〈7-3〉早く終わらせてしまおうか
「――知らない」
虚ろな目で答えた男に、ノエが「なら寝てろ」と冷たい声で告げる。紫色の瞳に射抜かれた男は途端に崩れ落ちて、床に溜まった埃をぶわりと巻き上げた。
「くそっ……」
ノエの口から悪態がこぼれる。心中にあるのは焦燥、それから後悔。こんなことになるなら多少の危険を冒してでもほたるから離れるべきではなかった。いや、もっと早くに罠だと気付くべきだった。
あの状況では、自分達をノストノクスから炙り出すことが罠だと思っていた。だが違ったのだ。本当の狙いは、自分がほたるから離れること。そうしなければならない状況を作り出すためにわざと群衆をノストノクスの中に雪崩込ませ、そして彼らの目に自分達が触れるように隠し通路を壊れやすくしたのだ。
ほたるはまだきっと、生きている。それは彼女を攫ったのがクラトスの手の者だと確信があるからだ。実際に彼女が最後にいた食糧庫にも争った形跡はなかった。
残っていたのは、小さな薬莢一つ。血の一滴も落ちていなかった。至近距離で撃たれても、それを避けることができる者がほたるを攫ったのだ。
そしてそれは、ほたるが正気のまま意識を奪われたことを意味していた。だからその寿命が縮まったわけではないと、心が蝕まれたわけではないと安心することはできる。だがそんな小さな安心感は、この先に起こるであろうことを考えると塵ほどの価値もない。
「どこに連れてったんだよ……!」
彼女を探して訪れた場所はもう、ここで三箇所目。以前よりクラトスが使っていると調べてあった場所を、ノストノクスから近い順に探している。中にはクラトスがノストノクスに知られていると思っていないものもあるはずだから、探す場所が全くの見当違いということはないはずだ。
だがそれでも、未だにほたるの元に辿り着けないどころか、彼女の居場所を知る者にも出会えない。
時間がない――ノエの中に焦燥が募る。
クラトスがスヴァインと通じていることは分かっている。証拠はなかったが、その証拠を掴むためにエルシーとずっと追っていた。だから彼の従属種が死んだと聞いて、誰よりも早く原因を突き止めようとした。
そうしたら、ほたるが現れたのだ。
誰も存在を知らなかったスヴァインの子。従属種が彼女を襲ったのは偶然だろうが、襲えるほど近くにいたことは偶然ではない。
それを指示したであろうクラトスが、ノストノクスと完全に決裂する危険を冒してまでほたるを連れ出した。
スヴァインにほたるを引き渡すためか。それとも彼女を――
「そんなこと絶対にさせるか……!」
過った考えを必死に追い払う。可能性は低い。だからそこまで心配する必要はない――そう自分に言い聞かせても、一度浮かんだ嫌な考えは完全には消えない。
ノエは残りの候補地を頭に思い浮かべると、黒い霧となって消えた。
§ § §
『――どうする? 神納木ほたる』
その問いにほたるは答えられなかった。けれど、答える必要はなかった。
「決まりだな」
ほたるの顔を見てクラトスが頷く。そしてほたるの背後に目を向けると、「そこに水瓶があるのが分かるか?」と牢に鎮座するそれを示した。
「中には大量の血液が入っている。君のために用意した」
「っ、なんで……」
思わずほたるが後ろを振り返る。視界に映るのは、ずっと傍にあった大きな水瓶。鉄臭さの正体はこれだったのかと、目覚めた時に抱いた疑問の答えを知った。
「他者が種子を発芽させる方法は邪道だと言ったろう? それは親との揉め事の原因になることもそうだが、もう一つ理由がある」
クラトスの声に、ほたるの目が彼の方へと引き戻される。
「他者が無理矢理発芽させることで、吸血鬼として目覚めた後、しばらくの間安定性に欠けるんだ」
「安定性……?」
「食欲の暴走だとでも思ってくれればいい。理性が鈍り、腹が満たされるまで誰彼構わず襲って血を奪ってしまう」
