農協戦士
その朴訥すぎる言の葉は、灼熱の農地にあって慈雨のように染み入った。
怒りなく、悲しみもなく──義務感を束ねたお役所感に満ちた声。
だがそれ故に、窮地にあっては頼もしい。
泰三は目を凝らし、その姿を仔細に見た。遮るもののない日差しの中に、揺らぐ三つの影法師──。
それは、人体と呼ぶにはあまりにも適当だった。
傾いだ身体はあまりにか細く頼りなく、その身に纏うはボロ同然の百均Tシャツ、擦り切れた麦わら帽は夏風に吹かれて体ごとゆうらり揺れる。
それでも彼らは、立っている。双つの腕をピンととまっすぐ翼のように張り巡らせ、ひとつの足で磔の聖人のごとく屹立している。
僅かに振り向く横顔は、素朴極まるへのへのもへじ──それは、まさに案山子であった。
どこからみても、案山子であった。
◆
「──農協のものです」
淡々とした名乗りを受けて、泰三はなんと答えるべきか途方にくれた。これは難しい。何を隠そうこの案山子、先刻からずっと佇んでいたのだ。それでいながら今この時に至るまで、菜食主義者の畜生働き傍観するとは、一体どういう了見か。
だが仮にも農協を名乗る案山子である。下手に粗略に扱って、上に睨まれでもしたらコトだ。長いものには巻かれておくのが、長寿と繁栄の秘訣である。
大地に試される泰三だったが、散々にまよった挙句、
「……お世話になっております」
それだけ言うのが精一杯だった。
案山子達は律儀にペコリ会釈を返すと、身を翻して偽装を解いた。
中から出てきたのは、男が二人、女が一人──中でも中心に佇む男に、泰三は見覚えがあった。
「お主、省吾……か?」
いかにもそれは、勘当した一人息子の幡羅木鉢省吾(34)であった。いかにも事務方然とした銀縁眼鏡に田畑に似合わぬ半袖Yシャツスラックス、トレードマークの袖カバーが午前九時の朝日に滲む。漂う芋っぽさはクールビズと言うより省エネルック──この絶望的なセンスは、見間違えるはずがない。だが彼は、田舎を嫌って都会で就職したはずだ。それが何故、こうしてここに現れたのか……諸々の思いが父の胸を交錯する。
省吾は銀縁眼鏡をついと上げると、冷たい視線で父を見た。卑しいプロレタリアートを蔑む、腐った小役人の視線であった。
「土留橋先生からの伝言です」
「土留橋……? 県会議員の?」
「ええ、その土留橋先生です。先生はご自身の票田を守るべく農協本部を恫喝し、我々を私的に動かしました。つきましては次期統一地方選──おわかりですね?」
サラリと違法献金を唆し、元カカシ達は油断なく周囲を見渡す。
やがて視界が全て晴れ、ムクリと人影が立ち上がる。やはりというべきか、ベジタリアンは生きていた。
あれほど苛烈な一撃にも全くの無傷──奇跡のリンゴの如きしぶとさだ。
だが、真に驚くべきはそこではなかった。
その隣には一体いつ現れたのか、男が一人、夏の幻のように佇んでいる。端正で知的な眼差し、白衣姿に総白髪──田舎の山野にまるでそぐわぬ男だ。ベジタリアンは彼を仰ぐと、まるで不覚を詫びるように彼のそばで拝跪した。
泰三は戦慄した。通常、ベジタリアンを飼い慣らすなどありえない。奴らは基本、意識が高い。人の話は聞かないし、論破すれば空中にろくろを描いてけむにまく。そんな厄介な生物をペットのように従えるなど、一体いかなる神か悪魔の化身か?
