第十二章 魂の行方
そして、その日遅くにチャルクチマとニナは家に帰った。トゥラが随分とニナを気に入ってしまい、帰り際に泣かれたのでまた訪れる約束をして帰って来たのだ。
「ただいま…。」
家に入ると火の側で背を丸めるようにしてロントが座っていた。その姿は―ニナには泣いているように見えた。
「母様?」
驚いたニナが飛付くとロントは振り向いた。少し目が赤いように見えたのは―ニナの錯覚だったのかもしれない。
「あら、ニナ。お帰りなさい。」
ロントは笑う。
「…アタワルパ様にきちんとご挨拶できた?」
「うん、母様、どうしたの?」
「どうしたのって?」
「…泣いていたんじゃないの?」
言われてロントはびっくりした顔をしたが首を振った。
「いいえ、泣いたりなんかしないわ。…だって悲しいことなんてないもの。」
「母様、本当に?」
「ええ、でも少し寂しかったかしらね。」
「なぜ?」
「あなたがお家にいなかったから。」
ニナの顔が明るくなり、笑顔になった。
「母様…!」
「さあさ、…ニナはもう遅いから眠らなくては駄目よ。誰かニナを部屋へ連れて行って。」
ロントが言うと奥から召使が出て来てニナを連れて行った。
「おやすみなさい、母様、父様。」
「おやすみ、ニナ。」
部屋を出て行くニナを見てロントは溜め息をついた。そんなロントの肩をチャルクチマが抱く。
「…あなた。」
「泣いていたのだろう。」
「……。」
ロントは下を向いた。
「私には隠すことはあるまい。…タラナの事でも考えていたのか?」
「ええ。」
ロントは小さくうなづいた。
「…タラナは…あの娘は…幸福だったのかしらって。…一番愛したお方を失い―その子を生んでも自分の手で育てる事もかなわず―そして…。」
「ロント。」
チャルクチマが言う。
「…人の幸福とは回りの人間が判断するものではない。…タラナ自身がどう考えていたのかということ。」
「……。」
「あのニナを見ていればわかる。…タラナは幸福だったはずだ。だからこそ愛情を注いでニナを育てた。―違うか?」
「…あなた。」
ロントの目から涙がこぼれた。
「タラナは幸福だったのだ、ロント。そう信じよう。」
「―はい。」
ロントはうなづいて涙を拭いた。チャルクチマが笑った。
「…今日はな、トゥラ姫にすっかりニナが気に入られてな。」
「まあ。」
ロントは笑った。
「ずっと一緒に遊んでおられた―。」
「それは良かったこと。」
「アタワルパ様もニナが気に入られたご様子。いずれはご自分の為に働いてくれとおっしゃられてな。」
「まあ…そんなことまで。」
ロントはうなづいた。
「…コリ・ティカ様のお体はいかがでした?」
「…うむ。まあ、キトーから戻られた時よりはかなり良くはなっておられるが…やはりご本復には程遠いな。」「…それはさぞかし、アタワルパ様も御心配ですわね。」
「…ああ。…コリ・ティカ様も姫がまだお小さいゆえ―何としてもお元気になりたいだろうよ。」
「…そうですわね。…私も明日にでもコリ・ティカ様にお見舞いの品をお届けしましょう。」
「それがいい。」
チャルクチマはうなづいた。
「…我々は…いずれまたキトーに戻る。…クスコと…ニナは頼んだぞ。ロント。」
「はい。」
―その頃。タワンティンスーユと呼ばれたこの国は二分されつつあった。現皇帝、ワイナ・カパックには大勢の皇子や皇女がいたのだが―次代のこの国の“王-インカ-”となり得る“統治者”の能力を持った者はいなかった。そのため、後継者争いが起こるのは―当然の事と言えた。最有力なのは二人の皇子―今や正妃の産んだただ一人の男子となった、ワスカル。そしてもう一人は側室でクスコより遥か北のキトーの王女を母に持つアタワルパ―。同じ年頃の二人は何かと幼い頃から比較され対立していた。
そのため、ワイナ・カパックは二人を離した。アタワルパにキトーを治めるよう命じワスカルはクスコにおいた。しかし、二人の対立は日に日に激しくなっていくばかりだった。そうして時代は確実に火種をはらんでいく―。 ほどなくしてアタワルパは己の部下たちを連れてキトーに戻って行った。
ニナもロントと二人の暮らしになり少々さびしい思いもしたが楽しく暮らしていた。そして、コリ・ティカの願いもあって時々はコリ・ティカのところを訪ねてトゥラと遊んだりもした。コリ・ティカの病状はあまりはかばかしくなく、一進一退ていうところでワイナ・カパックが直属の医師を派遣したりしていたが回復の兆しは見えなかった。季節は休みなく巡り―やがて収穫の季節は終わり、冬に向かおうとしていた。
「太陽の祭り?」
ニナが聞き返した。
「そうよ。」
コリ・ティカがうなづいた。
「あなたは見たことなかったわね、ニナ。」
寝台の上で横になったままコリ・ティカが言った。ニナはうなづいた。
