第十章 新しい日々の始まり
―三日間眠り続けてニナはようやく目を覚ました。
「…ん。」
目をこすりこすりニナは体を起こした。辺りを見てニナはキョトンとした。見た事のない立派な部屋だった。
「…え…?」
ここはどこ、と聞こうとしてニナはふと自分の首に何かかかっていることに気付いた。それは黄金でできた小さな鳥の形の首飾りだった。
「……。」
手で持って眺めてみる。
「…あら。」
女性の声でニナは部屋の入口に目を向けた。
「目が覚めたのね、ニナ。」
「……。」
ニナはボーッとその女性を見た。
「まだ眠そうね…。でももう起きなさい。」
「……。」
ニナはまた目をこする。
「…ここはどこ?」
「あらあら寝ぼけてるの?」
女性は笑った。
「あなたはワウレ様に連れられてここに来たのよ、クスコへ。忘れちゃったの?」
温かい手に頭を撫ぜられてニナは女性を見た。
「クスコ…。」
「そうよ。おなかは空いてない?今、食事を準備するわ。…食べたら湯浴みをして新しい服に着替えて…。」
そこまで女性が言ったところに一人の男が入って来た。
「おお、目が覚めたか、ニナ。」
よく日に焼けてがっしりとした見るからに歴戦の戦士と言う感じの偉丈夫を絵に描いたような男だった。
「これ、そなたは父の顔まで見忘れたのか?」
男は笑った。男は笑った。
「―これまで放っておいて今更父もないですわ、あなた。」
「―おお、これは手厳しいな、ロント。」
男―チャルクチマは笑った。
「放っておいたわけではないぞ―ニナの母が産後に病になって―ニナを連れて故郷に帰ってしまったのだからな。」
「…父様…?」
ニナが不思議そうに言う。
「…そうよ。そして私があなたのお母さん。」
ロントが笑った。
「…あなたの生みのお母様は亡くなられたそうだけど…今日から私がお母さんになるわ。」
「お母様…。」
ニナはつぶやいた。なんだか現実感がない。しばらくぼんやりしてからニナは口を開いた。
「ここは僕の家?」
「そうよ。」
ロントがうなづく。またニナが黙る。ロントとチャルクチマが反応を待つようにニナを見た。やがてニナは口を開いた。
「―お腹空いた。」
二人は顔を見合わせて笑い出した。
「そう、そうね、ニナ。食事にしましょうね。」
「よし、ニナ。」
チャルクチマがたくましい腕でニナをひょい、と抱き上げた。
「一緒に食べるとするか。」
ニナはコクンとうなづいた。
光り輝く黄金の宮殿の廊下を一人の男が早足に歩いていた。男は一番奥の広間の前に立った。入口には二人の戦士が立っていて男に礼をした。
「―父上はおられるな。」
男は―ワスカルだった。
「…はい。」
「お目通り願いたい。良いな?」
ワスカルは護衛の返事も待たずに中に入った。ワイナ・カパックは正面の玉座に座り一人の男と謁見中だった。
「なんだ、ワスカル。」
ワイナ・カパックが言う。
「―入室は許可しておらぬ。外で待て。」
「―なぜニナをチャルクチマに渡したのですか?」
ワスカルがワイナ・カパックの言葉を無視するように言う。
「よりによってなぜ―。」
「…チャルクチマの妻はタラナの姉だろう。」
ワスカルがムッとしたような謁見していた男を見た。声の主はその男だった。
「―だったら何も不思議はないはず。」
「そなたに言ってはおらん。」
ワスカルは言った。
「―チャルクチマは私の部下だ。」
男は言って立ち上がる。
「チャルクチマでは不満か?あの子の養父が。」
「よさぬか、アタワルパ。」
ワイナ・カパックが言った。
「ああ、不満だ。」
ワスカルが言った。
「そなたの部下だからな。」
「これは笑止。ではどうするおつもりかな、ワスカル。そなたが引き取る気か?聞けばニナと言う子供はタラナにも兄上にもよく似ているとか。―そなたが引き取ればいくら父上とて噂が広まるのは止められまいよ。そのぐらいわからぬそなたではあるまい?」
アタワルパは半分嘲笑するように言った。
「キトーにでも連れて行かれては困るからな。」
ワスカルが言った。
「…キトーは空気が熱く澱んでいると聞く。クスコねように良い風が吹かないのだろう。」
今度はアタワルパがムッとしてワスカルを睨む。ワスカルはしてやったりとばかりに続ける。
「―あのようなところではどんなにインティのご加護があろうと誰でも病になるわ。」
「何を…!」
アタワルパがワスカルに掴み掛かろうとする。
「やめんか!!」
大きな声ではないが鋭い“声”が耳と頭に直接響いて二人は顔をしかめた。ワイナ・カパックが二人を睨みつけている。「いいかげんにせんか!ニナをチャルクチマに預けたのは余の決定だ。それが不満か、ワスカル。」