いや──一つだけ心あたりがある。近年増加の一途をたどるビリーヴァーどものグループの中でも、急速に力をつけ、今やその戦闘力はイルカの友達シーキャットをも凌ぐと言われる組織がある。
その組織はたった一人のカリスマによって生み出され、内ゲバと集合離散を繰り返すナチュラリストを一つにまとめる大勢力となった。今やその影響力はとどまることを知らず、各国政府や経済界にまで浸透するガイアの使徒──恐怖に震える泰三の喉から、忌まわしきその名が迸った。
「ロハス……秘密結社ロハス!!」
「然り」
老人の言葉に、男はこじらせたインテリ特有の嘲笑を口元に浮かべ、鷹揚に頷いた。
この男こそガイア理論と創造論の申し子、バイオテクノロジーの真髄を極めた天才、地球に優しく人に厳しい科学者にして戦士──秘密結社ロハスの首領、教授その人である。
カリスマとカルマを兼ね備えた地球正義が余裕たっぷりに労働者たちを睥睨する。
「随分と遅い登場だな、農協の犬ども。お役所仕事も甚だしい」
「ウチは勤務時間厳守でね。貴様らこそ、こんな秘境に遠足か? 相変わらず健やかな暮らしぶりだな、教授」
「なに、ガイアの囁きを聞いたのだ。ここを我らが聖地とし、ゆくゆくはG県全土を支配下に置く……お前たちこそ、何故こうも我らの行く手を阻むのだ? 堕落した飽食主義者め」
「偏食するのは勝手だが、食卓の彩りを無闇に奪うなど言語道断! ましてや悪戯に現代科学を否定し『自然に還れ』と煽るなど、衰退主義にもほどがある!」
「笑止!! 人は優しさと思いやりでどんな環境でも生きていける! ノーモア電力! ノーモアワクチン! 病気になったら免疫で頑張れ! エアコンつけずに我慢しろ! ウィー・アー・ザ・ワールド、アイ・ハブ・ア・ドリーム! 愛で地球は救えるのだ!」
「目を覚ませ、サイコ野郎。地球は何も意志しない。ガイアの声など幻聴だ」
「フン……やはりお前たちとは、どこまでも分かり合えんようだな……」
宿敵の対話を一方的に打ち切り、教授はおもむろに手を伸ばす──掘り返された土を一つ掬って口元へと運んだ。しばしの瞑目。口内で踊る馥郁たる土の味を文字通り噛み締める。ゴクリ嚥下し、やがて両目は興奮とともに見開かれた。ついでハラハラと涙が落ちる。総身の毛を逆立たせ、興奮に一物を屹立させるほどの喜びようだ。
「なるほど……聞きしに勝る肥沃な大地! まさに我らのコミューンにこそ相応しい……!! 溝静空よ、我が健康と持続可能性の礎になるがいい!!」
口元にべったり黒土をまぶし、恍惚の中で男が歌う。さっと片手を翻せば、次々と地面が爆裂した。
「「「「「フレェェーーーッシュ!!」」」」」
空爆同然の激震とともに現れたのは、ベジタリアン、マクロビアンにフルータリアン──傍目にはどれも同じの害虫共の大群だ。軍密度が上がり過ぎ、今やその生態はバッタで言う群生相へと変貌している。食欲と攻撃性120%増しのエコの使徒が、泰三と農協のエージェントをぐるりと囲んだ。
かくして妙なるラッパは今こそ吹かれ、黙示録が再現された──恐れおののく老農夫。だが農協の働き蜂は泰然として揺るがない。
省吾は──彼の息子は居並ぶ凶獣を見渡すと、背後に控えた若い男女に鋭く注げる。
「行くぞ、桃地君、宇気守道君。収穫の時間だ」
「好き嫌いはゆるさねえ! お肉も美味しくたべやがれ!」──新人の宇気守道淳(21)が若い血潮をたぎらせた。
「OK、ボス。おカネとオシゴトダイスキよ」──農協ニンジャ筆頭、美貌のハーフ桃地ジェシカ(27)が恬然と笑う。
そういえば、聞いたことがある。
昨今増長の一途をたどる反捕鯨、反戦団体、菜食過激派──国家におのが主張を飲み込ませんと跋扈するソーシャルジャスティスウォーリアーに対抗するため、国家はあるプロジェクトを立ち上げたと。
