第3章 孤独な竜はつがいを求める その1
恋は、ある点では獣を人間にし、他の点では人間を獣にする。 (シェークスピア)
生物の欲とは尽きぬもの、いわんやそれが、知能を持つ生き物であればなおのこと。
満たされる以上に、何かを欲してしまう。それが生き物の罪であり、宿命なのだ。
生きるという行為は、砂漠に降る雨に似ている。
水は無慈悲に大地に消え、とどまることを知らない。
砂は無限に世界にひろがり、終わりを知ることはない。
止むことのない渇望に対し、ただひたすらに足掻きつづける、それが生きるということなのではないだろうか。
だが、例えほんのひと時の気まぐれだとしても、雨は熱砂の火照りををわずかに鎮めてくれる。
水は地下を染み渡り、それが集まれば流れとなり、やがてオアシスとなって湧き出すのであろう。
欲望のままに求め続けて、その旅の果てに見つけたもの。
結局はそれを、幸せと呼ぶのではないだろうか。
少し難解なたとえ話であったかもしれない、つまりは何がいいたいかというと。
おなかもいっぱいになったので、交尾がしたい。
アーリーモーニング樹液でわたしは朝の心地よい渇きを癒す。
エディンバラの貴族たちは、ベッドの上で飲む一杯の紅茶で目を覚ますというが、私は世界樹のうろで目を覚まし、朝一番のみずみずしい樹液を嗜むのだ。
朝の樹液というのは格別だ。
木というものは夜の内に大地から水や養分を大量に吸い上げるため、昼や夜の樹液よりも栄養を多く含くんでいる。
そのくせ、サラリとした飲み応えで胃の中にいくらでも収まってしまう。
ましてやこれは大樹ユグドラシルの樹液。その味たるや言葉には尽くせぬ。
彼女の樹液の味は、情報の共有がその最たる目的である言葉という手段では到底表現しえぬものなのだから。
朝からたっぷりと樹液を堪能した私の頭に、ユグドラシルの声が響く。
「‥ふっ、はぁっ…はぁ。…おはようございます、昨晩はよく眠れましたか?」
頭に響く彼女の声は、森林を抜ける木漏れ日のように柔らかく、優しい。
我らの語らいには言葉を必要とせぬゆえに、その声の質はユグドラシルの心の質そのままである。
「おはよう、ユグドラシル。おかげでとてもよく眠れたよ」
ユグドラシルは、私の仮初の巣となった。
昨日、樹液を心ゆくまで愉しんだ私は、ユグドラシルの近くに居を構えようと決めた。先代の竜が住んでいた巣は、大樹からはいささか遠いのである。
それに、これはただの感傷に過ぎぬのだが、私が産まれたあの場所は先代の竜の亡骸が眠る墓としておきたかった。
先代の竜の魂が、もはやあの場所に存在するわけではないということは、一度死んだ私にはよくわかっている。
墓という物は魂が眠っているわけではない。亡骸が眠っているだけだ。
生きていたという証が残されているだけだ。
それでも皆、墓を作る。それはきっと死んだ者の為にではなく、生きている者達の為に。
私はあの場所を、彼の墓とすることに決めた。彼の為ではなく、私の為に。
この近くに居を構えようと考えている旨をユグドラシルへと告げると、
「あら? それでは私たちはご近所さんになるのですね。‥そうだわ、よい場所が見つかるまで私の所に住んでみてはいかがでしょう?」
そういって、彼女はうろの中へと私を誘ってくれた。
世界樹の中にある空洞。そこは竜の体などよりも遥かに大きく、神秘的な静謐さを湛えていた。
一目でわたしはこの場所を気に入ってしまった。
森をギュッと凝縮したような、それでいてほのかに甘い香りが、空間全てを満たしており、降り積もった樹皮が、柔らかな天然のベッドを形成していた。
これ以上の場所がこの世界に存在しているなどとは思えなかったが、私は「自らの巣をみつけるまで」という条件で、彼女の厚意に甘えることにした。
「それでは、短い間でしょうがよろしくお願いしますね。同居人さん」
『同居人さん』ユグドラシルは名もない私のことをそう呼んだ。
世界樹のうろの中での初めての眠りは、幸せの泉の底にゆっくりと沈んでいくような、前世も含めても今まで経験したことのない幸せな眠りであった。
あまりの眠りの深さゆえに、あるいはこのまま目がさめることがないのでは? と、錯覚するほどであったが、仮にあのままこの身が朽ちていたとしても、私は微塵も後悔などしなかったであろう。
前世も今世も卵生であったわたしには知る由もない事だが、赤ん坊が母親の胎盤の中で眠るという感覚は、ああいうことなのではないだろうか。
こうして、一時的ではあるにせよ、わたしは期せずしてこの世界で最高の食物と住処を応じに手に入れることができたのだ。
さて、生活の安寧が成れば生き物はなにを次に求めるか。
食足りて 住落ち着けば 色を知る
そう、交尾だ。
今こそわが前世の無念を晴らすときがきたのだ。
私はユグドラシルに今からつがいを探しにいくことと、日が沈むまでには帰ってくる旨を伝えた。
私の言葉に、彼女はすこしきょとんとした後に。
「ふふふっ、素敵なお嫁さんがみつかるとよいですね。いってらっしゃい」
と、やはり母のような慈愛に満ちた言葉で見送ってくれたのであった。