白い詰襟服の男
この文章はAIが書きました
地の霊、天の神
第一幕:上海 白い詰襟服の男
1919年、上海。 大川周明は、北一輝から革命の本質を聞かされた。それはマルキシズムを日本で具現する、弱肉強食の社会論だった。
「革命とは順逆不二の法門であり、その理論は不立文字である」
順序は正しく計算されるべきで、しかも出たとこ勝負。と大川は理解した。
上海、フランス租界の夕暮れ。 馬車の轍の音と、物売りの喧騒、そしてどこからか漂う阿片の甘い香りが、大川の脳を痺れさせていた。荷役作業を終えて行き交う工夫の疲れた顔には、生活の苦渋しかなかった。
東京。猶存社では、北を同人にできないかという議論が起こっていた。使者は籤で、大川が当たった。唐津に行ったが折からの嵐で、貨物船の到着は遅れていた。二日足止めされ、二晩続けて大川は霊夢を見た。白い服を着た男。
上海に上陸して、まず投宿した「太陽館」の一室。窓から揚子江を眺めていた北は、白い詰襟服を脱ぎ、猿股ひとつで胡坐をかいた。 北一輝は、かつて読んだ『国体論」や「支那革命外史」の印象と異なり、愛嬌のある雄弁だった。
「いいか大川君、日本という国は一度、死なねばならんのだよ」
徹夜の語り合い。北の言葉は、まるで上海の湿った熱気を吸い込み、純度の高い毒へと変換されて放たれるようだった。大川は、北の機略縦横の雄弁に驚嘆し、同時に確信した。目の前のこの男こそが、列島のフォッサマグナを揺り動かす唯一の手であると。
翌日、フランス租界にある北の自宅へ場所を移しても、対話は続いた。 大川はその時、自分が歴史の巨大な転換点に、それも最も生々しい肉体の隣で立ち会っていることを悟った。
「大川君、社会は下から個人という『小我』に始まり、中我としての『家族の流れ』があり、大我たる『国家』へと至るのだ」
北は、安物のワインを茶碗で煽りながら言い放つ。 「その大河がぶつかり合うのなら、戦え。ひとつが滅びれば、大は小を食いやがて世界はひとつになる。破れて死んでも、戦わなければならない。それが本当のマルキシズムだ」
大川はこの時、北の中に、知性というものの向こう側を見た。茶碗に目を落とすと、それは血の赤に見えた。
第二幕:千駄ヶ谷の猿股男
帰国後、東京・千駄ヶ谷の北一輝の生活は、崇高な理念とは程遠い、泥を啜るような日常だった。 北は頭山ら右翼の情報網を武器に、政財界の要人を脅して金を毟り取る、今で言う総会屋のような手口で生活費を稼いでいた。
そのくせ、広い自宅では門外にまで響き渡るような大音声で法華経を読謡するのだ。
ある日、大川周明は猿股一枚で笑っている北を路上に見出した。
「いやあ大川君、バクチで負けてね。こんな有様だ」
恫喝で得た大金を、一晩のバクチですべて溶かす。この「救いようのない放蕩」と「冷徹な革命理論」が同居していることこそが、北一輝という怪物の危うさのバランスだった。彼は現世の欲望を食らい尽くしながら、その裏で妻・すず子を拠り代に『霊告日記』を綴り、神々と対話していた。
第三幕:満州の乾いた蜃気楼
1931年、奉天。 東京・千駄ヶ谷の湿った路地裏とは対照的に、極寒の満州の冬空は乾き、風は大地の潅木をくるくると回し転ばせた。
柳条湖の爆音とともに、石原莞爾は「歴史の加速器」を起動させた。
石原にとって満州は、単なる植民地ではない。それは、西欧の論理と対決する「世界最終戦争」に勝利するための、神国日本の巨大な浮き城であるべきだった。
そして、遠い昔にこの地から出発した父祖たちの、母国の奪還だった。どうして清ごときにこの地を所有する権利があろうか。我らこそが正当な支配者であるべきではないのか。信長も秀吉も、それがやりたかったのではなかったのか。
「甘粕君、ここは王道楽土だ。五族が協和し、地霊の加護を受ける場所なのだ」
石原は、満州の地平線を見つめながら、自ら描いた『世界最終戦争論』の図面を脳裏に広げていた。日蓮主義者である彼は、北と同じ「法華経」の法力で、大陸の土を奪取した。
だが、石原が夢見た「五族協和 王道楽土」というユートピアは、結局のところ、北一輝が上海の宿で吐き捨てた「弱肉強食」の論理を美辞麗句で包んだものに過ぎなかったのかもしれない。関東軍という暴走するシステムは、石原の理想さえも燃料にして、泥沼の戦場へと突き進んでいく。
石原は気づき始めていた。己が燎原に放った火は、もはや自分には消せないことを。大川周明が満鉄調査部に入ってきていた。資本の論理、資本は理想を持たない。石原は満州での交友から、国際資本の影をも感じ取っていた。
平和主義者の天皇は、石原を嫌った。石原こそが諸悪の根源だ。後に国際連盟を脱退せざるを得なくなったのも、全てが石原のせいだった。
