【短編小説】誰も読んではならぬ
硬い床の上で眠りから覚めた塵山 芥之介が背筋を伸ばしながら息を吸うと、その肺に流れ込んだのは冷房で乾燥した空気だった。つまり芥之介は激しく咽せたのだった。
すっかり気の抜けたコーラを飲みながら、起きる直前に見た夢を思い返してみた。
それを悪夢と言うにはあまりにも緩く、ただフロイト的な記号で埋め尽くされていた。
例えば夢に出演していた半裸の女を母親と認識していた理由は分からない。
ただその女を警察に通報しようとしていた点からすると、グレートマザーとの対決はそろそろ終わろうとしていたのかも知らない。
芥之介はノートに夢といま考えた事を書き込んでから煙草を吸いに外に出た。
焦げついた群青色の空には月が出ている。
満月に近い月だ。
おぼろ月のように曖昧だ。
その月明かりの下に在るのは、明確な光を浴びた真夜中育ちの民がそれぞれの影を溶かして眠る街だ。
その影が溶け込んだ空は暗い。
同じ月を眺める真夜中育ちの民の影が縫い付けられた空は闇く、その闇い空を見上げる馘の痛みもまた繋がったままだった。
馘が痛い。
誰だって馘が痛いままだ。
芥之介が痛む馘を撫でながら見上げた焦げついた群青色の空を飛行機が横切っていく。
「死んで帰れ!!」
芥之介は敬礼をした。
芥之介は惜しまれながら死んで行く英雄に憧れている。
英雄で無くてもよい。
ただその命を惜しまれたい。
ただ芥之介を惜しむ人々の範囲について考えた事がないと気づいて以降は、ずっと絶望的な気分だった。
悲しいから、いっそお為ごかしの国葬であって欲しい。「なにこれ?なんの列?」「知らないけど、なんな凄い人が死んだらしいよ」そうやってギャルJKとかにも葬列に並んで欲しい。
いや、いま見ているこの景色が走馬灯の一コマであったなら?
実際にはあの飛行機のコクピットにいてタナトスに光る街を見下ろしているのだとしたら?
誰も自分を惜しまないのでは無いか?
……そうやって世間体を気にした肩身の狭さを想像するだけで疲れてしまう。
「まだ何物でも無いのに」
いや、もう何者かになる事も望んでいない。
逆に言えば何者も芥之介にはなれないのだと開き直ってすらいる。
そうだ。
芥之介が出来ない事をやれる人は多いが、芥之介が出来る事をやれない人だって少なくない。
それだけでいいのだと思える様になったのは最近の事だ。
しかしそれは芥之介が社会に於いて価値がある事を意味しない。
単に無価値とは言い切れない可能性についての消極的な解脱や悟りでしかなかった。
恥と厭な記憶で塗りつぶされた記憶が膨らんで弾けそうになった芥之介は叫んだ。
「もう駄目だ!」
赤い紙飛行機は夜空に飛び立って、芥之介は惜しまれながら死んでいく英雄だった。




