第八章 別れ
いつものように隣りに母がいて一緒に食事をしている。なのに―何か違う。何が違うのかよくわからないけれど―。母はいつもより寂しそうに見える。笑ってはいるけれど。なぜだろう?やはり母はずっとティティカカにいたかったのだろうか?母を迷わせるもの、恐れさせるものが―クスコにはあると言うのだろうか。皇帝陛下のおわすクスコ、世界の中心―。
「母様。」
ニナが口を開いた。タラナがニナを見る。
「やっぱりぼく、クスコには行かない。母様とティティカカに戻る。」
母が驚いた顔でこちらを見ている。何か言っているようだけど―よく聞こえないのはなぜだろう。まるで水の中にいるみたいだ―。
「…ニナ、今更何を…。」
タラナが言った。ニナは首を振る。
「…行かない…クスコには…。」
そこまで言うと―ふわりとニナの体が倒れかかりタラナが両手で小さな体を受け止めた。
「…ニナ!」
ニナはタラナの腕の中で意識を失っていた。
「勘の良い御子だ。」
ワウレが言って立ち上がった。
「我々が自分に何かしようとしているのを察したのでしょう。」
「……。」
タラナの手がニナの髪を優しく何度もなぜた。
「可哀相だが…しかたがない。」
ワウレは言った。
「…タラナ姫、もうじきクスコから迎えがまいります。」
「え…?」タラナがワウレを見る。
「…チャルクチマ将軍が皇帝陛下の命で何人か“翔べる”者をこちらに差し向けてくれるはず。…今夜、クスコに入ります。」
「…ワウレ様…。」
「…よろしいですね?」
「……。」
タラナが何か言おうとした時、急に外が騒がしくなった。ワウレが振り向くと同時に一人の男が天幕に入って来た。
「―ワウレ。」
男が言った。
「…そこにいるのが、兄上の子か。」
「ワスカル様。」
ワウレが言った。タラナがハッと顔を上げた。ワスカルはワウレの答えを待たずにタラナとニナに近付いてその前に膝をつくと二人を見た。
「―久しぶりだな、タラナ。…そなたは…変わらない…子を産んでも…兄上が愛した時のままだ。」
タラナは下を向いた。
「…この子が兄上の子…。」
ワスカルが言ってニナを見つめた。
「…似ている。」
つぶやくようにワスカルが言った。
「幼い頃の…兄上に…瓜二つだ…。」
そう言うと愛しそうにワスカルはニナの髪をなぜた。
「これから、何をするつもりだ、ワウレ。」
ワスカルはワウレに背を向けたまま言う。
「…薬を飲ませ…クスコへ連れて行き―何をするつもりかと聞いている。」
「―お答えする義務はございません。」
「何?!」
ワスカルが振り向く。
「…そなたは誰に向かって言っているつもりだ?」
「―あなたがどなたかはよく存じ上げております、ワスカル様。
我らが偉大なる皇帝ワイナ・カパック様の皇子、ワスカル様。…しかし、我々は今は皇帝陛下の命で動いております。たとえ何人たりとも妨げることは許されません。」
「それでは。」
ワスカルが言った。
「…私の命は聞けぬ、と申すのだな。」
「……。」
ワウレは黙ってワスカルを見ている。
「…よかろう。」
ワスカルは言ってタラナを再び見た。
「タラナ。」
タラナがニナを抱き締めてワスカルを見た。「…そなた、この者たちが兄上に何をしたのか、知っているのか?」
タラナは答えない。
「…この者たちは―父上と共に兄上を―」
「皇子!」
ワウレが静かだが鋭い声で言った。
「それをタラナ姫に語るおつもりか!」
ワスカルは答えない。
「―それは皇帝陛下が封印されたこと。…他言することはたとえあなたと言えども―反逆と見なされても何も申し開き出来ませぬぞ!」
「……」
ワスカルは舌打ちをした。そしてワウレをチラッと見てからタラナを見た。
「…私のところへ、来い、タラナ。」
ワスカルは言った。そして手を差し延べる。
「決して悪いようにはしない。兄上の妃とその子としてふさわしい暮らしができるよう取り計らおう…。」
タラナはワスカルの手をじっと見た。そして小さく首を振る。
「…それはできません。」
小さい声だがはっきり答える。
「…これ以上皇帝陛下に逆らうことなど…できません。」
「タラナ!」
ワスカルがタラナの腕をつかんだ。
「…わたしと…この子がここでこうやって生きているのはすべて皇帝陛下のお慈悲のおかげです。それを裏切ることはできません。」
「何を言っているのだ、タラナ!」
ワスカルは言った。
「…あれは父上の慈悲などではない、
父上も叔父上も―そなたとその子の命を盾に兄上のすべてを奪ったのだ…心め体も何もかも…そなたは知らないのだ、タラナ…兄上がどうなったのか、どんな目にあったのか―」
「ワスカル様!」
ワウレが叫ぶ。
「それ以上はおやめ下さい!姫は何も知らない―。」
「…兄上は!」
「―知っています。」
ワスカルはハッとした。ワウレも驚いてタラナを見る。タラナの瞳から涙があふれて抱き締めているニナの頬に落ちた。タラナはまっすぐに二人を見ている。
「あの方は…私に話して下さいました。」
タラナは言った。
「…あの方が…最後に…すべてお話しして下さったのです…あの方は…自分のすべてを…私とこの子の為に…いえ、タワンティンスーユの民の為に…差し出すのだと…。」
タラナの瞳から涙が止めどなく落ちる。
「そして…すべてをかけて…私を守って下さると…約束してくださった…。」
タラナはニナを強く抱き締めた。
「…私と…この子を…」
