼らを糺す。
その弁舌に小百合の関心は強烈に疼いた。藁にもすがる思いで彼の袖にしがみつく。ふしだらに思われようと構わない、今欲しいのは解決の糸口だ。その為なら──何だってしてみせる。狡猾で邪な手段さえ、今の自分は辞さないだろう。
男の胸元に、指先をそっとはわせる。だが酒友は女の体を静かに引き剥がし、ゆっくりと頭を振った。気の迷いを見咎める、どこまでも厳しい眼差し──なけなしの女の武器を袖にされ、けれど不思議と惨めではないのは、男の目にも迷いの色を見たからだろう。
「幡羅木鉢さん……いや、小百合くんと呼ばせてもらおう。君にその気があるのなら、僕が……私が君を導こう。あいつが罹った病から、私と君とで救おうではないか」
今日はこれで失礼するよ──淡々と言い残し、男は白衣を翻らせた。カウンターには一枚の名刺。小百合はそれを拾い上げ、さり気なくバッグに放り込む。会計を手早く済ませて家路についた。
帰り道のタクシーで、小百合はガラス越しの夜景を見つめ、男の言葉を反芻していた。
「導く……っていってたわね」
触れても居ない唇に熱を感じて、そっと指先でなぞってみた。あの男の言葉には、それだけの強さがあった。
「お客さん、今なにか?」
「……何でもないの。それより、先を急いで頂戴」
素気ない言葉を返しながら、小百合は一つ決意した──支払いもせずに消え去った男の、白い背中を思いつつ。
◆
男のラボは都心からは遠い、車で片道二時間半の県境にあった。
たどり着いた場所は、広大な土地に驚くほど豊かな森と水。所々がつましく拓かれ、水田や畑作が行われている。あちこちでベジタリアンが仲睦まじく餌を食む。素朴でのどかで、穏やかな場所だった。
「きっと来ると思っていたよ」──アポ無しの来訪にもかかわらず、酒友改め『教授』を名乗った男は快く小百合を受け入れた。
ラボまでの道すがら、肩を並べて言葉をかわす。
男は真実を語ってみせた──アポロは月に行っていない。プレスリーは生きている。進化論はまやかしだし、STAP細胞は実在する。これらは全て、知る人ぞ知る真実なのだと。
「どうだい、小百合くん。いかに現代社会にまやかしが多いか、改めて理解できたかい?」
「ええ……思った以上に、世界は危機的状況なのね」
「そうだ。そして省吾は、そうと気づかず社会の歯車であり続けている……」
教授はそこで歩みを止め、小百合の顔を真っ直ぐ見た。細い両肩に手を添えて、力強く訴える。
「あなたの力が必要だ。君の亭主を助けるためにも、どうか私と来てほしい」
殺し文句はプロポーズにも似ていて──小百合の胸は不覚にも、小鳩のようにときめいた。
◆
ラボについたその日のうちから、小百合の献身は始まった。
愛する夫に暇も暇も乞わず、ベジタリアンと寝食を共にし、彼らの考えや生活作法を学ぶ。傷ついた地球を癒やし、万物と共生し、いかにして健康と持続可能性を追求するか──この深遠なる命題にも全力で取り組んだ。
いつしか彼女は誰よりも──ともすれば教授すら凌ぐ、結社の柱になっていた。
◆
福音は、試練の後に訪れた。
2週間にも及ぶデトックス──水以外の一切を断ちきり、俗世の毒を残らず吐き出す過酷な試練。
その日程を無事に終え、疲労の極地で優しく迎える師が、疲労の極地の肢体を抱いた。感涙に身を震わせ、何度も頭を梳る。
「……よくぞ、よくぞここまで研鑽した。今の君は心も体も、間違いなく世界で最も美しい」
夢心地で抱かれながら、ふらつく身体を支える腕の、そのたくましさに安堵した。
いつぞやのように手に手を取られ、ゆっくりとラボの森を歩く。
「今の君は、体内から不要な老廃物がすべて取り除かれた状態だ。心と体が軽いだろう? まるで雲の上を歩いている気分ではないか?」
ゆっくりと頷いた。まさにその通りだったからだ。地面はずっとフワフワしていて、子鹿のように駆け出したいほど面白い。
透明な笑顔を浮かべる若妻の顔は、少女のあどけなさを湛えていた。
満足することひとしきり、教授は小百合の手を取り告げる。
「一つ階梯を登った君に、私から授けるものがある」
百合を思わせるたなごころに残されたのは、白く淡く愛らしい、初雪を固めたような小さな粒。強く触れればもろく崩れてしまいそうで、その儚さが少し、怖い。
「これは……?」
「レメディという。君の心を善く保ち、あらゆる病魔を未然に防ぎ、失った活力を取り戻させる。全身が清らかになった今こそ、飲む価値があるモノさ」
