第4章 竜はやがて巣立ちを迎える その2
次の日の朝は灰色の雲が空を隙間なく塞いでいた。雨こそ降らぬものの、大気はじっとりと湿気を含んでいる。
私はユグドラシルに「行ってくる」と告げると、寝床の材料は午後にでも探すことにし、まずはハーピーの里へと向かうことにした。
ハーピーの里は世界樹から見て南の山岳地帯に位置している。ラミアの住む北の泉とは真逆の方角だ。
当初は毎朝ラミアの元へ食料を運ぶつもりだったのだが、蛇種であるラミアは食いだめの利く生き物らしく、あれだけの量を食べれば2週間は何も食べる必要はないと彼女は言った。
『ならば1週間後にまた来よう』と約束すると、ラミアは不意を突かれたような顔を見せた後、深々と頭をさげた。
さて、ラミアとの約束は一週間後であるし、今はもう一つの約束を果たすべく、ハーピーの里へと降り立った。
ハーピーとは群れを作る種族であり、里は小さな集落を形成している。
何の前触れもなく里に訪れた私を、ハーピー達は悲鳴と恐慌で出迎えた。
迂闊だった。ハーピーは先代の竜の好物である。
逃げ惑い、あるいは恐怖に震え動けなくなったハーピー達に、驚かせて済まなかったと頭を下げ、友人に会いに来ただけなのだと弁明した。
一番近くにいたハーピーに『歌えないハーピーの娘はどこにいる?』と尋ねると、ガクガクと震えながらも、里から外れた方角を指差した。
私は彼女に礼を言い、震える指の示す方向へと飛び去った。
背中越しにハーピー達の安堵のため息が聞こえてきた。
ハーピーの里から4キロほど離れた場所に、布と木でつくられたゲルのような小屋をみつけた。
山に囲まれて日陰となり、小さな湿地帯となっているその場所は、決してハーピーが好んで住むような場所ではなかったが、他に家らしきものは辺りには見つからなかった。
家の中に生き物の気配を感じた私は、まずは家の入り口を探してみた。
どうやら布の合わせ目が入り口となっているようだが、扉も呼び鈴もない玄関ではノックのしようもない。
鍵などない故、めくるだけで簡単に開けられるものではあるのだが、女性の家を断りもなく覗くような真似は許されぬだろう。
私は声をだしてハーピーの少女を呼んでみることにした。
「ミーンミンミンミン(訳・ハーピーよ、そこにいるか? 私だ。竜だ」
私が声を発するやいなや、小屋の中からバタバタという羽音と、ガラガラと何か転がり落ちるような音がきこえた。
その後しばらくして、入り口らしき布と布の境目から私の友が恐る恐る顔をだした。
彼女の空色の髪からは水がぽたぽたとしたたっている。どうやら体を拭いていた最中であったらしい。
彼女は私を見つけた後、いつものように口をパクパクさせていた。
もっとも、今回は何かを言いたいわけではなく、ただ純粋に驚いているだけのようだ。
私は先日そうしたように彼女の頭に指を乗せると、意思のみで言葉を交わしていく。
「(約束しただろう? 雲の彼方まで連れて行くと、今から空へと遊びにいかぬか?)」
ハーピーの少女は一寸目を大きく見開いたあと、小さな林檎のような笑顔を浮かべると
「(はいっ)」
と、元気よく答えてくれた。
ハーピーは準備をしたいから10分ほど待ってくれないかと、私に尋ねた。もちろんだと答えると、彼女はそのまま、亀のように頭を家の中へ引っ込めた。
小屋の中から、再びバタバタと慌しい羽音が聞こえ始める。
10分たち、もう10分たち、さらに10分ほど経ったあと、ハーピーはようやく小屋から現れた。
遅くなってしまったことを懸命にわびる少女に、謝るのは何の前触れもなくやってきた私の方であると謝罪した。
私の謝罪に対し、彼女は手と顔と羽を左右にバタバタと動かした。
ハーピーの少女は薄い橙色のテュニカを纏っていた。
彼女の空色の髪によく似合う淡い色合いのものだ。幾分古そうではあるが汚れのない服は、大事に扱われていたことが伺われた。
『とてもよく似合っているな』と伝えると、ハーピーの少女ははにかみながら、母にもらったものだと嬉しそうに答えた。
