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トラ転は古い


 危機的状況に陥った時、何故か自分を取り巻く全てがスローに感じる瞬間がある。景色がゆっくりと流れて見え、自分さえも遅いのだ。そう、体が動かないのである。明らかに危機的状況である。避けなければいけないと分かる。なのに、動かないのだ。いや、動いている。だが、間に合う気がしない。こんなにもゆっくり迫ってきているのに、避ける事が出来ない。体が仰け反った。避けようとしているのだ。唇を嚙みしめる。目が大きく開く。周囲の喧騒が自棄に大きく飛び込んでくる。質の悪い夢のようで、しかし、現実であった。

 今正に、4トントラックが突っ込んで来ようとしている。

 白いトラックだ。もしかすると、トラックをこの距離で正面から見た事はないかもしれない。初めてかもしれない。それを言えば、トラックが自分目掛けて突っ込んでくること自体初めてである。絶対にゼロではない確率だと分かる。だが、自分が標的になるとは思いもしない。こんな事なら宝くじも当たって欲しい。悪い事と良い事はイーブンであるべきだ。そうでなければ、不公平である。女の思考は既に諦めが九割であった。どう考えても助からない。交差点ですらない場所で、トラックがガードレールをぶち破って襲い掛かってくるなど、冗談にしては酷く詰まらなかった。日差しが眩しい。陽光が、車体に反射して目すら攻撃してくる。一体最後に見たものが何だったのか、分からないまま意識が消失した。

 消失したはずだった。

 しかし、すぐさま意識は戻ったのだ。

 女は思った。

 きっと、ぺちゃんこになったに違いない。

 自分の身体の事である。

 既に眩しさは消えていた。陽光が差し込まない。つまり、室内であった。いや、室内かどうかは定かではない。死んだであろうから、これはきっと、あの世、と、考えるのが妥当なのだ。女は自分の死を疑っていなかった。あの状況で助かると思う方がおかしい。法定速度を遥かに超えた速さで、あんなにも大きなものが突っ込んできたのだ。きっと、死体は見れたものではない。轢死なのか、圧死なのかよく分からない有様だろう。

 女はあたりを見回した。そうして、己に足がある事に気付いた。寧ろ五体満足であった。そもそもこれは実体であろうか。周囲は夜の帳が降りたようだった。黒ではなく、深い深い青色の中に女はいた。上も下も右も左も全部同じ色。まるで、夜空に放り出されたようにも感じる。或いは光も届かぬ海の中だろうか。でも、歩けるのだ。女は足を動かした。足はあるだけでなく、きちんと機能したのである。そうして少し歩いて立ち止まった。

 不可思議なものが目に飛び込んできたからである。

 それは、丸い茶色で、四つの足がついていた。生き物ではない。家具である。古き良き日本の光景によく見られる、卓袱台であった。更にその横には、二つ座布団があった。それも、角房がつき、ふっくらとした立派な座布団であった。女は空いている方を見た。空いている方、と、言うからには、空いていない方がある。座布団は二つある。一つは使用中であった。仕方なく女は其方も見た。人型のものが座っていた。正座をしているのかどうかは、よく分からない。衣服が長いからである。キトーンのような服装だった。それでいて、肌の露出はほぼない。長袖の少し豪華なドレスにも見えるし、だがドレープがキトーンを連想させた。人型のものは、己と同じ女に見えた。この空間によく似た、深い青色の長い髪が風もないのにそよいだ。

「トラ転はもう古いんじゃないかと思うんですよ」

 トラックに突っ込まれた女が言った。声が出るんだ、と、思った。歩けるのだから、声が出ても不思議ではない。何より、見えてもいる。そう、女は五体満足なのだ。長い髪の女が目を細めた。

「ご機嫌よう異世界人」

 トラ転と言う言葉には触れずに、言った。言われた女は顔を顰めた。ご機嫌よう、等と言われても、正直いい気分ではなかった。恐らく死んだのであろうし。でも、確かに挨拶位すべきかもしれない。

「こんにちは神様」

「まあお座りなさいな」

「否定しないの?」

「神ですもの」

「ガチで?」

「ガチ」

 神もガチとか言うんだ。異世界人は思った。そもそも、適当に神と呼びかけただけで、本当に神だとは思っていないのだ。別段神など信仰せず生きてきた。では何故神と言う言葉が飛び出たか。答えは簡単。彼女は所謂転生系の話を読んだ事があるからである。それも、オーソドックスなトラック転生である。要は、トラックに撥ねられ、死んだ後別世界に生まれ変わる系の話だ。それが我が身に降りかかるであろうとは、想像したこともなかったが。それでもこの状況は、正にであった。トラックに突っ込まれ、死ぬ。気付いたら知らない場所。そして、いる美女。トラック転生の流れを奇麗に踏襲している。一先ず女は、座布団目掛けて歩き出した。座る際のマナーってあったかな、等と思いながら。そうして、久しぶりに座布団の上に腰を下ろしたのである。普段の生活には無縁の代物であった。

