第4章 竜はやがて巣立ちを迎える その1
広すぎる家では心も離れてしまう (ゲーテ)
「ほら、太陽ですよ」
瑠璃色の空の彼方から、金色の光が顔を覗かせる。
光は矢のように雲を貫くと、風にたなびくこともなく、真っ直ぐに世界へと広がっていく。
さきほどまで、ぐずぐずと西の空にとどまっていた紺色の夜が、もうここまでだと、尻をまくって逃げだしていく。
世界に朝がやって来る。
私とユグドラシルは上空遥か5000メートルの高さから、海をぐるりとコンパスで切り取ったような水平線を眺めていた。
金属質な光沢を持つ水面から、水蒸気はゆるゆると立ち上ると、海霧となって流れて出していく。
逆さに伏せられた天の椀は、雄雉の羽のような、深く美しいグラデーションを作り出す。
大地に聳える山々は登場したばかりの太陽を讃え、影をどこまでも伸ばそうとする。
まるで管弦楽の序章のように、世界はゆっくりと目を覚まして行く。
何もかもが美しい朝の光の中、しかしその中でも一際まばゆく輝くものに、私はただ、見とれていた。
大樹ユグドラシル
生まれたての柔らかい光によって、樹皮が桃色に染まっていく。
見上げれば、高地ゆえに霜を纏った永緑の葉が、磨きあげられたエメラルドのように光り輝いていた。
ユグドラシル。それはこの世で最も美しく、最も古く、最も尊い世界の宝。
「私‥、この世界が大好きです」
ユグドラシルは、この朝の空気のように、瑞々しく、透き通った声で私に言った。彼女の言葉に、私の心臓はとくんと鳴いた。
私も彼女に「この世界が好きだ」と伝えようとしたのだが、私の声は巻雲のように千切れて消えて、なぜか言葉にならなかった。
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(ふむ、これでよいな…)
目の前の岩に4つ目の印をつける。
私の鋭いこの爪は、分厚い玄武石の岩盤ですら熟れた瓜にナイフを入れるかのように、なんなく印を刻むことができる。
竜の爪痕は縄張りの証。この島のいかな愚かな生き物だとて、この縄張りを踏み越えてくることはありえない。
竜の縄張りを侵すことは死にも等しい行為なのだから。
「本当に、感謝の言葉もありません。偉大なる竜の御方」
ラミアが私に深々と頭をさげる。
彼女は先ほどから、大地に頭をこすり付けるように礼を繰り返している。
印をひとつつける度にこの有り様だ。こうも畏まられては居心地が悪い。
どうにか彼女を説き伏せて、ようやく顔を上げてもらう。
私を見つめる彼女の頬は、動脈の巡りで血の気を取り戻し、ラミア特有の濡れた妖気を放ち始めてる。
彼女の後ろには、ラミアの母子に血と肉の全てを譲り渡し骨となった雄牛の姿があった。
今朝、いつものようにユグドラシルの樹液で腹を満たした私は、ラミアの住む北の泉へとむかった。昨日ラミアに約束した通り、途中で“狩りの練習”をして。
大河のほとり、群れからはぐれた老いた水牛は、その雄雄しい角を振るうこともなく私の爪の餌食となった。咆哮で意識をなくした雄牛に対し、せめて苦しまぬようにと一息で首を落とした。
前世から通じ、生まれて初めて他の生き物の命を奪うことになった私ではあったが、竜の精神がそうさせたのか、すんなりと初めての狩を受け入れることができた。
モノ言わぬ黒い双眼に、「許せとは言わぬ。そなたの命は決して無駄にせぬ」と祈りを捧げ、爪で水牛を掴みあげると北の泉へと羽ばたいた。
爪についた血を『うまそうだ』と感じた自分には気づかぬ振りをしながら…。
北の泉に降り立った私を、ラミアは大きな驚きと、幾分の警戒をもって迎えた。
「安ずるな」とラミアに笑いかけ、約束通り獲物を運んできたと伝えると、私が手に持つ雄牛を認めた彼女はなんどもなんども感謝の言葉を繰り返した。
埒があかぬので、「感謝などいらぬからどうぞ食ってくれ、礼を言っているうちに肉が腐ってしまうぞ」と、終わらぬ礼を無理に止めて雄牛を彼女の傍に横たえた。
彼女は一瞬躊躇したが、もう一度私に礼を述べた後、ようやく雄牛の肉にくらいついた。その後は休むこともなく、夢中でラミアは肉を咀嚼し続けた。
常に気丈にみえていた彼女ではあったが、あるいは餓死寸前の状態なのではなかったろうか。雄牛はみるみるとその形をなくしていった。
肉を半分ほど喰らい尽くした後に、ラミアはついと口元の血をぬぐい、もう一度感謝の言葉を述べた後、私に雄牛の残りの半分を差し出してきた。
硬く筋張っているはずの肩や背中の肉は全てなくなり、美味であるはずの腹やでん部の肉は手がつけられることなく、そのまま残されてあった。
「腹など空いていないからそなたが全部食べてくれ」、と私は彼女に言ったのだが、彼女はもう十分に腹を満たしたと答える。
