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第九章 暁のクスコ

ほの暗い月の女神の神殿の奥の広間に今、数人の男達が集まっていた。男達が円座になっている真ん中にはただ何も知らずにこんこんと眠るニナの姿があった。

「―この子がニナか。」

男の一人―極彩色の羽根飾りを頭につけた男が黄金の首飾りを揺らして言った。

「―はい。クシ・トゥパク様。」

―男たちの中にいたワウレが答える。

「…あれの忘れ形見…。」

クシ・トゥパクと呼ばれた男はつぶやく。

「―兄上。」

クシ・トゥパクはただ一人低い椅子に座る男を見た。端正な顔立ち、思慮深そうな瞳。年の頃は50歳前後か。額に幾重にも巻かれた緋と金の糸で編まれた組み紐と一際鮮やかな羽根飾り、それにいたるところに黄金の装身具を身につけている。彼こそが―タワンティンスーユの現皇帝、ワイナ・カパックであった。

「…何と…よく似ておられる。」

クシ・トゥパクはつぶやいた。

「ええ。」

ワウレはうなづいた。

「幼い頃の…あの御方によく似ておられます、すべて。」

「……。」

ワイナ・カパックがすっと立ち上がるとニナに近付いてその額にかかる髪をかき上げる。

「…母親にも似ている。…美しい子じゃ。」

ワイナ・カパックは言った。

「…タラナは?一緒ではないのか。」

「…それが…ティティカカに帰りました…どうしても…クスコには入れないと。」

ワウレが答えた。

「…そうか。聡明な娘だったが…やはり、な。」

「ワウレよ。」

クシ・トゥパクが言う。

「封印はできるのか?」

「…はい。…ニナにはまだ王族としての自覚はありませんゆえ。―ただ。」

「―ただ?」

クシ・トゥパクが聞き返す。

「タラナが…自分についての記憶を消してほしいと。」

ワウレが言った。

「…母親の記憶を消せ、と申すのかタラナは。」

ワイナ・カパックが言ってニナの髪を撫ぜた。ワウレはうなづく。

「…はい。クスコで生きていくためには…過去のすべてを封印しておかなければならないと―。自分の思い出は不要だと。」

「…哀れな子よ。」

ワイナ・カパックは言った。

「…生まれながらにして、重い宿命を背負い…そして、父を失い、今また母の思い出すら奪われようとしている…。」

「…皇帝陛下。」

「…あのものたちは呼んであるか。」

「…は。」

クシ・トゥパクがうなづく。

「仰せとあれば、すぐにでもここに。」

「……。」

ワイナ・カパックはしばらく何かを考えているかのように黙った。そしてようやく重い口を開いた。

「−あの者たちを呼べ、ワウレ。」

「は…。」

「…よいか。今度は失敗はならぬ。…くれぐれも慎重に事を進めよと伝えよ。」

「御意。」

そこまで言ってワイナ・カパックはワウレを見た。

「タラナの望むとおりのするよう、伝えよ。」

「…は。」

ワウレも深々と敬礼をした。ワイナ・カパックはまた二ナを見た。

「のう、ワウレよ。」

「はい。」

「…そなたの息子のキーヤも…この二ナと同じ位の年頃であったな。」

「はい。」

「…そなたはどう思う?…余は…ひどい祖父かのう。」

ワウレは言葉を失う。クシ・トゥパクが悲しそうな顔をする。

「…真実を知ったら…この子はどう思うかのう…ただ…父と母の事を…恨むことは…してほしくない…。」

「陛下。」

ワウレが言った。

「…わかっておる。」

ワイナ・カパックは答えた。

「…わかっておる、ワウレよ。…これは余の小さな感傷じゃ…。」

ワイナ・カパックの目が遠くを見た。

「…では、余は王宮に戻る。後は任せた。」

「は…。」

クシ・トゥパクとワウレが深々と頭を下げるとワイナ・カパックの姿がスッと消えた。

「……。」

「…辛い役目だな、ワウレ。」

クシ・トゥパクが言う。ワウレは答えず言った。

「…とにかく始めましょう…夜明けまでには終わるでしょうから。」

「…そうだな。」

二人が顔を上げるといつの間にか長い衣をすっぽりと頭から被った数人の人物が立っていた。まるで影のような。

「連れて行ってくれ。私もすぐに行く。」

ワウレの言葉に影がうなづいたかのように見え…二ナの体を抱きかかえるといずこへともなく姿を消した。



ー彼は…一人歩いていた。それは長く続く一本の道だった。あたりは白い霧で覆われていて彼の目の前の道しか見えない。その道を彼はひたすら歩いていた。


その夜のことは…彼ー二ナは長い間思い出さなかった。その夜、彼に何があったのかはーすべては闇の中だった。彼がそれを思い出したのはー彼が二ナではなく別の名前で呼ばれるようになってからだった。