「神に聞きたい事があります」

「ごゆっくりどうぞ? 時間は無限よ。お茶でも飲む?」

「時間が無限なのは神だから? それとも私も無限?」

「あなたは有限」

 口角を上げ、良く気付きましたと言わんばかりの顔で神は言う。すると、卓袱台の上に、急須が現れた。お茶でも飲む? は、どうにも社交辞令ではないらしい。女は思った。あくまで、此方に合わせてくれるのだな、と。どう見ても日本風である。急須が出て来たなら、湯呑もセットだ。白磁に見えた。茶葉を入れるわけでもなければ、お湯を注いだわけでもない。だが、神は急須の持ち手を取ると、そのまま、湯呑に傾けたのだった。薄い緑色の液体が出てきた。茶である。しかも、湯気が上がっている。ちょっとした手品のようにも見える。

「緑茶ですか」

「そうよ。好きなの」

「そちらの世界にもあると言う事ですか」

「似たようなのはあるんじゃない? でもわたしはあなたの世界のお茶が好きなのよ」

「普段から飲んでるって事ですか」

「神だし」

「神って何なんですか」

 聞いていいのかどうかも分からないが、ふと口をついて出てしまった。果たして尋ねてよい内容だったのか。例えば、人間て何ですか、と、聞かれたとして、答えられるだろうか。分かるが、分からない。哲学的な問いなのか、それとも生物としての問いなのか。果たして正しい答えは存在するのか。だが、神はもっと分からない。実在するかどうかも不明のものである。少なくとも、彼女にとってはそうである。こうして顔を突き合わせて話す相手ではないのだ。

 神を称する女は、じっと、相手を見た。

 そうして、湯呑に手を伸ばしたのだ。ず、と、音がした。神も熱い茶を飲む時は、啜るんだな、と、女は思った。

「上位種よ」

「なんて?」

 咄嗟に聞き返してしまった。全く意味が分からなかったのだ。神が二口目を飲んだ。

「あなたは、此処を何処だと?」

「異世界的な何かでしょう」

「そう、つまり、あなたの世界とは違う訳です。あなたの世界には、上も下もないでしょ」

「何が?」

「人よ」

「人に上と下があるんですか」

「あるんです。そしてわたしは、上」

「私は?」

「あなたは、上も下もないでしょ」

「よく分かんないんですけど」

「こっちの世界の話なんです。同じ人型の生き物でも、上位種と下位種がいる」

「それで、あなたは上位種で、それ以外は下位種?」

「そう」

「もしかして、あなたの世界では、上位種の事を神と呼ぶ?」

「そう」

「神じゃねえじゃん」

「神です。だって、下位種がわたしを神と呼ぶから」

 え、でも、人なんでしょ? 女はその言葉を呑み込んだ。そう言えば、人かどうかなど、全く分からないのだ。大体此処が何処かも全然分からないし、それでいて、確かにお茶一式を出すイリュージョンは、神の御業に見えた。つまり、神では? 卓袱台の向こうの人型の何かを見た。湯呑を手にしている姿は、日本に観光に訪れた外国人にも見える。顔の造形が日本的ではないのだ。もっと彫が深い。でも美人には違いなかった。そもそも不思議と神は美男美女と相場が決まっているのだ。つまり、神では? そろそろ考えるのが嫌になってきていた。女は考えるのが得意な部類ではなかったのだ。

「あなたが私を呼び出したんです?」

「いいえ」

「えっ、違うんですか!? じゃあ、何で私此処にいるの!?」

「まあ落ち着いて、お茶でもお飲みなさいな」

「いや、私の時間が有限だって言ったのそっちじゃん!?」

「大丈夫わたしの時間は無限だから」

「そっちじゃなくて、私の問題なんですけど?」

「お茶が冷めますよ」

「茶飲んでる場合じゃないんですよね」

「神が淹れたのに?」

 女が口を閉ざした。そう言う言い方をされると、従わなければいけない気がしたのだ。別段神を信仰しているわけでもなければ、目の前の存在を本当に神だと信じているわけでもないのに、神が淹れたと言われただけで、飲まねばならぬ気になったのである。それに、自分は死んだであろうから、もしかすると、茶を飲むのはこれが最後かもしれない。そのような思いも生まれたのだ。女は湯飲みに手を伸ばした。触れた指が、じわりと痛んだ。単純に熱かった。器ですらこの熱さ。中身もちっとも冷めていないに違いない。慎重に口に運んだ。少し、唇を湿らす程度に含む。成程、茶である。慣れ親しんだ味だった。