あまりにも強情なものだから、「ならばその残りの半分は、いまだ腹を空かせているお主の子に食べさせてやってくれ」と言うと、彼女は少し恥ずかしそうにうつむいた後、ようやく私の言うことを聞いてくれた。
やはり私に遠慮をしていたのだろう。結局彼女は、残りの肉も全てその胃の中に収めた。
きっと腹の子も喜んでいるにちがいない。ラミアの腹は、いつもよりもさらに大きく膨らんでいた。
しかし、今まで極端に痩せていたせいで解らなかったが、実はラミアの腹の子はかなり大きくなっているのではないだろうか。
ひょっとしたら、あと一ヶ月もたたぬうちに生まれてくるやもしれない。赤子が産まれたならば、外敵にもより注意せねばならぬだろう。
私は彼女と生まれてくる子供の為に、ラミアの巣の周りを竜の縄張りとすることを思い立った。
竜の縄張りの中にいれば、ラミアは安心して子を産み、育むことができるはずだ。
こうして私は、ラミアの巣を囲む4つの岩に縄張りの印をつけたのだ。彼女達親子が、穏やかに暮らせることを祈って。
「偉大なる竜の御方、貴方様は我ら親子の恩人でございます。卑小なこの身ではありますが、何かお役にたてることはないでしょうか?」
ラミアは、縄張りと雄牛のお返しに、何か礼をしたいと申し出てきた。
…ふむ。私はしばし考える。
お礼と言われても、この竜の身でラミアに求めることなどは何も思いつかぬ。
竜にできることでラミアにできぬことは星の数ほどあるが、竜にできぬことでラミアにできることなど一つもないように思える。
それでもラミアは、自分ができることなら何でもするからと訴えて来る。
肉と血を食べ生気を取り戻したおかげだろうか、先ほどまで陶器のように青白かった彼女の頬は、今は薄い赤に染まっている。
ラミアはぬれた瞳で私を見上げながら、控えめに、しかし確かにこちらへと歩を進めてくる。
私はなぜか、ひどく窮屈な場所へと追い詰められているような気になってしまう。
今すぐ何かほしいものを言わねばならなぬ。
奇妙な不安を肌に感じながら、懸命に思考を巡らる。
ラミアの手がそろりと私の方へと伸ばされようとしたその瞬間。
「そうだ! 巣だ、巣をさがしているのだ!」
‥と、答えていた。
答えてようやく私は思い出す。そうだ、私は巣を探さねばならなかったのだと。
ユグドラシルのうろは素晴らしい。できるならば生涯そこに住み続けていたいものではある。しかしあの場所は彼女の物であり、私がいつまでもとどまって良いものではない。
私はあくまで、新しい巣をみつけるまでという約束で、仮宿として住まわせてもらっている居候にすぎぬのだ。
第一、女性の家に転がり込んで、働きもせず甘い蜜だけすすっていきようなどと、これではまるでヒモかジゴロのようではないか。
生まれたばかりとはいえ、私はもはや一人前の竜である。
竜がそのような軽薄な生き様を晒してはならぬ。一刻も早く新たな巣を見つけだすべきだろう。
しかし竜の巣を見つけることはそんな簡単な話ではない。
まず、この巨体が大きな問題だ。巣穴でゆったりと過ごすためには、私の巨体のさらに数倍の大きさを持った空洞が必要である。
また、寝返りなどで崩れることのないように丈夫な岩の洞穴でなければならぬ。
当たり前のことだが、すでに他の生き物が住む場所は論外だ。
自分の為に他の生き物から巣を奪うような行為をするつもりはない。
ユグドラシルからそれほど離れていないことも需要だ。いつかは私もラミアのように血や肉を食物とする日が来るのであろうが、今はまだ、大樹の樹液をすすっていたい。
できるだけ大樹の近く、具体的には羽ばたき5分以内の場所がよい。
洞窟はじめじめしやすいから日当たりのよい場所がいい、入り口も南向きがよいだろう。巣の周りは風がよく吹き抜ける開けた場所がよい。近くに水場でもあれば最高だ。
ふむ‥、こう考えると、やはり、巣とは容易に見つかるものではないな。私から希望を聞いたラミアも考えこんで押し黙ってしまった。
ここは、気に入った岩山でもみつけ、この爪で延々と穴を掘るというのが現実的なところだろう。それなりに時間はかかるだろうが、優しいユグドラシルのことだ、私が巣を掘り終えるまで、彼女の元に住まわせてくれるはずだ。
そんな私の思考を、ラミアの控えめな声が遮った。
「あの…、少々曰くつきの場所ではありますが、一つだけ心当たりがございます」
ラミアの巣とユグドラシルを結んだ直線のちょうど真ん中あたり、一面の広い平原の中に、まるで生まれる場所を間違えて来たかのような巨大な岩山が鎮座していた。
山の裾野にはぽっかりと口をあけた洞窟の入り口があった。
