第6章 竜と少女の夏休み その2
少女が思い出せる最初の記憶は、赤い土と、赤い太陽だ。
血のような赤、という訳ではなかったが、乾ききった、ジリジリと肌を焼くような赤は、血などよりもよほど死の匂いを放っていた。
飢饉、だったのだろう。
骨が浮き出るほどに痩せた牧羊犬が、連れ去られる少女を見つめていた。
少女の像をぼんやりと移す、黒くヤニに塗れた目は、それがもうじき死ぬのだと幼い少女に教えた。
少女と犬、どちらが死ぬ運命に在るのかは、少女には解らなかったが。
故郷のことは、それ以外には何も思い出せない。
父と母の顔も覚えてはいない。兄妹はいたような気がするが、それだけだ。
自分が家族に売られたのだと理解するのは、もっとずっと後のこと。
少女が覚えているのは、一面の赤と、死神のような犬の目と、大きくて固く、青白い手だった。
青白い手が、少女を引き摺るように歩いている。
その手の持ち主の事ならば解る。これから彼女を連れて行く魔導師の男だ。
男の手に引かれながら、少女は赤い大地を必死に歩いた。
少女の短い歩幅では、男の倍程の数は足を動かさねばならなかった。
骨と皮ばかりの頼りない足が、なんどももつれ合い、その度に転んでしまいそうになったが少女は耐え続けた。
少女のことを一瞥もせずに前へと進む男に必死で付いていった。
足を止めてしまえば殺されてしまうような気がしたから。
太陽の熱と乾いた砂埃に喉をやられながら、少女は命の限界の早足で歩き続ける。
ここ数日、まともな水分も食事もとっていない。もはや汗など出ず、どうやって足を動かしているかも解らない。
そんな状態で、大人の足にどうしてついていけるだろうか。
ついに少女は躓いた。
転んだ時に、これで自分は死ぬのだと思った。目をぎゅっとつぶった。
しかし少女は転んではいなかった。恐る恐る瞼を開ければ、少女の体は男の青白い手にぶら下がる形で救われていた。
男はようやく少女の方を振り返ると、黒いローブの下から、低い、冷たい声でこう言った。
「すまんな」
男が少女にあやまったのは、今までに2度しかない。その一度目だ。
男は革の水筒を取り出すと。無言で突き出した。
目の前の水筒に一も二もなく飛びついた。生ぬるい、腐りかけの、喉がべたつくような不味い水だったが、少女はまるで老いたラクダのように、喉を鳴らしながら飲んだ。
水筒の水を全て飲み干した時に、取り返しのつかぬことをしてしまったと思った。
ハーデスに攫われたペルセポネーは、冥界に生えるザクロを食べて、その身を死の国に縛り付けてしまったと言うが、その事に気付いた時の女神の顔は、きっと少女と同じ顔をしていただろう。
男が父に幾らの金を払ったのかは、少女はあずかり知らぬことであるし、それは少女の問題ではない。
少女は水を飲んでしまった対価に、自分が男の物になったのだと、そう思った。
男は空になった水筒を受け取ると、再び無言で少女の手を引いて歩き出した。
それが少女が思い出せる始まりだった。
竜を殺すための兵器として買われ、育てられた少女の最初の記憶だ。
もう、7年も前の話になる。
「…夢?」
目を覚ました時、少女は洞の中にいた。
苔で作られた柔らかいベッドの上に、小さな体を横たえていた。
ここがどこなのかも、今がいつなのかも、少女には解らなかったが、自分という存在の確かな重みが、ここが夢の続きでは無いということだけは教えてくれた。
少女は記憶をたぐり寄せる。自分の思い出せる最後の記憶を。
最後の記憶は何時のものだったろうか。
何度も倒れては、その度に髪を掴んで起こされる。魔導師による執拗で執念深い訓練だったろうか…、いや、これではない。
食の喜びとは程遠い、魔力を増やす事だけが目的の不味い食事だったろうか…、いや、これでもない。
眠る時だけが唯一の安らぎで、しかし、朝が来るのに怯えていた薄い布団だったろうか…、いや、これでもない。
朝起きれば、小さな部屋にある小さな小さな祭壇に祈りを捧げ、自分が世界樹を救うのだと言い聞かせて、再び訓練へと身を投げ出す日々だったろうか…、いや、これでもない。
…そうだ、最後の記憶は灰色の塊だ。
灰色の塊からおびただしい数の血管ような物が飛び出してきて、自分の右腕に喰らいついたのだ。
体に何かが侵入していくおぞましき感触と、自分という個がバラバラに引き裂かれる感覚があった。
五感の全てが何者かに奪われていく、その最後の瞬間に、
「すまんな」
と言う男の声が聞こえたはずだ。
そこで記憶は途切れている。男の二度目の謝罪が、少女の最後の記憶だった。
悔しさか、安堵か、あるいは恐怖か。