服は雲の上を飛ぶにはどうにも薄すぎるものではあったが、彼女の笑顔を見ると、水をさすのは野暮に思えた。
それに寒さなどなんということもない。上空の冷たい空気と風など、私の無尽の魔力で防いでしまえば事足りるのだから。
「(では、ゆくか。しっかりと捕まっていなさい)」
ハーピーが首の後ろにきゅっとしがみついたのを確認すると、曇天の空へとむかって羽ばたいた。
大地はみるみる遠ざかり、雲がどんどんと近づいてくる。
「(すごい! すごい! 速い! 高い!)」
ハーピーの声ならぬ声が伝わってくる。
思考を伝えて会話をする我らの間には、嘘など存在する隙間はない。ハーピーの少女は私の背に乗った飛翔を、心のそこから楽しんでいた。
ハーピーという種族は、真っ白で美しく輝く羽を持っている。しかしその翼は体の割には小さなもので、長時間空を飛ぶことはできない。
また、私のように魔力も合わせて飛ぶような技を持っているわけでもない。
これほどの高さから大地を見下ろすのは初めての経験なのだろう。
私はさらに高く飛ぶと、空に広がる灰色の雲の壁に躊躇うこと無く飛び込んだ。ハーピーは一層強く私の首にしがみつく。
そして厚い雲の層を抜けたとき。空は一転して晴れ渡っていた。
眼下にはもはや地上は見えず、広大な雲の海が広がっている。太陽は真上に強く輝き、灰色に思えた雲の海を真っ白に染め上げている。
「(雲の上が晴れている…)」
その光景にハーピーの少女はただ、ぽかんとなっていた。
私は少しだけ悪戯をしたくなり、体を翻し雲の海へと再び飛び込んだ。
ハーピーから「(きゃっ)」という悲鳴が伝わってくる。そしてまた雲の上に出たあとに、私たちは大いに笑い始めた。
ハーピーの少女は声を上げることはできなかったが、私が彼女の分も笑った。
友達と遊ぶことはなんと楽しい事だろう。友達と笑い合うことはなんと幸せなことだろう。
それから私達は、2・3時間ほど空の遊泳を楽しんだ。
太陽が僅かに地平線の方へ傾き始めたころ、われらはようやくハーピーの家へと帰って来た。
ハーピーの少女は今なお私の首にしがみつき、興奮交じりになんども「(楽しかった)」と繰り返していた。彼女の素直な心の声に、誘って本当によかったと思えた。
別れを告げようとすると、昼食に誘われてしまった。作りおきの山菜のスープがあるらしい。
歌で獲物を誘うことのできない彼女は、専ら山菜や木の実をとって暮らしているそうだ。
今まで食べたことのない食事には少し興味を引かれはしたが、私は彼女の申し出を固辞した。
彼女にとっては鍋いっぱい分のスープでも、私には匙一杯分の量にもなりはしない。
彼女の貴重な食料を奪う事はできない。
わたしはそろそろ寝床の材料を探しにいかねばならないからと、断りを入れた。
「(寝床?)」
いまだ首にしがみついたままの彼女は私に問うた。
…ふむ。山で山菜や木の実をとって暮らしている彼女なら、あるいは寝床にちょうど良い材料をしっているかもしれぬ。
「(今新しい巣を作っていてな。何かよいものを知らないか?)」
ハーピーの少女はしばし考えた後、
「(そうだっ、あれなら竜さんの寝床にぴったりかも!)」
と、答えた。
ハーピーの里からいくらか離れた赤い峡谷。
地割れが作る裂け目の中、日の光が微かにしか届かぬ場所へと私達は降り立った。
まるで洞窟ような渓谷を、奥へ奥へと歩をすすめると、ぽっかりと開けた空間に辿り着いた。
その中央に、傘のような形をした巨大な物体が鎮座していた。
「‥これはまさか、オオザルのコシカケか?」
私の問いかけに首にしがみついていたハーピーは肯定の意をつたえてきた。
オオザルのコシカケとよばれるそれはキノコの一種である。毒こそないものの、味も栄養もなく食用には適さない。
しかし削れば火種として使用できるためこの島の亜人達に重宝されている。
大きいものは牛程のサイズにもなるそうだが、目の前のそれは牛どころではない、私の巨体よりもさらに大きい。
「一体どれほどの時間、ここで生きていたのであろうな…」
独り言ではあったが、ハーピーは「(解らない)」と、律儀に答えてくれた。