中は想像以上に広大な空間であり、ユグドラシルのうろとほぼ変わらぬ広さを持っている。
水場も近く、日当たりもよい。先住者がいる影もない。なぜ、これほど巣に適した場所が誰にも使われていないのだろうか。わたしは奇妙に思い、ラミアに問うた。
「実はこの場所は、昔ヒュドラの巣であったのです」
彼女が語るには、ここには20年前まで凶暴なヒュドラが住んでいたそうだ。
島の生き物を手当たり次第に食い散らかし、毒の息を辺りに撒き散らしていたヒュドラは島の生き物達から恐れられ、誰もこの岩山の付近に近づこうとはしなかったという。
しかし、増長したヒュドラは身の程知らずにも竜に戦いを挑んでしまったそうだ。
竜の亜種たるヒュドラとて、古き真なる竜に適うわけがない。ヒュドラはあえなく敗れ、その身を竜に喰われてしまった。
主を失い、ただの空き家となってしまったこの洞窟ではあったが、その後20年経った今でもなお、このあたりに住む生き物はヒュドラの恐怖を思い出し、あるいは語り継ぎ、誰もここに住む者はいないという。
なるほど、確かに先代の竜の記憶には、ヒュドラの9つの頭をほつれた絹布でも引き裂くかようにするすると裂いていく白竜の手の映像が残されていた。
「…私にはこのような場所しか思いつきませんでした。その…、いかがでしょうか?」
ラミアが恐る恐ると尋ねてきた。元がヒュドラの巣であったことに、引け目を感じているのだろう。
改めて巣を眺めてみる。
醜悪極まるヒュドラではあったが、不釣合いなほどに上質な巣を持っていたようだ。
ヒュドラを恐れて他の生き物が近づくことがないというのならむしろ好都合である。周りの生き物をいたずらに刺激することもないだろう。
立地も大きさも、これ以上の物はないと思えるほどに見事な巣穴だ。
案内をしてくれたラミアに礼を述べる。彼女は私の役に立てて光栄だと、嬉しそうに笑ってくれた。
こうして、思いがけず手に入った新しい巣穴。
これで明日にもユグドラシルの元を巣立つことができるなと思うと、私の心は何故か、霧がたったように曇ってしまった。
「では、新しい巣穴は見つかったのですね。良いものを見つけられたようで何よりです」
夕食(樹液)のあと、私はユグドラシルに新たな巣が見つかったことを伝えた。
彼女は私の巣が見つかったことをまるで自分のことのように喜んでくれた。そしてひときしり祝ってくれた後に、
「…もう引越しされてしまうのですね‥、短い間でしたが、とても楽しかったです」
と続けた。私の錯覚でなければ、声に幾分の落胆と寂しさをこめて。
なぜだろう。私の心臓が、まるで絞られた雑巾のようにぎゅうっと鳴いた。
正体の解らぬ苦しい何が、喉の奥の方で詰まり、息が吸えない。
吸えないから、空気を無理矢理吐き出そうとして、代わり口からこんな言葉が飛び出た。
「いや、まだだ! まだ引越しするわけにはいかぬ。まだ、大事なものが足りぬのだ!」
「大事なもの‥、ですか?」
ユグドラシルが私に問う。
『大事なものが足りぬ』不意に口に出てしまった言葉ではあるが、筋の通った話でもある。
巣が完成していなければ、まだ引越しするわけにはいかないだろう。
果たして、何が足りぬというのか。
立地も大きさも文句はないが、理想の巣には、まだ足りないものがあるはずだ。必要な物があるはずだ。
考える。巣に必要なもの、必要なものとはいったい何であろうか?
巣とは何をする場所か? 何をするために私は巣を持とうというのか。
ここにあり、あの巣に無いものは一体何か…
「…そうだ! 床だ! 寝床がひつようなのだ!」
口に出してみれば簡単な答えであった。あの巣穴には寝床が足りなかったのだ。
ユグドラシルのうろの中は剥がれ落ちた細かな樹皮が、ほどよいやわらかさと保温性をもつ天然のベッドを作り上げているのだが、新しい巣穴はツルリとした冷たい岩の洞窟である。
竜が冷たく硬い岩肌で眠った所で風邪など引く訳もないのだが、快適な寝床があるに越したことはない。穏やかな眠りは豊かな生活へと繫がるのだから。
そうだ。やはり寝床は必要だ。明日からゆっくりと理想の寝床を作ることにしよう。
ユグドラシルも、
「はいっ、そうですよね。柔らかい寝床があればきっとよく眠れますものね。ふふふっ、では、寝床が完成するまで、明日からもよろしくおねがいします。同居人さん」
そういったユグドラシルの声は、やはりこれも私の錯覚でしかないのかもしれなかったが、明るく弾んでいたように聞こえた。
彼女の明るい声を聞くと、まるで私の心も花が咲いたように明るくなる。
私は、その後も今日の出来事を残らずユグドラシルに語ると、柔らかくて暖かいうろの中で幸せに目を閉じた。