無作為に抽出した国民に日本のもてる限りのテクノロジーを注ぎ込み、その結果生き残ったものだけが登用される狭き門──人命に責任をとりたくない農水省が農協にまるなげし、更にその下請けがサビ残とオーバーワークの末に産みだした第三セクターの戦士たち。その名も、
「農協戦士、テラファーマーズ!」
勇ましい決め台詞とともに、下請け戦士が身構える。迎え撃つはこじらせたインテリと彼の配下の昆虫人間、はたから見ればどっちもどっちのクリーチャー──国家の敵と国家の狗が他人の土地を奪い合う、浅ましい死闘の幕開けだ。
泰三は思う──悪戯に競争社会にしがみつかず、辺境でつましく生きた己の選択は間違いではなかったと。
願わくば、双方共倒れになりますように──。
◆
「宇気守道くんは右翼、桃地くんは左翼。私が道を切り開く。いいな?」
矢継ぎ早の指示に二人の部下が小さく頷き、それぞれの持場へ向かって走りだす。それを見送り、最後に戦士は振り返る。
「父さ……幡羅木鉢さんは、そこでじっとしていて下さい。直ぐに駆除は終わります」
一瞬見せた親子の絆を置き去って、省吾は死地へと飛び込んだ。その手にあるは漆黒に輝く手動式脱穀機。それを猛然と振り回しながら、男の背中は鉄火場の中へと掻き消える。
泰三は呆然と見送る他に術がない。踏み荒らされた田畑の中で、彼はどこまでも無力だった。
◆
「行くぜ、偏食野郎!」
熱く滾った叫びを上げ、テラファーマーズの新進気鋭、宇気守道淳は大地を蹴る。右手に菜箸、左手は一体化したフライヤー──情熱を190℃の火力に変え、異能の力を言の葉に載せる。
「調理、開始──」
力ある言葉に導かれ、淳とその周囲の空間に歪みが生まれた。
そこから下ごしらえ万全の鶏もも肉を虚空から生み出すやいなや、構えた菜箸でフライヤーの中に手早く放り込んでいく。
絶妙な加減で二度揚げされたソレは歯ごたえサクサク、中身はジューシィ、冷めても美味しい100g250円の唐揚げへと変貌せしめた。出来立ての香ばしい匂いに見守る泰三も固唾をのむ。
そこへとどめのレモンをキュッとひとさし──がっかりする泰三をよそに電光石火でベジタリアンへと繰り出した。
「食えよやぁァーッ」
裂帛の気合とともに繰り出された唐揚げ棒の一撃は、狙い過たずベジタリアンの貪欲な口腔へと滑りこむ。直ちに蛋白質はアミノ酸へと還元され、体液に含まれるEM菌と結合、化学反応を起こしスパーク──。
──そして閃光、ついで爆轟。
先刻ベジタリアンが起こした爆発などそよ風に等しい、神罰の如き炸裂が勃発し、夏の青空に光の柱を打ち立てた。その余波が大地をえぐって波濤と化す──白と黒二色に染まる世界の中で、とっさに地べたに這った泰三は身も世もなく吠えた。
「畑!! 儂の畑が!!」
どうか無事でありますように──というか夢でありますように。DEENっぽく老いぼれが祈る。
だが現実は非情である。再び目を開けた時、そこは一面荒野であった。世紀末の中心で熱血コックが油をリロード。廃油がじゅうじゅうと土を焼く。
「こんなのってないよ……」
老いぼれの慟哭をよそに、戦闘はより激しさを増していく──。
◆
「シャチョサン、SUKEBE、スル?」
たどたどしくも艶かしい挑発の声が、泰三の意識を涅槃から引きずり戻す。
彼から見て左翼に当たるその一角、そこでは祭りが起きていた。その中心は農協戦士の紅一点、桃地ジェシカの一人舞台だ。
体の線がくっきりはっきりピッチリ浮き出る桃色タイツに手甲具足──これ見よがしのサービス衣装で農協ニンジャがひらり舞う。
たわわに実った双果実が動く度に弾み、しなやかな柳腰が右に左に妖しく揺れる。そしてこれこそ舶来品の真骨頂、量感たっぷり極上の白桃を思わせる南米尻は、老いた泰三の愚息にさえ新芽の如き活力を与えた。
