エピローグ 蝉だって転生すれば竜になる
私は暗闇の中にいた。
永遠とも思える、闇の中だ。
土の中に似た暗闇だ。
ここが何処かも、自分が何者であるのかも、わからない。
やり残したことがあるような、とても大切な事を置き去りにしてしまったような気もするが、やはりよくは分からない。
人は死を闇、生を光と捉えるというが、ならばこの場所は死なのであろう。
感触も匂いも、重力も地平線もない。只の黒であった。
しかしなぜだろうか。温度だけはここにある。
死の暗闇の中に、ぬくもりだけはあったのだ。
終ることがないと思っていた永遠の闇に、閉じきったままの暗闇の世界に、暖かい何かが伝わってくるのだ。
遠くの近くから、声が聞こえる。
「‥ねぇねぇ、竜様はいつ産まれるの?」
「もうすぐ、もうすぐ産まれるはずですよ」
「触ってもいい?」
「だだ、だめなんだな。た、た、卵が割れたら大変なんだな」
「こら、ミンミ! 大人しくしてなさい」
「むぅ…、中に竜さんいるんでしょ? 触ったら起きるかもしれないよ?」
「だぁめじゃあ。竜様が自分で起きようと思った時まで、起こしちゃだめだあ」
「寝ぼすけさんだねえ。ずーっと寝てるんでしょ」
「そうよ。もう七年。ミンミちゃんが生まれた日から、ずーっと眠っているの」
「そんなに眠るとあたまがぼーってならないのかなあ。なっちゃうよねえ? ねぇ、ハーピーお姉ちゃん」
「ミンミ! 大人しくしていなさいと言っているでしょう!」
「…巫女様。竜さんは私達の事を覚えていてくださるのでしょうか」
「それは…、難しいと思いますわ。竜の知識と記憶は肉体に宿ります。あれほどの血と肉を失ってしまえば‥、もう」
「…竜さんの卵、私と同じぐらいの大きさになっちゃったね」
「卵が残っただけでも奇跡ですもの。あの時、ユグドラシル様の樹液が死んだ我が君の頭部に流れ込まければ、卵を残すことなど決して叶わなかったでしょう」
「あんなに大きくて、雲の上まで連れて行ってくれたのに…。あの事も全部…、忘れちゃったのかな…」
「忘れているならもう一度教えればいいのです! 知らないことは新しく知ってもらえばいいのです! …だって私は、竜さんにたくさんの事を教えてもらったのですから。今度は私が教えてあげる番なのです!」
「ニュージュちゃん…」
「その通りですわ。まだ物を知らぬ我が君に色々と教えて差し上げる、これ以上の喜びがこの世にあるでしょうか」
「ゲーコゲコゲコゲコ!」
「んだんだぁ。音楽も、木の選び方も削り方も、もう一度ちゃあんと知ってもらうべなぁ」
「トト、トーテムポールの作り方を、お、お、教えるんだな」
「ねえ、ハーピーお姉ちゃん。あのおっきなトーテムポールは竜様が作ったんでしょ?」
「そうよ。皆の大好きなトーテムポールを作ったの。ミンミちゃんはトーテムポール好き?」
「うん、大好き! だってみんな笑っているもの」
「…ミンミ、貴方の名前はね。竜様の鳴き声から頂いたのよ」
「えー、竜様ミンミって鳴くの? お母さんうそつきだよー。竜ってもっと怖い声で鳴くんだよ。ねえ? ニュージュお姉ちゃん」
「いいえ、このトーテムポールを作った竜さんだけは、ミンミンと鳴いていたのです」
「ホント? じゃあ、この竜様もミンミンって鳴くの?」
「それは‥、わかりません」
「ニュージュお姉ちゃんでもわからないんだ」
「‥でも、そう鳴いてくれたらいいなと、いつも思っています」
「うん。また聞きたいな。竜さんの歌」
「ゲーコゲコゲコゲコ…」
「だったらさ、ミンミンって鳴いたら、寝ぼすけな竜様もミンミンって返してくれないかなあ? おんなじ言葉でしゃべったら、竜様も聞こえるんじゃないかな」
「あら。それはいい考えですわね。胎教という言葉もございますし」
「ええ。ミンミが私のお腹にいた頃は、毎日あの歌を聞いていたはずですもの」
「うん。 私が歌えるようになったって、早く知ってもらいたい。触っちゃだめでも、歌うだけなら、いいよね?」
「はい。いつまでも目を覚まさない竜さんに、大きな声で歌ってあげましょう」
「じゃじゃ、じゃあ。みみ、みんなで「せーの」で、う、う、歌うんだな」
「よぉし。んだばいくべえ…、せぇのお!」
「「「「「「「ミーンミンミンミン!」」」」」」」
「ゲーコゲコゲコゲコ!」
なんだか外の世界というのは、やかましくて、暖かい。
ぽかぽかと体が温まったから。気持ちがいい。気持ちがいいから、もう少し眠るか。そう思った。
―待っています―
その声が、聞こえるまでは。
―貴方がもう一度、鳴いてくれる事を―
音波として、耳に伝わる声ではない。
―わたしにもう一度、出会ってくれることを―
心に、魂に直接、語りかけてくる声だ。
―信じています―
優しく、柔らかく、透き通った、美しい声だった。
―だってあなたは―
ああ、これはあなただ。
―わたしに約束してくれたのですから―
覚えている。
―もう一度、わたしのために鳴いてくれると、約束してくれたのですから―
あなたの事だけは覚えている。
―今度は、私だって一緒に歌うんですから―
名は忘れたが、覚えているのだ。
―貴方のように、大きな声で―
貴方の声を、覚えているのだ。
―こんなふうに―
私の魂が、覚えているのだ。
―ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン―
魂が踊った。
それが誰かは分からない。ただ、誰よりも大切な人だと言うことだけはわかった。
待たせている場合ではない。いつまでも、この暗い世界にぐずぐずと留まっている場合ではない。
ずっと会いたかったのだから。ずっと貴方を探していたのだから。
黒い世界を突き破る。
闇の世界を覆う、殻が弾ける。
光だ
そして
あなただ
何をするべきかは、魂が教えてくれた。
『鳴こうよ』
ああ、鳴こう。
ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン
(終わり)