地面の喪失
女は確かに生きていた。
神に別れを告げ、その一瞬の後には事故現場にいたのだ。確かにトラックは突っ込んできていた。だが、女には当たらなかったのだ。寸での所で避けた形になっていた。しかも、無傷である。かすり傷一つ負っていなかったのだ。周囲は騒がしかった。女にかかる声がある。大丈夫かと問うている。大丈夫です、と、硬い声で答えた。現に、無事である。それより大変なのは、トラックの方だろう。どうして突っ込んできたのかは分からないが、もし神が言う下位種とやらのせいであるならば、ドライバーも被害者なのだ。だが、彼女に出来る事はない。まさか、この人は悪くないんです操られてこんな事をしてしまったのです、等と言ったところで誰が信じるだろうか。事故の衝撃で、此方の頭がおかしくなったと思われるだろう。だが、出来る限り庇う発言をしよう。そう、心に決めた。現状女は被害者であって、だが目に見える被害はなかった。今この場で、五体満足で立っているのだ。しかもトラックにも、想像するような酷い傷はなかった。あのスピードで突っ込んで来たなら、人を越えて建物に当たり止まりそうなものだが、そうなってはいなかったのだ。丁度、女が立っていた場所で、止まっている。正に標的は其処であったと言わんばかりであった。ガードレール等は大破していたが、トラックは言う程でもなかった。可笑しな事故だった。
異世界転生だか異世界転移だか分からないが、何とも傍迷惑なものである。
あれから数日後、道を歩きながら女はそんな事を思っていた。どうせ呼び出すなら、迷惑がかからない方法にして欲しい物である。そもそも、呼び出さないでいただきたい。しかも彼女の場合、狙われたのはそのものではなく、魂のみだというのだ。つまり、死を願われていた。神があの時助けてくれなければ、間違いなく死んでいたのだ。神様様だなあ、と、ぼんやり歩いていると、地面が消失した。
余りに突然の事だった。
アスファルト舗装された歩き慣れた道、それも住宅地の道が、突然消えたのだ。周りに人はいなかった。いなくてよかった。何故なら落ちるのは一人だけで済む。本音を言えば、自分だって落ちたくはない。だが、足元がなくなれば、人間落ちるしかないのである。咄嗟に、ひゅ、と、競り上がるような呼吸をした。まるで絶叫マシンに乗せられたかのように、一瞬上がったみたいに感じたのだ。実際には落ちているのに。不思議と声は出なった。絶叫くらいしてもおかしくなかったが、体を強張らせて目を閉じるのが精一杯だったのだ。そうして、女は、暗い地面の底へと吸い込まれていったのである。
死ぬな。これは、死ぬ。
まるでフラグのように思った。
「ありがとう神!」
だが結果として異世界人は、生きている。
暗い暗い地面の底には、深い青に彩られた空間が広がっていた。実際に繋がっているわけではないだろう。助けてくれたのだ。トラックが突っ込んで来た時と同じである。神は異世界人を見捨てなかったようである。それも、たった一度会っただけの異世界人をである。女の中の神の評価が更に上がった。今の所、下がる要素はない。
「災難でしたね、異世界人」
相変わらず神はゆったりとした服で、卓袱台の前にいた。勝手知ったるとばかりに、異世界人も置いてある座布団に座る。二回目なので、スムーズだった。
「また、下位種とやらの仕業ですか」
「ええ、あなたの魂を諦めていないようですね」
「また死ぬとこだったんですか?」
「そうですね」
意図も容易い肯定に、異世界人は項垂れた。死にたい願望もなければ、殺されたい願望はもっとない。世の中おかしい。いや、おかしいのは彼方の世界である。
女は忘れようとしていた。
知らない世界の生き物に、殺されようとした事をである。何せ生きている上に、二度とこのようなことは無いと思っていたからだ。だが、こうも短期間に二度目があったとなると、話は変わって来る。