夜明け近くなって―。クスコの街のとある館にワウレはいた。

「…待たせてすまぬ。」

部屋に入ってきたのはよく日に焼けたがっちりした男だった。続けて一人の女性も入って来た。

「…いえ。こんな時間にこちらこそ申し訳ない。」

「…ワウレ様。」

女性が声をかける。

「…その子が…ニナですか。」

「そうです、ロント。」

「おお…。」

ワウレの後ろには例の影のような人間が立っており―その手にはニナが抱かれていた。ロントはその人物に近付くとその腕からニナを受け取った。

「…ニナ…。」

ロントはニナを強く抱き締めた。

「…2〜3日は眠っているでしょう。」

ワウレは言った。

「…タラナに…似ているわ。」

ロントはニナに頬ずりした。

「…あの御方にも似ている。」

男―チャルクチマが微笑んだ。

「…大事に育てよう。…あの方やタラナの分も。」

「……ええ。」

ロントの瞳から涙が落ちた。

「…ロント…この子には母親はいない。」

ワウレが言う。

「…それがタラナ姫の願いです。」

「ええ…わかっています。…あの娘ならそうするだろうと…思っていました。」

「…私の側妻の子供ということにするつもりだ。…母は死んだと話そう。」

チャルクチマは言った。

「それなら…問題あるまい。」

「それが…よろしいでしょう。」

ワウレはうなづいた。

「…これからニナの生活には新しいことがたくさん入り込んで来る…おそらく過去など振りかえる暇はないはず…。母の記憶がないことなど…気にはならないでしょう。」

「ヤチャイワシ(学校)に行かせてやらねば。」

チャルクチマは言った。

「たくさんの友を作って…たくさんの事を覚えて。」

チャルクチマの大きな手が眠っているニナの頭を手荒く撫ぜた。

「…いろいろなことを教えてやろう、ニナ。…私の戦士としてのすべてを。」

「…あなた。」

ロントが涙を落とした。「これで私も安心しました。…どうかニナをよろしくお願いします。」

ワウレは笑った。

「ワウレ様…ありがとうございました。」

ロントが言うとワウレはうなづいた。

「では、チャルクチマ将軍、ロント。」

ワウレは頭を下げた。ニナを抱いていた影の様な人物とワウレはスッと消える。残ったロントはもう一度ニナを強く抱き締めた。

「ロント。もうタラナのことは口外はすまい。」

チャルクチマが言うとロントはうなづいた。

「…ええ…もちろんですわ…この子は私の子…本当の私の子と思って育てます。」

「それがいい。」

チャルクチマはロントの肩を抱いた。


―もうすでに東の空がしらみかけていた。ワウレは太陽に祈ってから大きく息をついた。

「―長い夜であったな。」

誰に言うともなくつぶやく。

「―ワウレ様。」

ワウレに今まで黙って従っていた例の影が布の奥からくぐもった声で言う。

「…では我らもこれで。」

「…そうか。…いつもすまぬ。…そなたたちにばかり負い目を…。」

「いえ。それが我ら一族の務めですゆえ。」

「いずれまたそなたたちの力を必要とするときが来る。その時は…また頼む。」

「はい。」

影の姿が消える。ワウレは天を仰いでから歩き出した。そして大きな館のひとつに入って行った。

「―あなた。」

そこはワウレの家であった。家の中では暖を取る火の前で一人の女性が座ってワウレを待っていた。

「…ミカイ。起きていたのか。」

ワウレの妻のミカイが立ち上がろうとする。

「立上がるな…先に休んでおればよかったのに…腹の子にさわる。」

ミカイの側にワウレは座った。

「…すいません…どうしても気になって眠れなくて。」

ミカイは溜め息をついた。

「子供のことか。」

「……。」

ミカイは小さくうなづいた。

「チャルクチマ将軍なら大丈夫…ちゃんとあの子を育ててくれるだろう。

あの子はいい子だ…立派な王族になろう。」

「可哀想な御子。…キーヤと変わらない年頃なのに。」

ミカイが涙ぐむ。

「…我々も…あの子を守ってやろう。…それがタラナの気持ちに報いる…唯一の方法だろう。」

「ええ。」

ミカイはうなづいた。

「さあ、ミカイ。安心したなら少し休もう。来月にはその子も生まれてくると言うのに体を大切にせねばいけない。」

「はい、あなた。」

ミカイはワウレに助けられて立上がった。「大丈夫か?…先に休んでいなさい。後から行くから。」

「…あなた?」

「…いや…キーヤたちの顔が見たいから…すぐ行く。」

「ええ。」

ミカイは小さくうなづいて奥へ入って行った。ワウレが子供部屋に入って行くと長女のオクリョはぐっすりと眠っていた。その寝顔を見て頭を少し撫ぜるとワウレは反対側の部屋の長男キーヤを見に行った。眠っているようであったが―ワウレがのぞきこむとキーヤはパッチリ目を開けた。「キーヤ。」

ワウレが少し驚いて言う。

「起こしてしまったか?」

キーヤは首を振った。

「…お帰りなさい、父上。」

「ああ、ただいま。」

ワウレは微笑んでキーヤの頭を撫ぜた。

「きちんと留守を守ってくれたらしいな。よい子だ、キーヤ。」

「父上。」

キーヤは固い表情で言う。

「…今夜、クスコに誰かお連れしたのですか?」

ワウレの表情が一瞬変わる。

「どうしてそう思う?」「―大きな星が動いています。」

キーヤは言った。

「とても…大きな星…あれは…金星。」「キーヤ。」

ワウレは言った。

「…そなたにはわかるか。…あの子の運命が見えるのだな。」

キーヤは答えずにただワウレを見上げる。

「…父には今は何も言えない。だがいずれ彼が真実を欲した時は―。」

ワウレはそこで一度黙った。そして思い切ったように口を開く。

「助けておやり、キーヤよ。」

「…はい。」

キーヤは大きくうなづいた。

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