〈8-2〉それだけ必死なんだろ
「なんで動けるんだよ……!」
目の前の状況に、ノエはヒクリと頬を引き攣らせた。身体が動かせない。少しでも動けば腹に鋭い痛みが走る。
その痛みの原因を目で追えば、密着するほど近くにいる壱政との間に刃が見えた。その刃は壁とノエを縫い付け、更に壱政の腹を通ってその腰へと抜けている。
壱政が自分ごとこの身を刀で突き刺したのだ。ノエは状況を理解すると、「本当にお前らぶっ飛んでんな」と忌々しげに壱政を見下ろした。
「混線させたのか……だからって普通こんなことするかよ」
この状況を説明できるものを思い出し、ノエの顔が苦々しく歪む。
紫眼によって相手に出せる命令には数に限りがない。一人がいくつも仕込むことも、複数の者がそれぞれ異なる命令を複数出すこともできる。
ただしその中に相反する命令がある場合は別だった。同時に実行しなければならない命令が真逆のものだった場合、脳が処理しきれず一時的に全ての命令が無効になるのだ。
それが混線。混線後は強い命令から順次処理されるせいでほんの僅かな時間だけしか起こらないが、この時だけはどんな命令を受けていても自由になれる。
そしてその一瞬でこんなことをしてきたということは、壱政はそれを想定して準備していたということだ。
混線を意図的に起こすためには、自分の出した〝通せ〟とは相反する命令を事前に受けていなければならない――ノエはその事実に気持ち悪さを感じると、その感情を隠すことなく眉をひそめた。
「このためにクラトスあたりに命令をもらってたってことか。お前いいのかよ、それで」
「序列上位の者と戦うなら当然の備えだ」
「これだから戦争に参加してた連中は……命令の打ち消し方が暴力的というかなんというか……」
紫眼による命令は、続行不可能な状態になれば解除される。脳が混乱して命令自体を処理できなくなるからだ。
だから壱政は混線で自由を得た隙に己の身体を壁に縫い付けたのだ。〝通せ〟という命令が再び有効になっても、身体の自由が効かなければその命令が実行できないから。
よく見れば、壱政は自身の左手も腹に当てて刀による串刺しに巻き込んでいた。その上で片腕では引き抜けないように刀を刺しているのだから、相当捨て身の対応だろう。
ノエは改めて眉間に力を入れると、うんざりしたように溜息を吐き出した。
「つーかお前と真正面から抱き合ってるって嫌なんだけど。自分で抜けないなら俺がやっていい? そしたら俺の血身体に入ってお前死ぬけどさ」
無駄に殺しはしたくないが、仕方がない。このままでほたるの元に行けない。壱政の仕事が自分の足止めならば、自分が躊躇すればするほど相手にとっては好都合なのだ。
そう思って、ノエが壱政の腰に刺さる刀の柄に手を伸ばそうとした時だった。
「俺だって嫌に決まってるだろ」
壱政の手が先に柄に触れた。とは言っても、彼に届くのはその柄に結ばれていた紐だけだ。その紐を思い切り引き抜けば、その衝撃でノエの腹にまで痛みが襲った。「ッ、お前何やって……!」ノエが腹の刀を押さえると同時に、カランカランと何かが落ちる音がした。柄が外れたのだ。すかさず壱政が顕になった刀の茎の方へ、ズズズ、と体を動かす。
湿った音が止んだ時にはもう壱政は完全な自由になっていて、ノエだけが壁に刀ごと取り残されていた。
「はァー……そうなってんの、刀って」
「残念だったな、俺が死ななくて」
「いいよ別に、殺したいワケじゃねェし。ていうかこれそうやって抜けるのと刀へし折るの、どっちの方が痛くない?」
「そこでじっとしてろ」
面倒臭そうに壱政が言う。そんな彼にノエは「やなこった」と笑うと、壱政と同じように身体を動かして一気に刀の拘束から抜けた。
その勢いのまま目指すは、先程まで壱政が塞いでいた方角。馬鹿正直に戦ってやるものかと足を動かす。だがすぐに気付いた壱政が回り込み、鋭い爪を持った手をノエに伸ばした。
「あァもうしつこい!」
ノエが苛立った声を上げる。瞳を紫に染める。その目で既に回復した相手の目を見ようとした時、壱政が爪で自らの両目を潰した。
「だから怖いんだよお前ら……!」
迷いの一切ない行動。いくら吸血鬼といえど、ここまで躊躇いなく自分の身体を傷付けられる者はそう多くない。常軌を逸しているとも取れる行為にノエがたじろぐと、その隙を突いて壱政がノエを壁に向かって投げつけた。
「っ……お前人のこと投げすぎだろ……」
石の壁にヒビが入る。ノエの身体からも、骨の砕ける音がした。投げられる前にその手を避けることもできず、更には受け身すらまともに取らせてくれない相手の速さに嫌気が差す。
何故自分はこんなに頑張っているんだと辟易しかけて、しかしすぐに目的を思い出した。
「いい加減行かせろよ」
「断る」
「お前だってしんどいんじゃねェの? 強制的に命令無効にするってめちゃくちゃ負担かかるだろ」