異世界人は、意を決した。
「私の魂、何に使うんですか」
己の魂の使い道とやらを聞く決意を固めたわけである。知った所で何が変わるわけでもないかも知れない。だが、知る権利はあるだろう。命が懸かっているのである。
真剣な顔をする異世界人の前に、急須と湯飲みが現れた。前回とは違う質感と柄である。深い青色に白で胡蝶蘭が描かれていた。湯飲みに向かい、神が急須を傾ければ、茶が出てきた。微かに湯気が上がる。二人分注ぎ終えると、神は躊躇せず口を付けたのだ。
「熱くないんですか」
「飲んでごらんなさいな」
前回を思い出し、顔を顰めた。何せあの時は、八十度である。だが、湯飲みに触れ、気付く。指先が痛くない。
「今日は、五十度よ」
問うより先にネタばらしがきた。成程、玉露。五十度と言う事は、そう言う事である。高級茶葉だ。日本の。そう、日本のものである。相変わらずこの神、異世界人に配慮してくれているらしい。異文化交流ってこういう事かも知れない。異世界人は現実逃避を始めた。
「それで、あなたの魂の使い道だけど」
だが、そうは問屋が卸さぬとばかり、唐突に本題に戻す神である。だが此処で茶々を入れると長引くことを知っていた異世界人は、黙って湯飲みを傾けたのだ。茶が美味い。
「ゴーレムって分かる?」
「人造人間的な」
「そう。その土人形にあなたの魂をぶち込んで」
「聞きたくない話になって来たな」
「戦争に勝ちたい」
「いや、テメェの所魂使えよって話になりません?」
「異世界人の魂の方がすごい」
「マジで?」
「全然」
「えっ」
今、何て言った? 思わず異世界人は神を凝視した。相変わらず美しい女だった。異世界人とは人種が違う。一目でわかる。不思議な髪色。風もないのに時々揺れる。黄金の瞳は全てを見透かすように凪いでいた。
「全然てどう言う事? 意味ないって事?」
「そう」
「じゃあ何で殺そうとすんの?」
「知らないからですね」
「何を?」
「異世界人の魂入れても無意味って事」
とうとう異世界人は呆気にとられ、間抜けにもポカンと口を開けてしまった。知らないからですね? いや、こっちだって知りませんけど? 何を? 全部を。もう何もかもが分からなかった。人造人間的な何かに入れるために殺されようとしている事も、入れたところで無意味な事も、つまりそれって無駄死にじゃん? と、言う事も、何もかもが分からなかった。いや、理解したくなかったのだ。余りにも現実味がなかった。
「神教えればいいじゃん!?」
そうして、大声を発する羽目になったのである。
異世界人は思った。物凄く真っ当な事を言っていると思った。寧ろ当然であるとですら思った。そもそも最初に気付くべきですらあると思った。大体一々こうして助けてくれるくらいなら、本を糺せばいいわけである。はい、解決。
「残念ながらそう簡単に干渉できないんですよね」
「神なのに」
「神だからです。ちょっと何かやろっかなって思うと、大陸無くなっちゃったりするから」
「マジで」
「マジで。寧ろ戦争の方が犠牲者少ないまである」
「神不自由じゃん」
「神不自由なんです。でもね、媒介がいれば話は別なんですよね」
異世界人は察しが悪くなかった。寧ろ、少しオタクを齧っていたせいで、この後の展開が予想出来てしまったのだ。先に言いたい。嫌だと。媒介が物であれば文句はないのだ。でも、いれば、と、言ってしまっている。生き物率百パーセントである。
「異世界人のところに、二度あることは三度あるって言葉あるでしょ」
「最高に嫌な事言うじゃん」
「もう二度殺されたんですから、次もあると思うんですよね」
「生きてんですよ」
「神のお陰で」
「そう、神のお陰で!」
