第七章 旅立ち
翌々日の朝、ワウレは何人かの従者を引き連れ、数頭のリャマと共にやって来た。タラナとニナは身の回りのものくらいしか荷物もなく―見送りに来てくれた数人の村人と村長に別れを告げると一行は早々に出発した。一人ではしゃぐニナを見てワウレは笑った。
「…遠出は初めてのようですね。」
「ええ…これ、ニナ!」
タラナが苦笑する。
「…お気になさらずに。あのぐらいの男の子は元気なほうがいい。羨ましいくらいだ。」ワウレが言った。
タラナがワウレを見る。
「お子様は…お二人でしたね。」
タラナが言う。ワウレはうなづいた。
「ええ。娘と息子と…もうじきもう一人息子が生まれます。」
「そうですか…。」
タラナはうなづいた。
「娘は今年9歳になります。…息子は6歳。娘は明るい子なのですが…息子がどうもね。」
ワウレは苦笑した。
「人見知りというか…引っ込み思案というかおとなしくて…。…ニナくらいの元気があればよいのだが。…いずれは人前で“語る”ことが生業にせねばならないのですがね。」
「まあ。」
タラナが笑った。
「でも、そのご子息は“キーヤ”なのでしょう?…あなたの後継者なのですよね。だったら大丈夫…きっと立派な予言者におなりですよ。」
「だといいのですが。」
「母様―!」
はるか前方からニナが手を振る。タラナは手を振り返した。
そして、その旅はニナにとって初めて見る物、聞く物ばかりであった。
自分達が歩く石畳の立派な道は皇帝陛下が造ったクスコへの道であること―。
ところどころで泊まった宿場-タンボ-で出会う見も知らぬ土地の人々。
中には公用語-ルナシミ-であるケチュア語を話せない人々すらいた。いつも好奇心いっぱいの瞳でなにもかもを見つめていたニナをタラナは少し寂しそうに、だが嬉しそうに見つめていてくれた。でも、目に入るすべての物よりも―ワウレが語ってくれるクスコの様子―タワンティンスーユの話の方がはるかにニナは興味を持った。黄金の神殿-コリ・カンチャ-、町並み、行き交うたくさんの人々。ニナにとっては想像を越えた街であることは間違いなかった。
しかし―クスコが近付くにつれて―タラナの表情が冴えなくなっていくことに―気付くにはニナはまだ幼すぎた。
「ねえ、母様。」
ある夜、寝床の中からニナが聞く。
「なあに、ニナ。」
タラナが髪をとかしながら言った。
「…母様は…クスコに行ったことがあるの?」
「…どうして?」
「…なんとなく…行ったことがあるのかなって。」
「……ニナ。」
タラナは困ったように言った。そして大きく息を吐いて答えた。「あるわ。」
「本当?すごいなあ。…コリ・カンチャって見た事ある?」
「ええ。」
タラナはうなづいた。
「…そうか…早く見たいなあ…僕も。」
「ニナ。」
タラナはニナに近付いて頭をなぜた。
「早く眠りなさい。明日も…早いわよ。」
「はぁい。」
ニナは答えて毛布にもぐる。そこでもうひとつ思い付いたように顔を出す。
「母様。」
「何?」
「…クスコには父様もいるの?」
ニナの言葉にタラナの表情が―変わる。ニナはそれには気付かずに大きくあくびをした。
「…僕…父様に…会いたいなぁ…」
「……。」
タラナはニナをのぞきこんだ。ニナはタラナの答えを待たずに眠りについてしまったようであった。タラナは一度目を閉じてから天を仰ぐ。
―あなた。
閉じた瞳から涙が流れた。
―私は…どうしたらいいのですか…
そして―ついに。「ごらんなさい、ニナ。」
ワウレがニナを呼んだ。
「あれがクスコです。皇帝陛下のおわす世界の中心-クスコ-」
山間に―わずかに金色の町並みが見える。
「ここまでくれば…もう安心です。明日の夜にはクスコでゆっくり休めますよ。」
「うわあ…」
背伸びをするようにニナが遠くを見る。ワウレが声をかける。
「…見えますか?」
「うん…でも。」
ニナが目をこする。「ごらんなさい、ニナ。」
ワウレがニナを呼んだ。
「あれがクスコです。皇帝陛下のおわす世界の中心-クスコ-」
山間に―わずかに金色の町並みが見える。
「ここまでくれば…もう安心です。明日の夜にはクスコでゆっくり休めますよ。」
「うわあ…」
背伸びをするようにニナが遠くを見る。ワウレが声をかける。
「…見えますか?」
「うん…でも。」
ニナが目をこする。「なんだか目が変…」
「かすんで見えますか?…ほう、するとあなたは“眼”をお持ちか。」
「“眼”?」
「…そうです。あなたが今見ているのは結界ですよ。」
「結界…。」
「そう…クスコはインティ・ワタナ―太陽を結ぶ石の結界で守られています。あなたはそれが見える。」
「うん…」
目をこすりながらニナはうなづく。
「…結界を見分けられるというのは戦士-アウカ-として重要なこと。」
ワウレが微笑む。
「皇帝陛下は良い戦士を手に入れられた。」
ニナは嬉しそうに笑った。
「さあ、もう日が暮れる。今夜はここで天幕をはりましょう。天幕で泊まるのも今夜が最後ですから。」
召使たちが天幕を張るために忙しく働いている時―ワウレはふとタラナがじっとクスコを見つめているのな気がついた。
「タラナ姫。」
声をかけるといつもと同じように寂しげに微笑む。
「どうなさいました?」
「…いえ。」
タラナは答えた。
「…あのお方のことを考えておられたのですね。ワウレが言う。タラナは少し笑ってうなづいた。」
「ええ。…でもクスコへ行ったら…あの方のことは考えてもいけないのですね。…回りの方々にもわかってしまうでしょうし。」
「…姫。」
ワウレは言った。
「皆がすべて心の中をわかるわけではありませぬ。」
「ええ。」
タラナは答えた。
「…そうなのでしょうね、きっと。」タラナの目がふと天幕を張るのを手伝うニナに止まった。
「タラナ姫。」
ワウレの声にタラナは振り向く。
「―今夜から始めたいと思います。…クスコに入る前に終わらせたいので。」
「……。」
タラナは小さくうなづいた。
「…今夜のニナの食事に…薬草を混ぜます。」
「…それは…。」
「ご心配なく。…眠らせるだけです。コカに似た薬ですが…コカより眠りが深い。」
「……。」
「…王族の血が濃い程ヤワル・ユヤイ―血の記憶は鮮明なのです。ニナは父君からもあなたからも王の血をひいておられますから。」
「…わかりました。」
「…眠っている間にすべて終わりましょう。目が覚めるとそこはクスコです。」
「…よろしくお願いします。」
タラナは深々と頭を下げた。