「そういうお前の方こそ回復のための時間稼ぎか? 俺は別に構わないが」
ノエに答える壱政は相変わらず無表情だった。だが、その顔色はかなり悪い。
当然だ――ノエは壱政を見ながら顔をしかめた。混線によって一時的に全ての命令が無効になるのは、そうしないとその人物が壊れるからだ。
例えば右腕と左腕を同時にそれぞれの方向から強い力で引っ張られれば、その腕は両方ともちぎれてしまう。混線はそうならないように腕にかかっている力を止めるだけ。そして壱政がしたのは、引っ張られる力が止まっているうちに片方の腕を切り落としたのと同じ。
それが頭の中で起こったのだから、彼は今意識を保っていることすら難しいはずだ。聞いたところによれば、誰もが口を揃えて二度とやりたくないと言うほどの強い頭痛と吐き気に襲われるらしい。
それは壱政とて例外ではないだろう。ただ表情に出ていないだけで、実際は相当苦しいに違いない。
それなのに、自分の足止めをやめない――その意味を改めて考えて、ノエは不可解そうに眉間に皺を寄せた。
「お前ら俺を止めて何がしたいんだよ。殺すワケでも、追い払うワケでもない……俺を何かに使う気か」
「らしいな。お前があの場に居合わせることに意味があるそうだ」
「あの場……?」
一体何のことだ――必死に思考を巡らせる。これが分からないままほたるの元に行けば、もしかしたら彼女を逃がすことに影響が出るかもしれない。
だが、分からない。クラトスが自分を誘き寄せる理由など。
ほたるはそのためだけの餌なのだろうか。いや、違う。クラトスにとってはほたるの方が価値があるはずだ。何故なら彼女はスヴァインの子で、クラトスはスヴァインと手を組んでいた。スヴァインへの手土産としてほたるを連れ去ることは全く以て不思議ではない。
だがそこに、自分が必要な理由が分からない。スヴァインが自分のことも殺したがっているのかもしれないが、だとしてもこうして時間を調整する必要はない。それが必要になるのは、すぐに来られたら困る理由があるから。
つまり、ほたるはスヴァインへの贈り物ではない。
それ以外で彼女を生きたまま攫って、この数時間の間にできることは――浮かんだのは、少し前に可能性が低いと振り払った考えだった。
「ほたるの種子を発芽させる気か……!」
そして吸血鬼となった彼女を、自分と会わせる。ほたるはもう種子持ちではなくなったと、序列第二位の存在をクラトス達が得たと、自分とエルシーに示すために。
クラトスは、ほたるを己の道具にするつもりだ。
「ッ、それだけはやめろ!」
答えが出た瞬間、ノエは壱政を無視してほたるの元へ走り出した。
ほたるを吸血鬼にしてはならない。彼女は人間のままでいなければならない。吸血鬼となって、ノストノクスと敵対する男の側になるなど絶対にあってはならない。
だがそんなノエに立ちはだかるように、壱政が彼の前へと回り込んだ。
「だから邪魔なんだよ!!」
ノエの爪が腕を切り裂く。壱政ではなく、ノエ自身の。そうして傷のできた腕を大きく振って己の血を撒き散らせば、壱政は咄嗟にその場から飛び退いた。
直後、ノエの姿が消えた。一瞬にして消えたのは、彼が身体の形を手放したから。
「…………」
黒い残滓の残るそこを見て、壱政は驚いたように血の流れる目を見開いた。止められなかったのは、やるはずがないと思っていたからだ。できないように深手を負わせたのに、ノエは迷うことなく影となってほたるの元へと向かった。
自分の知る彼らしからぬ行動に壱政が目を細めた時、コツ、と物陰から小さな足音がした。
「――うわ、痛そう……」
物陰から現れたのは若い女だった。日本人らしい顔立ちで、壱政と同じく現代的な服装をしている。
壱政は女を一瞥すると、「何しに来た」と機嫌悪そうに問いかけた。
「壱政様が伸びてるかもしれないから回収して来いって、麗様が。やっぱり無理矢理命令キャンセルしたんですか? 顔色凄く悪いですよ」
「平気だ」
「痩せ我慢ばっか。それやると死んだ方がマシってくらい頭痛いって知ってますよ。それにノエさんもあんな怪我で影になるってヤバくないですか? 私だったら絶対痛すぎてゲロ吐く……」
うう、と女が自分の肩を抱える。そんな相手を横目に壱政は壁に刺さったままだった刀を引き抜くと、「それだけ必死なんだろ」とどうでも良さそうに言って、床に落ちた柄を拾った。
「追いかけるんですか?」
「いや、指示されていた分は稼いだ。それにこの状態で行っても邪魔になる」
「私が代わりに行きましょうか? 向こうで何やってるのかもよく知らないですけど……誰かの発芽?」
「お前は関わらなくていい」
「どうしてです?」
不思議そうに女が首を傾げる。その問いを受けて壱政はノエが向かった方を見つめると、少しして小さく溜息を吐いた。
「胸糞悪くなるだけだ」