第四幕:大本教の影と軍部の浸食
同時期、もう一つの怪物が日本を飲み込もうとしていた。出口王仁三郎率いる大本教である。
時流に乗り満蒙浪士として、あたかも水許伝のごとくに地元軍閥と交誼を結んだあと、帰国し出口ナオの大本教に勧誘された。
「立替え、立直し」を叫ぶ大本の教義は、救いを求める東北の貧しい兵士たちだけでなく、軍上層部にも深く浸潤していた。真崎甚三郎陸軍大将や荒木貞夫陸軍大臣といった皇道派の上層部でさえ、綾部の大本本部へ足を運び、王仁三郎のカリスマに酔いしれた。
大本教は単なる宗教ではない。それは、西欧化した明治政府が押し込めた「地霊(艮の金神)」の反乱だった。 日露戦争の勝敗を予知したことで、軍部の信仰を集めた。
「大本を潰せば、日本も滅びる」 王仁三郎は、奇妙な変成女子の装束で予言した。国家がシステムを守るために地霊を封印すれば、国そのものが生命力を失うという宣告だった。
北一輝は、王仁三郎との交流から、本田霊学の高弟大石凝眞澄経由の審神さにわの法を伝授され、実践した。
実に、北の「国家改造」と、大本教の「立替え」。この二つの潮流が、二・二六事件という巨大な渦へと流れ込んでいく。
第五幕:二・二六事件
1936年2月26日。雪。 大本教に影響を受けた将校たちと、北一輝の理論を奉じる理知的な者たち交差し、ついに発火した。背景には東北の飢饉。人は飢え、娘は売られ、死肉さえ食っただろう。それは大本営発表の美辞麗句のスローガンとはかけ離れた現実だった。
しかし、錦の御旗として奉じようとした天皇は、彼らを冷酷に切り捨てた。「朕の股肱の臣を殺めし逆賊を鎮圧せよ」
1937年8月14日、刑場。 処刑の直前、執行官が北に問う。 「最後に、天皇陛下万歳を唱えますか」
北は、猿股ひとつで笑っていたあの時と同じような、不敵な表情を浮かべて答えた。 「私は、やめておきます」
その拒絶こそが、二・二六事件の真実だった。彼は天皇という個人を愛したのではない。自分の思想を実現するための「大河の装置」として天皇を見ていた。その装置が動かぬのなら、もはや床の間に架けられた刷り物の掛け軸にも劣る。
大川周明は、刑執行の直前、あの白い詰襟服を北から贈呈された。
第六幕:東京裁判
戦後、市ヶ谷の法廷。 かつて千駄ヶ谷で北の放蕩を見つめていた大川周明は、もはや正気と狂気の境目にいた。 彼は、被告席に同座する東条英機の絶壁禿頭をスリッパで叩いた。
「It's a comedy!」
かつて北と語り合った「世界はひとつになる」という理想が、アメリカという巨大な「小を食う大」によって実現されようとしている。その結末への、これが大川なりの「サニワ」としての表現だったのか。
ベンガルから来たパル判事は、その光景を冷ややかに見つめていた。 「戦わねばならぬという宿命に従った彼らを、勝者の法で裁くなどできない」
第七幕:石原莞爾の戦後
1948年、山形。 病に侵された石原莞爾の元には、軍事裁判検事、新聞記者といった者が足繁く訪れていた。 相変わらず陸軍参謀としての地政学的読みが優れていたからだ。
石原は東条に冷遇されたがゆえに、戦犯としての訴追を免れた。しかも、占領軍は石原の弁舌を恐れた。
酒田で、異例の東京裁判が開廷し、参考人招致されたのみだ。が、あくまで自らを戦犯として裁けと主張はしていた。
「オラが諸悪の根源だっぺが。……ンだなし。オラが柳条湖で火を放たねば、連盟を脱退するごとも、この国が焼き尽くされるごともながったかもしんねえ」
石原は、かつて自分が「帰還」を夢見た大陸を思い出す。
平和を愛でる天皇が自分を毛嫌いし、一度も拝謁を許さなかったのは、石原の内に眠る「大陸の血」が、天皇の守ろうとした「近代」を根底から腐食させることを、彼が本能的に察知していたからだ。
「これからの日本は平和国家になる。アメリカの旗の下で、二度と戦わない」
口では反省を述べながら、石原の脳裏には、同じ日蓮宗門の北一輝がちらついた。しかも、若き日にマルキシズムにかぶれた履歴も同じだ。
戦え。たとえ負けて死んだとしても、その弱肉強食が世界政府を作る。かつて自分も世界最終戦争論で、同じことを言ったはずだ。
戦争を生き残った石原は、マッカーサーをも使ってやれと、日本が平和国家たるの理念を語った。どちらが上手だったかは、歴史が証明するだろうと。
石原の窓の外には、かつて北や王仁三郎が聴いた地鳴りはもう聞こえなかった。ただ、無機質な復興の槌音だけが、白地図になった列島に響き渡っていた。
(完)
参考図書
大川周明関係文書 芙蓉書房出版
陸軍の異端児石原莞爾 光人社
北一輝 霊告日記 第三文明社
他