記憶の残照が少女に嗚咽と涙を溢れさせる。こぼれ落ちる涙を、ぐいと服の裾で拭った時に、
「……尿臭い」
少女は“本当の最後の記憶”を思い出した。
本当の最後の記憶の中で、少女は泣いていた。
子供のように泣いている自分を、どこか遠くからみつめているような、そんな記憶だ。
魔導師による、厳しいという言葉では言い尽くせない訓練の日々にも、声を上げて泣くようなことは一度もなかった自分が、大声で泣いていた。
鉛の玉を飲み込むように、泣き声を飲み込んでいた7年間。それ以来、少女は初めて泣いたのだ。
あの時の、子供のままの泣き声は、7年前から少女が忘れていた泣き声だった。
思い出した本当の最後の記憶は、生ぬるくてツンとした匂いの、何故か僅かに甘い液体の味だった。
そして少女を勝ち誇ったように見下ろすぶくぶくと太った悪しき竜。
忌まわしき竜が無力な人をあざ笑うかのように、自分へと放った侮辱と嘲りの液体。
喉を腐った蛆が這いまわるような、激しい嫌悪感が少女を襲う。
少女は洞穴の壁面まで向かうと、飲んでしまったソレをどうにか吐き出そうと試みたが、既に体に吸収しつくされていた液体を吐き出すことは叶わなかった。
何度か咳き込んだ後に洞穴の壁面に身を預ける。
足りなくなった空気を補おうと、胸骨を大きくを上下させる。
胸骨の下ではドクドクと心臓が鳴っている。
確かな鼓動の音に、少女はふと、疑問を抱いた。
「私、なんでまだ生きてるんだろう…」
少女の疑問には二つの意味がある。一つは竜に敗北し、なぜ生かされているか。
彼女が聞いていた話では、竜は人肉を何よりも好むという。気を失っていた自分をなぜあの竜は喰らわなかったのだろうか。
あんなにもでっぷりと、血を吸った後のダニのように肥えていた筈なのに。
巫女の予言通りなら、竜が生まれてからは20日も経っていないはずだ。
あれほどの体になるまで、一体どれだけの血と肉をその口に流し込んできたというのだろうか。自分のような小さな生き物など、あっさりと飲み込めた筈だろうに。
全てを喰らうと予言されている悪しき竜が、何故自分を殺さずに生かしておいたのかは、少女には分からなかった。
「それに私、ヴァルキュリアの槍と融合した筈なのに‥」
古代兵器との融合、それによって自分が死ぬという事は少女も分かっていた。
心を無くし、魔力と命を吸い尽くされるだけの燃料となることは理解していた。
理解した上で、ヴァルキュリアの槍から逃げ出そうと思わなかったのは、世界樹への信仰心と、逃げ出した所で他の生き方など思いつかなかった故にだ。
少女は7年間、竜を殺すために、古代兵器の使い手となるためだけだけに、育てられてきたのだから。
それ以外の生き方も、記憶も存在しない。
7年後に兵器として羽ばたく為に積み重ねた昏い時間。その一瞬の後に死ぬべき運命。
少女の生は、7年間地の中で暗闇と共に生きる蝉の生とよく似ているのかもしれなかったが、それよりも遥かに哀しいものかもしれない。
そんな自分がなぜ、今もなお生きているのか、なぜ、自分という個が蘇っているのか。
少女の呟きに答える者は誰もいない。洞の中には誰も居ない。
ここは大きな洞の中。
聖都の大聖堂よりも遥かに大きな半球状の空間。
ここにいる自分が大きな生き物の中にいるように、少女には感じられた。
しかし不快感などはなく、ただただ、優しい空気に満ち満ちていた。
“聖なる”という空気は、本当はこういう事を言うのかもしれないと、少女は思った。
美しいステンドグラスの模様や、精緻な装飾に満ちた華やかな聖都の大聖堂とは、質の全く違う聖の在り方だった。
柔らかく暖かな空間は、まるで誰かに抱かれているような気持ちになり、少女の目からぽろぽろと涙が零れていく。
今度は涙を拭う気にはならなかった。洞に満ちる空気が、泣いて良いのだと言ってくれた気がした。
桃色の朝の光が外から染み入ってくる。
洞の出口は、少女の体の何十倍も大きく、眩しい。
少女はなんとなく、そちらへ向かうべきだと思った。
洞窟から出て、広い、光あふれる世界へ歩み出せと、殻を破り、新たに生まれ変われと言われた気がした。
左手で壁面をなぞりながら外の世界へと向かう。
恐る恐る、一歩一歩。まるで赤ん坊が初めて歩み出すように。
新たな世界を知るために、生まれ変わった新たな自分と出会うために。
「ミーンミンミンミン! ミーンミンミンミン!(訳・もっと、もっとだユグドラシル!)」
「はい‥っ、はいっ…! ‥ふぅっ‥あっ…、…んんっ! ‥そこっ、…だめっ!」
新たな世界は、少女には幾分難解すぎた。