全身これ旬真っ盛り、女体という一個の果実が菜食の徒の眼にみずみずしく映じ、彼らの野生とあるかなしかの知性とを刺激する──いくらたてまえで草食を謳おうと、せめて夜は肉食でありたいという本音が泰三の眼にも明らかだった。
しなやかな指先を胡蝶のようにくゆらせて、美貌の忍がしどけなく微笑む。
「さァ、シャチョサン達──誰が私をPollinationさせるノ?」
その一言が呼び水となった。
おのが雄しべを膨らませ、我先にと食指を伸ばすベジタリアン──さながら夜道でハイエースの扉が開いたかの如き情欲の奔流が、即落ちヒロイン目掛けて殺到する。作付という名の保健体育が繰り広げられるかに思われたその矢先、ジェシカの周囲で濃密な霧が舞う。
その濃霧に触れた途端、ベジタリアンに異変が生じた。ある者は全身にかぶれが生じ、皮と肉とががまたたくまに腐って落ちる。あるものは新鮮な空気を求めてひすら喘ぎ、やがて力尽きて土へと帰る。一網打尽の死屍累々──あとに残るは女が一人。これこそ雌色果実の甘い罠。名づけて、
「農協忍法──DDT」
あろうことか農薬、それも国内ではその仕様が著しく規制された超高濃度ジクロロジフェニルトリクロロエタンの一斉噴霧である。だがジェシカは躊躇なくそれを放った。極めて残効性の高い有機塩素が荒野一面降り注ぎ、30年純潔を守った優しい夢は今、名実ともに死を迎えた。農薬と陽光が入り混じり、虹のアーチが弔うように空にかかる。
「ああ……」
ためらいなく引かれた禁忌の引き金に、泰三が絶望の吐息を漏らした。
田畑を荒らされ、誇りを穢され、それでもなお生きている意味は何なのか──お天道様は答えない。
◆
なんかもうどうでもいいな──投げやりこの上ない心境で、泰三は視線を移す。
チームのリーダー、幡羅木鉢省吾は、その肩書にふさわしく最前線に立っていた。群れなす野獣に一歩も引かず、渦中の畑に凛と立つ。たくましく育った息子の背中が父の目にはひどく眩しい。せめてその晴れ姿で気を紛らわさねば、正気を保っていられない。
「がんばえー、わしの息子、がんばえー」
声援を痴呆のように繰り返す老父の姿に思うところがあったか、省吾が肩越しに薄く微笑む。過去に諍いがあったとて、やはりそこは親子である。こみ上げるものがないわけではなかった。
思えばあまり、会話はなかった。父は自分の夢に耽溺して家庭など顧みなかったし、息子は息子で夢想家の父を心から軽蔑していた。
だがそれでも、目指す地平は同じであった。全ての食卓に美味しい野菜を──その答えを父は無農薬に、息子は科学に求め続けた。
袂を分かって幾星霜──父の努力は結実し、今日その努力は死んだ。ならばかたきを討つべきは、他ならぬ彼の役目であろう。
(──父さん、)
万感の思いを胸に抱き、省吾は懐から取り出した『それ』を──ドドメ色の液体の入った注射器を──己の首へと突き刺した。
「これが……日本の科学の力だ!!」
絶叫とともにシリンダーを押し込む。薬液の冷たく熱い感触が血流に乗って全身を駆け巡り、激痛とも快感ともつかぬものが省吾の心と体を責めさいなむ。唐突な負荷に心拍が加速し、耳鳴りが聴覚を埋め尽くす。視界が明滅。嗅覚はおのが胃の腑の臭いをかぐほど研ぎ澄まされて、その舌は鉄さびた自身の血を味わう。触覚は体内で起こる地殻変動を余さず感知し、それが頂点に達した刹那、ドクンと一つ鼓動が跳ねた。
そして革命が始まった。全身の筋肉という筋肉が急速に内側から隆起し、恐るべき速度で省吾の身体が膨れがある。パンパンに張り詰めたYシャツが飛び散り、顕になった素肌が赤黒く染まった。血液は沸騰し、毛穴という毛穴からもうもうと蒸気が上がる。まるで活火山の形成だ。
体格は二回りも大きくなり、その重みで踏みしめた足が大地に沈む。歯列の隙間から、苦痛と悦びを堪らえる呻きが漏れた。天変地異に等しい変容を耐え切り、新生した生命が、咆哮とともに目覚めを告げる──。
──豪ォォォォォォアアアアアッッ!!