「熱いです」

「神なので」

 全く意味は分からないが、恐らく冷めないと言いたいのだろう。寧ろ飲みにくいな、と、思った。多少冷めた方が飲みやすい。

「それで、誰があなたをこんな目に遭わせているか、と、言う話ですが」

「滅茶苦茶突然本題に戻るじゃないですか」

「もっと寄り道したければ幾らでもお付き合いしますけど」

「すみません、どうぞ続けて下さい」

 うっかり口を開くと余計な茶々を入れてしまいそうだったので、再度湯飲みに口を付けた。熱い。

「下位種の仕業です」

「それって、結局神の世界の民って事ですか」

「そうですね」

「えっ? 何のために?」

「異世界人の魂を利用して、何やら企んでいるようですね」

「へえ、魂を」

 魂かあ。平然と繰り返してみせたが、魂って何だっけ。等と思っていた。日常生活で余り耳にしない単語である。魂って何? 人間て何、に匹敵するくらい訳の分からない言葉だった。その何も分からない中、一つ重要な事に異世界人は気付いたのだ。

「魂って事は、肉体は要らないって事ですか」

「そうですね」

「殺されたって事ですか」

「正確には、殺そうとした、ですね」

「成程……えっ?」

 咄嗟に聞き返す声が出た。気付いたのだ。神は言う。殺そうとした、のだと。つまり、殺してはいないという事である。女は両手を見た。動いている。それはそうだ。今初めて動いたわけではない。だが、生きている実感を持って動かしたのは、今が最初だった。異世界人は己が死んだと思っていた。故に、動くこの身体は実体ではないと認識していたのだ。だが神の言葉を考えれば、これは元々の異世界人の身体なのかもしれない。つまり、トラック転生だと判断していたが、トラック転移の可能性がある。何方にせよ異世界案件であることに変わりはなかった。

 結局、何一つ解決はしていないのだ。

「私は、生きているんですか神」

「死にたかったのですか?」

「いえ、そう言うわけではなく、神が助けた?」

「崇めて貰っていいですよ」

「どうやって?」

「えっ?」

 神がきょとんとした顔をした。神の癖に、表情豊かである。少なくとも異世界人は訝しんだのだ。異世界人の中の神とは、もっとこう超越した生き物だったのである。所謂全知全能系の。だがこうして話していても、全く神と言う感じはしなかった。そもそも、下位種が神と呼ぶから神、と、言うくらいである。恐らく、人なのだ。普通より凄い人、くらいの位置づけに違いないのである。ただ、その凄い、のレベルがとんでもないのだろう。だから単純に気になって聞いてみたのだが、神にすれば想定外の質問だったに違いない。眉根を寄せ、暫し口を閉ざしたのである。

「まあこう、なんやかんやあってなんやかんやあったんですよ」

「諦めないで!?」

 暫しの後に神の口から出た言葉は投げやりであった。思わず有名な台詞が異世界人の口を突いて出た。通じるかどうかは別として突っ込んだわけである。神は微妙な表情を浮かべていた。

「だって、説明したってあなたに出来る事でもないですし」

「そりゃそうでしょうけど、じゃあ、なんで私を助けたんですか」

「気紛れです」

「そんな適当な」

「神って気紛れじゃないですか」

「神の事なんざ知りませんよ」

「今知ったじゃないですか」

 ああ言えばこう言うタイプの神であったが、逆を言えば単なる異世界人の話に付き合ってくれる気の良い神とも言えた。だから結局、人に近いのだろう。

「異世界人、帰りたくはないんですか?」

「帰れるんですか?」

「生きてますからね。それともわたしと死ぬまでここでお茶します?」

「全く心が揺らがないナンパですね」

「あら、ざあんねん」

 ちっとも心残りを感じさせない口調だった。寧ろ至極どうでもいいと思っているような。それはそうだろう。お互い、何の思い入れもないのだ。ただ、異世界人にすれば、別の世界には神と呼ばれる生き物が確かにいて、こんな風にコミュニケーションが取れる事が分かっただけ、収穫と呼べるのかも知れなかった。尤も、誰にも言えない話ではある。頭がおかしくなったと思われるだろう。現に異世界人本人も、頭がおかしくなった可能性を否定できないのだ。果たしてこれは、現実だろうか。本当は、死に掛けに見る夢の類なのではないだろうか。だが、目の前の神は、確かに生きていると言ったのだ。今はそれを、信じるしかなかった。

 神がもう一度、急須を手にした。そうして、もう一度湯飲みに注いだのだ。ほとんど減っていない、異世界人の湯飲みにも。これがどういう意味かは分かる。きっと、最後に一杯くらい飲んでいきなさいよ、と、そう言っているのだろう。神と異世界人。普通に生きていれば二度と会う事のない相手である。別段話す事も無いならば、顔を突き合わせて茶位飲もう。

 でもやっぱり、熱かった。

「あのですね、神。もう少し温くても良くありません?」

「八十度くらいがいいんでしょ?」

「いや、冷めるんすよ普通」

「男女の関係みたいですね」

「そこはずっと熱々でもいいんですけど」

 普通はこうして話していればその間に多少なりとも冷めるのだが、神が淹れた茶は一向に冷めなかった。結局ちびちび飲むしかないのだ。救いは、湯飲みが小さかった事である。漸く飲み切り、静かに卓袱台の上に器を置いた。何方ともなく顔を見合わせ、口角を上げた。

「さようなら、異世界人」

「さよなら、神」

 出会いが唐突であれば、別れも則ったようであった。 


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