オオザルノコシカケはとっくの昔に枯れていたのだろう、日の射さぬ場所にもかかわらず、すっかり乾ききっていた。
おそらくは、この峡谷の中で誰にもみつかることはなく、何百年ものあいだ生きていたに違いない。
わたしはそれを両手で持ち上げてみる。なんの抵抗もなく岩からはがれたオオザルノコシカケは、驚くほど軽かった。
ためしにその上に寝転んでみたのだが、私の巨体をなんなく支え、かつ適度な柔軟さと反発性をもち、その使い心地には、思わず感歎の声を上げずにはいられなかった。
何も手を加えなくとも、寝床としてこれ以上のものはない。
私の体に合うだけの巨大な寝床をつくるには、いったい何日もの間、島の中を材料をもとめてさまよわねばならぬのかと考えていたが、まさか一日で最高の寝床を手に入れられるとは思ってもみなかった。
「素晴らしい寝床だよ。ありがとう、ハーピー」
私はハーピーに礼を言う。
ハーピーはパクパクと口を動かしながら、今日一番の笑顔を私に見せてくれた。
「まあ、同居人さんよりも大きなオオザルノコシカケですか? それは本当に珍しいものを見つけられましたね」
夕食の後、いつものようにユグドラシルに今日の出来事を語る。
ユグドラシルは、時に驚き、時に相槌を打ち、私の話を楽しそうに聞いてくれるのだ。
ユグドラシルと初めて出会ったあの日からわずか4日。しかし私にとって、彼女とのこのひとときは、何事にも変えられない大切で穏やかな時間となっていた。
「本当によい寝床を見つけられましたね。きっとオオザルノコシカケさんも喜んでいるのではないでしょうか。枯れてもなお、誰かの為にあることができるというのは、私もとても素敵なことだと思いますから」
死してもなお、誰かの役に立つことができる‥か、それは確かに素晴らしいことなのかもしれない。
オオザルノコシカケは既に新しい巣に運んでしまっていたが、明日にでもユグドラシルに一度見せに来ようか。
ユグドラシルはもちろんのこと、きっとオオザルノコシカケも喜んでくれるのではないだろうか。
ユグドラシルの優しい視点は、世界が優しさに溢れていることを教えてくれる。
もしも、私が彼女に出会わなければ、私の世界は今程光り輝いてはいなかっただろう。
「‥でも、随分早く寝床が見つかりましたね。明日にでも新しい巣に引越してしまわれるのですか?」
ユグドラシルの言葉に私はハッとなった。
そうだ、寝床を見つけたということは、私の巣も完成したということではないか。
一人で住み始めれば、このユグドラシルとの暖かな時間も今日で最後となるであろう。
いや、巣はまだ完成ではないはずだ。私は再び、ぐるぐると頭を巡らせる。
何かあるはずだ。何かがまだ足りないはずだ。
何か…、何か…、巣に必要なものとは一体何だ? 寝床の他に………。
寝床…ねどこ…どこ…どこ…どこ…どれ…どあ…ドア…とびら、……扉!
「そうだ、扉だ! 扉がひつようなのだ!」
舞い降りた閃きを、私は叫んだ。
「‥ええっと、扉、ですか?」
うむ。と、頷くことで肯定する。
竜の巣というのは、財宝でうめつくされるものである。
私自身は金銀財宝などには興味はないし、これからも集めるつもりもないのだが、先代の竜が集めた宝を放置しておくわけにはいかぬだろう。
富は争いを引き起こす。他の生き物の目につかぬよう、財宝は新しい巣に運んでおくべきだ。ならば扉の一つもなければ、オチオチも外出もできぬではないか。
私は、彼女にそう伝えた。うむ、実に完璧な理論である。
「留守とはいえ、竜の巣に近づく生き物などいないような気もしますが…、でも、用心はしすぎるに越したことはないといいますものね!」
と、ユグドラシルも賛同してくれた。
「ふふふっ、では、玄関が完成するまで、またよろしくおねがいしますね。同居人さん」
こうして私は巣立ちの日まで、また暫くの猶予を得ることとなった。
それにしても、なぜ私は、こんなにもこの場所を離れたくないのだろうか。
今日は大樹のうろに背中をぴったりとつけて眠ることにした。
血の通っていないはずの彼女の体が、なぜかとても暖かく感じた。