もしかしなくても、これ、断れない流れかな。異世界人は薄々諦めだしていた。何故なら本当に二度あったわけである。しかも、この短期間に。前回トラックに突っ込まれそうになったのは、たかが数日前の話である。
「神、あなたの世界ってどんなところなんですか」
「下位種が住まう世界です」
「分からん」
「異世界人は三秒で死にます」
「どういう意味? 空気が合わないって事?」
「野蛮な世界なんです」
「死んでも行きたくない」
「でも異世界にいても死にますよ」
「最悪だ。魔法あるんすか」
「ありますね」
「使えないんですけど。あっち行ったら使えるようになるとかそう言う特典あるんすか」
「ないっすね」
「ねえのかよ!」
普通もっと異世界転移ってイージーモードじゃないのか。女は思った。大体の日本人、あっちの世界に行った瞬間から人生の勝ち組に躍り出る。そう言う話しか読んでこなかったので、そう言う展開しか知らなかった。ステータスオープンとかしてみたかった。それだけの人生だった。ステータスって何やねん。MPはゼロである。
「でも異世界人、あなたには神がついています」
「それって、見守ってくれるとかでしょ。そんなん死ぬじゃん」
この神、干渉すると大陸吹っ飛ばす等と口走ったばかりである。凄いが、それだけである。何の力にもならない。溜息しか出ない。人生先は暗かった。日本に留まっても死ぬ。異世界に行っても死ぬ。だったらここで死ぬまで神と茶しばいたろかな。異世界人は既に諦めの境地である。
「媒介がいればいいと言ったでしょう。異世界人、あなたの傍に常にいる事をお約束しましょう」
「えっ、マジ?」
「マジ」
「神、すごいんでしょ」
「神凄いですね」
「下位種に勝てる?」
「下界の下位種全てが向かって来ても、神が勝ちます」
「神最高じゃん」
「神最高でしょ」
異世界人、チートアイテムを得る。いや、神であるが。だがこれは、青い猫型ロボットに匹敵するのではないだろうか。つまり、使いどころを間違えなければ、勝つ。勝ち負けがよく分からないが、命の危機に瀕した時、生き延びる可能性である。窮地に陥ったとして、神がいればなんとかなるわけである。多分。
「ただずっと傍にいると目立ちますからね。傍にいますが、姿は隠している事にしましょう。もし、出てきて欲しい時は全力で呼んで下さい」
「なんて?」
「全力でこの神を呼んで下さい」
「全力で」
「全力で」
「全力ってどれくらい?」
「空気がこう、びりびり震えるくらいですね」
「神ー! って?」
「はい、その百倍くらい頑張って」
「変人じゃん? 急に神ー! って、叫び出したら変人じゃん?」
「大丈夫ですよ。異世界人ですから」
「大丈夫な要素ゼロだよ」
はあ、と、溜息を吐いた。やはり、いい話には、何かしら落とし穴があるのだ。いや、呼ぶだけなので大したことはないかもしれない。だが、全力である。急に得体の知れぬ女が叫び出したら速攻殺されるのではないだろうか。それを防ぐための神であるが、中々ハードルが高い。突然大声出すの無理では? 項垂れた異世界人の前に、湯飲みが差し出された。中身が増えている。神が注いだのだろう。もしかすると、これが玉露を飲む最後になるかもしれない。別に死ぬ気はないが、ふと、そのような事が脳裏を過った。きっと神が用意したのだし、高級だろうな。勝手に思う。そもそも、玉露の味の違いが分かる程、茶に精通していなかった。はあ、と、もう一度溜息を吐く。
「無理では?」
「諦めないで!」
「早速こっちのネタ取り入れてんじゃねえよ!!」
湯飲みを手にしたまま、矢鱈と日本フリークっぽい神に全力で突っ込んだのだった。
こうして異世界人は、本当に異世界に渡ることになったのである。神が一緒だから何とかなる、と、その思いだけで深く考える事無く。