ワスカルは黙ったまま父を見る。
「アタワルパが申すようにそなたが引き取ればニナに余計な詮索をする輩が必ず現れよう。…ロントはニナの肉親だ。チャルクチマとの間に子もいない。チャルクチマにも異存はなかった。それに―。」
ワイナ・カパックが息をつく。
「元々、チャルクチマはあれの部下だった。…あれの近くで…あれを一番よく理解していた。ニナの父親には相応しいと思わぬか、ワスカル?」
ワスカルは答えないで顔を背ける。アタワルパがフン、と鼻先で笑う。
「アタワルパ。そなたもキトーを守るつもりがあるのはわかるが、先ほどの態度は上に立つ者として相応しいと言えるか?…そなたのその短慮な行いがある限りコリ・ティカも心と体を休める暇がなかろう。」コリ・ティカの名前を出されてアタワルパの顔がカッと赤くなった。
「…もうよい。二人とも下がれ。…ニナの事はもう決定したことだ。」
ワスカルが、そしてアタワルパが出て行くとワイナ・カパックは溜め息をついた。
「…兄上。」
気がつくとそこにクシ・トゥパクが立っていた。
「クシよ、聞いていたのか?」
ワイナ・カパックは苦笑する。
「…危うく回りに筒抜けになるところですよ、兄上。ここが王宮の奥の間でよかった。」
「……。」
クシの言葉にワイナ・カパックはもう一度溜め息をついた。
「…全く、ご苦労が絶えませぬな、…あの二人については。」
「…しかたあるまい。あの二人の生まれた時からの宿命なのだから。」
ワイナ・カパックは言った。
「年も近い…だが…能力も性格も正反対…しかも同じ父を持って生まれた。比べられるのはいたしかたないとは言え…もう少し仲良くとは言わぬからうまくやれないものか…。」
「兄上。先程のお言葉ではありませぬが…コリ・ティカ同様、心も体も休まる時がございませぬな。」
「…うむ。」
ワイナ・カパックはうなづいた。
「…コリ・ティカの具合はどうなのです?」
クシが聞く。
「…ワスカルではないが…やはりクスコの方が体には合うらしい。子のところ調子も良いようだ。」
ワイナ・カパックの表情が少し明るくなる。
「…コリ・ティカもあのような幼子を残しては逝けまいよ。」
「そうですな。」
クシはうなづいた。ワイナ・カパックは続ける。
「…タラナも…ニナのことを置いて行くのはさぞ心残りであったろうな。」
「…そのタラナですが。」
クシが言った。
「…姿を消したそうです。」
「何?…。」
「先程、オクロから連絡がありまして。」
クシが言う。
「…戻ってから一度挨拶には来たそうですが。」
「…まさかな。」
ワイナ・カパックがつぶやいた。
「…兄上もそう思われますか。…実は湖の畔で一人立っている姿を見た者がいるそうですので…もしかしたら。」
「…覚悟を決めていた、というわけか。」
「ええ。…このクスコに入らないと決めた時から…恐らくは。」
「…何と。」
ワイナ・カパックは額に手を当てた。
「タラナの潔い事よ。」「…まことに。」
「タラナはニナを生んだ時から覚悟をしていたのだな…いや、違う。…あれを愛した時から、あれが何者か知った時から…。」
―
「お願いでございます…私は…私はどうなろうとかまいませぬ…ただ…この子だけは…この腹の子供だけは…」
額を地面につけて肩を震わせて叫ぶように訴えるのは―タラナの姿。
―
「どうか……。」
幻を追うようにワイナ・カパックは首を振る。「ロントには伝えたのか?」
「いえ…まだ。」
「伝えてやるがよい。…たった一人の妹だろう?」
「…御意。チャルクチマに伝えましょう。」
「そうしてくれ。」
「ほら、ニナ、見ろ。」
チャルクチマが指差す。
「クスコの街がよく見えるだろう?」
「うん!」
二人が立っているのはサクサイワマン―クスコの街はプーマの形をしていると言うがそこは頭の部分にあたる―だった。小高い丘になっているためクスコが一望できる。
「…あの光っているのがインティ・カンチャ―太陽の神殿だ。」
「遠くから見てもきれいだね、父様。」
「そうだろう。」
チャルクチマは笑った。
「タワンティンスーユ中どこを探してもこんな美しい街はないぞ。」
「うん。」
ニナはうなづいて遠くを見た。
「今日は少しこの父と付き合ってくれるかな、ニナ。」
チャルクチマが言った。
「うん…いいよ。」
ニナは答えた。
「どこへ行くの?」
「いや…お前に会わせたい御方がいてな。」
チャルクチマはにっこり笑った。