言葉を失ったワスカルがタラナの腕から手を離す。
「ワスカル様。」
タラナが涙を浮かべた瞳でワスカルを見た。
「…お気持ちは嬉しゅうございます…あなたの兄君のすべてを奪うこととなった私にそのようなお心使い…きっと兄君様も…お喜びでしょう。」
声が震える。タラナは小さく嗚咽して続けた。
「でも、もう…わたしに関わることは兄君も父君の皇帝陛下もお望みになりますまい。これ以上…私たち親子のことはどうかお気になさらずに。貴方様は王となりこのタワンティンスーユを守る、大事なお役目があるのですから。」
静かな声ではあったがその中にワスカルに対するはっきりとした拒絶の意志を感じられてワスカルは首を振った。
「タラナ、よいのか?」
タラナはうなづく。ワスカルは悲しげに目を伏せもう一度タラナを見た。そして何か言いたげにしていたがやがて立上がり踵を返した。
そしてワウレに向き合う。
「―ワウレ。」
ワウレがワスカルを見た。
「―父上に伝えるがよい。…タラナとニナに何かあればこの私が…許さぬと。」
ワウレは何も言わずただ最敬礼をした。ワスカルは天幕の外へと出て行きその気配も消えた。ワウレはそれを見送るとタラナを見た。
「……タラナ姫。」
タラナはニナの髪をなぜながらこぼれ落ちる涙をぬぐおうともしない。
「…ご存じ…だったのですね。」
タラナは小さくうなづいた。ワウレは溜め息をついた。
「…私も…あの方と…約束したのです。」
タラナは言った。
「この子を守るって。私の…全身全霊をかけて…守るって。」
「―。」
それはワウレが初めて見るタラナのほとばしるような激しい―強い思いだった。多分―ニナの意識がないせいだろう。ニナに感づかれる心配がないから―とワウレは思った。
「…ワウレ様。」
タラナはかすれた声で言った。
「…お願いが…ございます。」
「…なんでしょうか?」
「…この子を…姉様のところに…送り届けていただけますか?」
「―!」
ワウレが驚いてタラナを見返す。タラナは涙を浮かべたまま微笑む。
「―ずっと考えていました。」「…姫。」
「…私はクスコに行かない方がいいと思います。」
「タラナ姫…しかし…。」
「いくら皇帝陛下があの方の名前と共にすべてを封印したとしても―私がいればきっと、思いだすお方もおありでしょう。…そのことでこの子が傷つくのは見たくない。」
「…タラナ姫、それは…。」
違う、と言おうとしたワウレにタラナは首を振った。
「…ワウレ様、私とて…王族なのですよ。」
「……。」
ワウレは溜め息をついた。そしてややしばらくして口を開いた。
「これから…どうするおつもりですか?」「…ティティカカに帰ろうと思います。…オクロ様の元に行こうかと。」
タラナは涙を拭いた。
「…お願い…できますか?」
「…タラナ姫。」
ワウレはタラナを見た―7年前に見た光景とその瞳が重なる。
「貴女は…強い御方だ。」
つぶやくようにワウレは言った。―まだ年若い娘が、皇帝を目の前にしても少しも動じず―己の意志を伝えたのだ。
「すべては…この子の為ですから。」
タラナは笑った。
「この子がクスコに入れば…一安心です。」
「…わかりました。」
ワウレは最敬礼した。タラナは小さくうなづくとまた口を開いた。
「―それと、もう一つだけお願いがあるのです…。」
天幕の外で人の気配がする。
「―ワウレ様。」
かすかな声がしてワウレはうなづいた。
「今、行く。」
ワウレはタラナを見た。
「タラナ姫。」
タラナもうなづいてニナを抱き上げて立ち上がる。天幕の外に出ると松明の明かりに照らされて―数人の屈強な戦士がひざまづいているのが見える。
「ご苦労。」
ワウレが言った。
「この御子だ。くれぐれも丁重にな。」
「わかりました。」一人が立ち上がり、タラナの前に立つとニナを受け取った。
「お預かりします。」
「よろしくお願いします。」
タラナは頭を下げた。
「では、タラナ姫。」ワウレが言った。タラナはもう一度ニナを見てその髪を撫ぜた。そしてその頬に自分の頬を寄せた。
「―元気で…皆の言う事をよく聞いて…良い大人になりなさい、ニナ。立派に皇帝陛下のお役に立てるように―。」
そこまで言うとタラナは自分の首から何か外してニナの首にかけた。「一緒よ。」
タラナは囁いた。
「母様はずっと…あなたといるわ…あなたを見守っているから―。」
タラナはもう一度髪を撫ぜて―名残惜しそうに手を離した。
「よろしくお願いします。」
タラナが深々と頭を下げた。ニナを抱いた戦士は小さくうなづくとその姿はかき消えた。“翔んだ”のだ。「…では、姫。私もまいります。」
ワウレが言う。
「…はい、ありがとうございました。」
タラナは頭を下げた。
「…いえ。ニナのことは…私も責任を持ってお守りします。」
「はい。本当にいろいろと…ありがとうございました。…皇帝陛下を始め大神官様、他の王族の方々にもくれぐれもタラナが深く感謝していたと―お伝え下さい。タラナはいつもタワンティンスーユの平和を願い、皇帝の御世の末永く続くことをお祈りしています、と。」
「しかと承りました。」
ワウレは最敬礼した。
「…タラナ姫もどうぞ御息災で。」
「ええ。」
タラナもうなづいた。「あなたも。タワンティンスーユの月にして予言者ワウレ様。」
そして―最後に微笑んだタラナは誰よりも美しく誰よりも誇り高く見えた。まるでそれは―タワンティンスーユの皇女のようにすら見えた。