野山の大気を焼き払うような轟きを残して、幡羅木鉢省吾はその本性を表した。
「………ッふぅッ」
煮えたぎる吐息をひとつ。充血した双眼は妖刀じみた光を放ち、眼光だけで有象無象を金縛る。
省吾が──いや、農協の悪鬼が動いた。たくましい右腕を無造作に伸ばし、一匹のベジタリアンの喉首を捉えた。枯れ木のようにやすやすとへし折ると、傍らにある彼の頼もしい相棒──戦闘用脱穀機『後家殺し』の中へと頭から叩き込んだ。
「うおおおおおおッ」
荒々しい咆哮とともに青年の右足が唸り、踏み砕かんばかりにペダルを漕いだ。連動して何百ものピンを突き立てたドラム式こぎ胴が巨獣の如き唸りを上げる。今や横倒しの竜巻に等しいそこへと力ずくで放り込まれたその結果、どうなるかは想像に難くない。皮膚表面がこそげ落ち、べろべろに剥がれた血と筋と骨と肉とがビチビチ飛び散り夏の焦土を生ぬるく濡らす。新鮮が屍肉に──あまりに猟奇なその仕置に、泰三もベジタリアンもドン引きだ。
続けて二匹、三匹と毒牙にかかってその罪ごと脱穀される。モーセが海を割るように、ベジタリアンの陣形が崩れた。だがなおも止まらない。『何勝手に割れてんだ』と言いたげに、人海に手を伸ばしては鷲掴み、片っ端から精米していく。鉄火場に相応しい熱狂を瞳に宿らせ哄笑を上げる。
「ゲハハハハァッ!! もっとだァ、もっとかかって来い! 貴様らのあさましい命、ここで脱穀してくれる!」
銀縁眼鏡と袖カバーを朱に染め、猛り狂う息子の変わり果てた姿に、泰三は途方に暮れる。
──優しい、命を大切にする子じゃった。
──それが今はどうじゃ。狩りの喜びに満ちておる。ありゃまるで生きた地獄じゃ。
頼もしくもおぞましい姿に、自然とこみ上げるものがある。今は亡き妻に向け、彼はひたすら詫びるしかなかった。
──すまん、すまんなあ千代子……。儂が夢にかまけたばかりに。
──倅は、都会に染まってしまったのだ。
◆
趨勢は最早決定的だった。
街で噂の唐揚げ職人、淫らに舞い飛ぶ毒果実、死肉をばらまくミンチマシーン──三位一体、聞きしに勝る残虐ファイトに大地の子らがなすすべなく散っていく──だがプロフェッサーは動かない。
ぐるり周囲を囲まれて、なおも余裕を保ったまま──こじらせたインテリ特有の嘲笑を浮かべて佇んでいる。
「さすがはわが宿敵だ。だがそれで勝ったつもりかね?」
「随分と余裕かますな、ロハスの大将! だが聞こえるぜ! お前の腹の虫が啼く声がな!」──菜箸カチカチ油もパチパチ、宇気守道が熱々の出来たてを放り込もうと歯をきしらせる。
「ハン、どうせ強がりヨ。脱税がバレそうなシャチョサン、みんな見栄はルね。でも女って、落ち目の匂いワカルのよ」──かつておっパブで数多の男を虜にしたジェシカが鼻で笑う。
「潮時だぞ、教授。大人しく縛につけ。せいぜい脳改造で済むはずだ」──元の事務職の姿に戻った省吾が、わずかに憐憫を滲ませて告げた。
教授は肩をすくめると、改めて周囲を見渡した。味方も緑も全て死に絶え、乾いた土にはDDTが粉雪のように積もっている。これではガイアは囁かない──そう悟ると、彼の行動は早かった。
「今は、退く──」
告げるなり、教授は白衣の裾を翻らせた。
「逃すかよッ!」
宇気守道が鋭く唐揚げを繰り出す。だが教授はその手練の体捌きによって香ばしい匂いすらも寄せ付けない。
「シャチョサン、オダイ、マダよ!!」
ジェシカがフォローに動いた。遊びで抱くには最高の肢体が教授の前に立ちふさがり、一斉にDDTが噴射される。
教授は一瞥もくれず、白衣の裾で濃霧の壁を切り裂いた。風圧だけでジェシカが吹き飛ぶ。
そして省吾の後家殺しさえ空を切り、教授の姿は瞬く間に田畑から消えた。驚愕する一同の耳に、教授のあざ笑う声が響く。
「さらばだ、諸君。次こそ決着、私も切り札を用意しよう。それまで怠惰と飽食に明け暮れるがいい──」
その声は秘境の野山にいんいんと響き、しばし彼らの動きを縛る──やがて気配が途絶えると、誰からとも無く緊張の構えを解いた。
淳は売れ残りを悔しげに頬張り、ジェシカはぴっちりスーツの食い込みを直す。省吾は空を仰ぎ見て、逃げおおせた宿敵を──かつて共に学んだ男の横顔を青の中に思い描く。
ひとまずの勝利──つかの間の、苦しい勝利。
その褒美は、ただ一面の荒野と、死んだ目をした父だけだ。
彼らは再びやってくる。今度は切り札を伴って。
その時自分は、彼を本当に討てるのか……その身に巣食う性根の甘さに、省吾は臍を噛むのであった。