ねぶってご覧──ほら、こうやって。
言われたとおり、舌の裏側でくるめ取り、五感全てで霊薬を味わった。
甘ったるさに陶然となる。ゆっくりと溶けていくレメディが、まるで己の身体のように感じられた。魂までもがとろとろに溶けて、世界と一つになっていくよう──無我夢中でねぶりまわす女の様子に、教授は手元にあった炊飯器のタイマーを見る。炊きあがりまであと5分。
続けて男が差し出したのは、形はいびつ、ところどころに虫に食われた、黒く艶めく夏野菜。
「お茄子……よね?」
「そうだ。ただし、ただの茄子ではないぞ。かの高名な溝静空──君の夫の故郷でとれた、完全有機栽培の秋ナスだ」
「あの人の……ふるさと……」
今となっては懐かしい、伴侶の面影がつかの間よぎる。差し出された多年生植物の出自に、縁のようなものを感じられる。するとどうだろう、見てくれからしてブサイクだったこの茄子が、とてつもなく美味なるものに思えてくる。
おずおずと受け取ると、その色艶形にはっきりと心惹かれた。見守る師の力強い頷きが、衝動を後押しする。
「遠慮はいらない。一気に頬張り給え」
陽光にてらてら光る悪魔の爪先のようなそれを、小百合は柳眉を歪ませ、それでも一気に頬張った。刹那、痺れるような感慨が訪れる。待ちに待った固形物の、硬く太ましい質感に瞼が切れそうなほど瞠目した。
「宇宙のエントロピーを感じるだろう? これが、ガイアがもたらす恵みだよ」
確かに小百合がこれまで味わってきた野菜とは、根本的に何かが異なる──気がする。だがこの男が言うのだから、きっと間違いないのだろう。いや、絶対に違うのだ。
途端に唾液がにじみだし、くわえ込んだ口の端から一筋の線を引く。充実感にむせび泣く人妻に、そっと教授は語りかける。
「美味しいかい、小百合」
「美味しいッ! ほいひいわッ!! ほんらの私知らない!」
「そうだろうそうだろう。さあ、もっと奥まで飲み込んで」
命じられるままに喉奥までくわえ込む。歯を立てないように慎重に、嘔吐感をやり過ごしながら。たくましい存在感と青臭さが、味覚と嗅覚を満たしていく。涙がこぼれて止まらなかったが、苦痛は一切感じない。
今や女の意識はめくるめき、我と汝れとの境目さえもが曖昧だ。神意へ昇る女の姿に、教授もまた昂ぶりを隠せない。炊飯器のアラームがはかったように出来上がりを告げた。
「素晴らしい、素晴らしいよ小百合くん! 素質アリと見込んでいたが、よもやこれほどとは!」
ガツガツと玄米をかっこみながら、酒友は興奮した様子で叫ぶ。
だが小百合の耳には最早届いていない。随喜の涙を流しながら、心身ともに生まれ変わる悦びに身を委ね続ける。
「やはり君こそ求めていた逸材! 悦び給え、小百合くん! 私のすべてをくれてやる!」
宣言通りに教授の指導は日を追うごとに熱を帯び、女の秘めた才能を次々と開花へ導いていく。
彼の理論は飛躍とひらめきに満ち溢れ、昼夜を問わずありとあらゆる思いつきが試された。
ある時には瞑想の果てに前世の記憶を思い出し、ある時にはパワースポットで宇宙の同志と思念を交わした。
今日もまた、新たな指導に身を委ねる。
「お次はレイキの特訓だ! 私の指先を意識しろ、ほとばしる癒しの波動をタップリと味わいたまえ!」
「嗚呼ッ……! しびれるッ………! 素敵、素敵だわ……!」
仰け反り悶える人妻に、さらなる功徳が施される。
「そこでさらに倍率ドン! 空気のビタミン、マイナスイオンが君の肉体を隅々まで洗うッ! 細胞の隅々までだッ!」
「ほぉおッ! もうダメ私、癒やされちゃうッ!」
◆
こうして7年の月日が流れ──女は、小百合は完璧に生まれ変わった。
心身ともに美しく、瞳の中には小宇宙が瞬く。熟れた身体に強烈な神性を帯び、絶えず癒やしのオーラが滲んでいる。
透き通った美貌は見るもの全てを危うく魅了し、微笑の一つで虜とせしめる。極限の美容と節制があってこそ辿り着ける至高の境地──体内の隅々まで清らかになった小百合の中で、もうひとりの自分が囁いた。
「あなたは世界……世界はあなた……」
今ここには居ない男を、小百合の眼は確かに視ていた。もはや小百合の中では、夫と世界の別はない。無限に満ち足り、夢幻の中に生きている。ここがどこだか分からずとも、どこでだって生きていける。
そして今度こそ、大事に守り、育むのだ──かつてどこかで喪った、愛という名のかけがえのない宝物を。