《安芸》〜沈黙の設計者〜
「“早すぎた”ことを誇って沈む艦など、私はつくらん」
横須賀造船所・第七設計班の長、北園耕作技師は、上からの命令書を無言で丸めて机に投げ捨てた。
命令内容は、こうだった。
――《薩摩》と同型艦として《安芸》を建造せよ。
――基本設計は共通。砲配置・機関構造を原則流用。
――開発遅延は許されない。
つまりは、二番艦を“量産仕様”として作れということだ。
しかし北園には、それが耐えられなかった。
「同じ艦を作って、何の意味がある。薩摩が“剣”ならば、安芸は“盾”であるべきだ」
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北園は、真逆の設計思想を掲げた。
主砲こそ31センチ連装砲3基を踏襲するが、それ以外はほぼすべてを見直すと決めた。
《薩摩》が目指したのは“速力と将来性”。
一方、《安芸》が目指すのは“耐える艦”、そして“即応可能な実戦艦”。
そのために、北園は三つの大胆な改変を行った。
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一、装甲配置の再構築
《薩摩》では砲撃の衝撃を逃がすために、甲板装甲があえて軽めに設計されていた。
だが北園は違った。
「初弾を受け止めねば、速力も火力も無意味だ」
彼は、バイタルパート(弾薬庫・機関部)を守るために、中央装甲帯に傾斜装甲方式を採用。さらに甲板装甲を1.5倍厚く、砲塔防御も強化。
これにより重量が増し、速力は《薩摩》より3ノット劣る予測となった。
それでも彼は言い放つ。
「生きて港に戻れる艦が、次の戦いを勝たせるのだ」
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二、主機の研究艦化
《安芸》では、新開発中の高圧蒸気ボイラーが搭載されることになった。
これも、北園が“整備性と耐久性”の向上を理由に直談判でねじ込んだ代物だった。
「薩摩の速力記録? 立派なことだ。だが3回走って3回とも整備に戻ってくる艦に意味はあるのか」
新型ボイラーは未成熟だったが、整備性と耐熱寿命に優れ、航続距離の延伸にも寄与した。
その後の艦隊運用で《安芸》の稼働率は高く、「最も常に前線にいた艦」と呼ばれるようになる。
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三、艦橋・指揮系統の強化
《薩摩》では艦橋が低重心構造であったが、北園は戦時の指揮機能を最優先として、あえて大型艦橋を採用。
電気式伝令機や各砲塔への独立伝声管の設置、探照灯管制機構など――今で言う「CIC(戦闘指揮所)」の走りであった。
これはのちに、後続艦や金剛型に大きな影響を与えることになる。
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建造は計画通り、静かに、確実に進んだ。
華やかさはなかった。視察の大臣が来ても、歓声もなかった。
だが試験航海において、《安芸》は予定された全科目を一発で合格。砲撃精度、運動性能、航続距離、冷却効率――すべてで高い評価を得た。
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その完成を見て、設計主任の北園はこう書き残している。
> 「この艦は薩摩の妹にあらず。
> これは“戦いの終わり”を知る艦である。
> 命を、できる限り遠くまで届け、そして守る。
> 誰が見向きしなくても、私はそれを“本当の戦艦”と呼ぶ」
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のちに《安芸》は、実験艦としても最前線でも沈まず働き抜き、後に控える《能登》《対馬》の礎となった。
その堅牢さから、海軍内ではこう呼ばれていた。
――「沈まぬ影」
それは、誰も知らぬ英雄の名である。