「…年に一度の…太陽神を祭る…大きなお祭りよ。…国中から人々が集まって来るわ。このクスコに。」
「……。」
「色とりどりの服を着て…踊ったり歌ったり―皆でね、太陽神を讃えてね。また春が来るように、また暖かい季節が来るようにって…。」
「皆が集まるなら…キトーからアタワルパ様や父様も帰って来るんですか?」
ニナが聞く。
「…そうね。その前にお父様が巡幸から戻られるわよ。…兄様やチャルクチマやみんな帰って来て…クスコに…。」
そこまで言うとコリ・ティカは咳き込んだ。
「…皇女様!」
ニナが心配そうに言う。
「…ああ…大丈夫よ…ニナ。」
コリ・ティカは肩で息をして言う。
「優しい子ね、あなた。」
すっかり痩せてしまった細い手でニナの頭をコリ・ティカは力無く撫ぜた。
「…太陽の祭り。…インティ・ライミ。兄様と…参列したわ。」
コリ・ティカはニナを見ていたが―全く違う人物を見ていることにニナは気付いていた。
「…もう一度、インティ・ライミが見たい。」
「…じゃあ早く元気にならないと。」
ニナは必死に言った。
「いっぱい食べて…お薬を飲んで…。」
コリ・ティカは笑う。
「そうね。…ニナ、ありがとう。…あなたは本当に…。」
最後は言葉にもならずコリ・ティカは息を吐いた。
「…ニナ。これだけは忘れないで。」
「……。」
「…大切なものは…決して失われないのよ。…決して。」
「……。」
「…わかるわね、ニナ。あなたの心の中にある大切なものは…誰にも奪えないし、失われない。…忘れないでね。」
ニナは大きくうなづいて―コリ・ティカの瞳をじっと見つめていた。
そして、あと二週間で太陽の祭りだというある日のこと―。
「ニナ、起きて、ニナ。」
朝早くにロントの声で目を覚ました。
「母様、なあに?」
「…母様は出かけて来るわ。―コリ・ティカ様が亡くなったの。」
「……!」
ニナは驚いて飛び起きた。
「いつ…?」
「夕べ遅くに。…で、トゥラ姫がね。」
「トゥラがどうしたの?」
「……お母様の側を離れないらしくて。」
「…僕も行く。」
ニナは立ち上がった。
「僕がいれば…大丈夫だよ。きっと。僕も行く。」
「わかったわ。」
「お父様たちは?」
「明日か明後日、お着きだそうよ。…その前に来られるかもしれないけれど。」
「……。」ニナは着替えながらコリ・ティカの言葉を思い出していた。
―
「もう一度、インティ・ライミが見たい…。」
「トゥラ!」
ニナが声を掛けるとトゥラは振り向いた。昨晩からずっと泣いていたという彼女はニナを見るとようやくコリ・ティカの亡骸から離れてニナに駆け寄り抱き付いた。
「…大丈夫だよ…僕が来たから。」
トゥラはまた泣きじゃくり出した。ニナはコリ・ティカを見た。
コリ・ティカはまるで眠っているかのように―そこに横たわっていた。その顔はやつれてはいたが十分美しく―死してなおその名のとおり―コリ・ティカ(黄金の花)だった。
「お庭に行こうか、トゥラ。」ニナはトゥラの髪を撫ぜて言う。
「僕が一緒にいるから。」
二人は庭に出た。そこはニナが初めてコリ・ティカとトゥラに会ったあの庭だった。しかし今はあの時と違い花も無くただ枯れた草や木が風に揺れていた。日だまりを見つけてニナはトゥラと座った。空を見るとどこまでも青い―。
「…母様。」
トゥラは小さくつぶやいてまた少し泣き出した。
「…トゥラ、大丈夫。僕が側にいてあげるから。」
ニナがトゥラをギュッと抱き締めた。
「約束するから。」
「…母様、どこに行ったの?」
トゥラがニナに聞く。
「トゥラをおいてどこに行ったの?」
「……。」
ニナはふと顔を上げた。
「―空。」
「…アナン。」
「…そう高い所。そこで…ずっと僕らを見てる。アナンカチャ(天国)で。」「アナンカチャ…。」
トゥラが空を見上げた。翠色の瞳に青い空が映る。
「そう。いつでも僕らを見ている…。」
ニナは言った。
―
「忘れないでね…ニナ。」
コリ・ティカの声が蘇る。
―
「―大切なものは決して失われない…。」
「ニナ。」
ロントの声だ。
「ニナ、どこにいるの?」
「母様、ここ。」
ニナが小さい声で言う。「…ニナ。」
「しっ!」
ニナが言った。ニナに寄り掛かってトゥラが眠っている。
「ま…。」
ロントが言った。
「さっき眠ったところ。泣き疲れたんだね。」
「…お可哀想に、こんなお小さいのに。」
ロントは少し涙ぐんでトゥラを抱き上げた。
「…あなたは家に帰りなさい―夜にはアタワルパ様も戻られるそうよ。」
「…父様も?」
「ええ。」
「…わかった。」
ニナはうなづいた。
―人間はいつか必ず、死んでしまう…みんな。
青い青い…吸い込まれそうに青く高い空。
―死んだ人の魂はどこへ行くのだろう…
流れて行く白い雲。
―その人の想いは…
風が吹き抜けて行く。―どこへ行ってしまうのだろう…