第3章 孤独な竜はつがいを求める その2
出会いは突然に訪れるもの、運命は必然に導かれるもの。
ヒノキが群立する深い森の中で私は彼女に出会った。
しなやかでキュッとしまった肉体は、まるで古代の大理石彫刻のように均整がとれていて、エヴァーグリーンに輝く体表は、森の緑をそのまま固めて宝石にしてしまったかのような深い色合いを持つ。光を弾く4枚の羽は、内に雲母を宿した白水晶のように繊細だ。
ああ、この世界でもやはりあなたは美しい…
ツクツクボウシさん
驚かせぬようにと、そっと岩山の影から彼女を見つめる。
彼女の姿を見つめるだけで、私の体は熱を帯びる。樹液を啜る姿ですら、静かな気品を兼ね備えている、セミ界のクールビューティー、それが彼女、ツクツクボウシだ。
なぜツクツクボウシが良いのか尋ねられれば、好みだからとしか答えられぬ。
生き物とはそれぞれに好みというものをもっている。
言葉で語ることのできる特徴と、言葉では語ることのできぬ衝動、この二つを足したものが『好み』なのだ。
もちろん、美しいのはツクツクボウシだけだはない。
ヒグラシの夕焼けから生れ落ちたような深い橙色は、我らに言い様のない郷愁をいだかせるものであるし、クマゼミのむっくりとした肉体は、種の保存への官能的な衝動を呼び起こす。
この世に魅力なき蝉などは存在しない。どの蝉もそれぞれに長所と個性を持っているのだから。
しかしそれでも、私にはツクツクボウシがもっとも輝いてみえてしまう。それが好みというものだ。
口では説明しづらい故に、余人には理解できぬ事やもしれぬが。
…ああ、ひとつ訂正しておこう。この世に魅力なき蝉などいないといったが、一つだけ例外があった。
アブラゼミだけはだめだ。
品のない色、下卑た泣き声、無駄に大きな図体、全てにおいて気品というものがない。
名は体を表すというが、あれらにアブラゼミという名を与えた人間を私は賞賛する。
群れるだけしか能がないあの集団に、前世のころは樹液争いで何度苦汁を舐めさせられたことか…。
もう一度言おう、アブラゼミだけはだめだ。
‥と、少し話がそれてしまったが、つがいを選ぶということは、人生のおおよそを決める行為である。
長い人生にたった一人、自分の好みに従い、我侭に相手を選ぶべきであろう。
そこに妥協などあってはならぬ。選ぶべき相手を誤ってはならぬ。
私を例にあげるなら、妻にするならばツクツクボウシただひとつを選べということだ。
ヒグラシでもいいとか、クマゼミもかわいくみえてきたとか、ましてやアブラゼミで我慢しようなどとあってはならない。
さあ、ツクツクボウシさん、聞いてくれ! わが求愛のう‥
「ツクツクボーシ ツクツクボーシ」
私が求愛の歌を歌おうとしたその矢先、あたりに私以外の何者かの歌が響いた。
私の目の前のツクツクボウシは、羽を僅かに振るわせたあと、その歌に導かれるように森の奥へと消えていった。
………………………。
………………………。
………………………。
ね と ら れ た !
なんたることか! いまいましきツクツクボウシ(♂)め! 私が目をつけていたツクツクボウシ(♀)を我が目前で掻っ攫って行くとは、なんと卑劣な男よ!
空に向かって咆哮を放つ。わが咆哮に雲が裂け、空は歪む。
しかし、暫し無制御に猛ったあとに、私は取り乱した自分を猛省するのであった。浅ましき嫉妬の心を恥じた。
確かにツクツクボウシ(♀)と私が繋がることはかなわなかった。しかし、彼女が幸せであるならばそれでよいではないか。
例え私以外の誰かでも、彼女を幸せにできるのであれば、わたしは彼と彼女に祝福の言葉をおくるべきではないか。
失恋の傷を寛容さで塞いだ後に、私は考えを改める。
この広い世界、ツクツクボウシだけが雌ではない。
ヒグラシでもいいじゃないか、クマゼミでも素敵じゃないか。
いっそのことニイニイゼミだって悪くはないのではないか。
アブラゼミでさえなければ良いでないか。
遠くの宝石に執着するあまり、目の前の幸せを逃してしまう愚かな男に、私はついぞ成り下がるところであった。
幸せの形は一つではない。目線を変えればいくらでも見つかるはずだ。
私は気持ちも新たに森へとわけいっていく、まだ見ぬ花嫁たちに、再び心を躍らせながら。
………………………。
………………………。
………………………。
………………………。
ね と ら れ た ! (×3)
なぜだ! なぜだ! なぜだ!
ツクツクボウシも、ヒグラシも、クマゼミも、ニイニイゼミも、なぜ私の歌を聴こうとせぬのだ! 私の歌に魅力がないとでも言うのか!
竜の花嫁となることのいったい何が不満だというのだ! 竜の花嫁だぞ! 竜の花嫁!
何度も空へと怒りの咆哮を放ちながら、そこで私はふと、気がついた。
そうだ、私は竜だった。
どうやら、交尾をしたかったという蝉の前世の妄執が、私を縛り付けてしまっていたらしい。
更には、先だって樹液の味を思い出してしまったため、すっかり自分が蝉であるような気になってしまっていた。
そもそも、蝉を伴侶にしたところで、私はいったいどうやって交尾をするつもりであったのだろうか。
我が生殖器の100分の1にも満たぬ大きさの固体と、交尾などできる訳がないではないか。
想像してみろ。竜に寄り添う蝉など、どこからどう見ても羽休めに止まっているか、そうでなければ寄生虫の類ではないか。竜ならば、竜にふさわしき花嫁を見つけるべきであろう。
まったく、すこし考えれば気づきそうな事さえわからぬとは、これも二つの魂を宿す転生の弊害というものか。
もっとも、このちぐはぐな魂も、直に完全に竜のそれへと変わるのであろう。蝉の魂など、竜となった私にとっては取るに足らぬ物なのだから。
そうとも。我は竜なのだ。
魔獣だろうが幻獣だろうが、この世のいかなる生き物が、我先にと子種を欲する生物の王者、竜なのだ。
竜の花嫁となる喜びを知れ、わが妻となる幸福を偲べ。
私は空に向かって大きな声で歌う。未だ見ぬ花嫁に向かって、想いよ、届けと。
ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン
聞こえているか? 島の生き物たちよ。我が花嫁たらんとするものは、我のもとへ馳せるがよい。
ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン
届いているか? 島の生き物たちよ。我とともにこの島で、生命果てるまで生きてゆこうではないか。
ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン
我が歌声が島に響く。竜の求愛の歌が、島の全てを包み込んでいった。