ほたるの頬が引き攣る。自分がそうなるかもしれない――考えるだけで身の毛がよだちそうになる。
「それを防ぐために、そこに十分な食糧を用意した。この牢もそのためだ。この格子に使われている鉄は少し特別でね、太陽光を吸った鉱物が混ぜ込まれている。力尽くで壊せない強度もそうだが、影となって抜け出すこともできない。そんなことをすれば酷く苦しむことになる。まあ、そもそも吸血鬼となったばかりでは影となる感覚を知らないだろうが」
影とは確か、吸血鬼達が移動する時に取る姿だったろうか――ほたるはぼんやりと思い出したが、そんなことはどうでもよかった。
いよいよ自分は人間ではなくなるのだという実感が、胸に迫ってきていたから。
「この中にいれば誰も襲わない。ここで十分な食事を摂ればすぐにその症状も落ち着く。だから何も心配することはない」
クラトスの言葉がほたるから思考を奪う。ノエの望みを無視することになる後ろめたさだとか、これは全て真実を知るために必要な手段なのだと思いたがる傲慢さだとか。そういった自分の嫌な部分から目を逸らしたくて、ただただよく知らない男の言葉にのみ耳を傾ける。
「蓋を開けてくれるか? うまく開けられず全て零してしまったら君が苦しむことになるから」
「……そんな簡単なこともできなくなるの?」
「一時的だ。それに記憶もほとんど残らない。酒に酔っている時と同じようなもの……と言っても、君にはまだ分からないか」
それはほたるを嘲笑するような響きではなかった。むしろ子供を可愛がるような、そんな雰囲気を感じる。だからほたるは素直に水瓶に近付くと、口にきっちりと嵌まった蓋に手を伸ばした。
真ん中にある取手を掴み、少し捻るように力を加えながら上へと引き上げる。するとポンッという音と共に蓋が開いて、途端に強い血液の匂いがほたるの鼻腔を襲った。
「っ……」
噎せ返るような匂いだった。学校の鉄棒を触った直後の手だってここまで強く鉄臭さは発しない。
この血は一体、何の血だろう――ふと疑問に思うと同時に一気に嫌悪感が襲ってきて、ほたるは慌てて手で口を塞いだ。
「早く終わらせてしまおうか。いつまでも気分が悪いのは嫌だろう?」
こんなもの飲めるはずがない。やっぱりやめてしまいたい。
そう言おうとしてクラトスの方を向いたほたるだったが、同時に飛び込んできた光景に目を疑った。
「何やって……!」
牢の外でクラトスが自分の腕をナイフで切りつけていたのだ。それも、かなり深く。そんなに深く切ってしまえば骨まで達してしまうのではないかとほたるは全身を粟立たせたが、当のクラトス本人は落ち着いた様子で「必要なことだ」と答えた。
「我々にとっては同じ吸血鬼の血が一番栄養価が高くてね、それを種子に食わせることで発芽を促すことができる。親の時も同じだ。ただ必要な量が変わるのと、序列の高さには注意しなければならないが……」
言いながらクラトスが牢の中に腕を入れる。そこからぽたぽたと滴り落ちる血が、ほたるの身体を竦ませる。
「君はスヴァインの子だ。転化してもアイリスと彼以外、誰の血も毒にはならない」
それは恐らく、ほたるを安心させるために言ったのだろう。そうと分かっても、ほたるはその腕に近付くことができなかった。
「早く飲みなさい。傷が塞がってしまう」
「っ……」
「失礼するよ」
その声と同時にクラトスがほたるの腕を掴んだ。「嫌……!」小さな悲鳴を上げるほたるを自分の方へと引き寄せて、反対の手で後頭部を持つ。そうして改めて腕を掴んでいた方の手をほたるの口の前に差し出すと、「嫌なのは最初だけだ」とそれまでと変わらない、優しい声で言った。
だが、それには何の意味もなかった。
嫌だ。怖い。気持ち悪い――自分の置かれた状況に、ほたるの身体がカタカタと震え出す。
「大丈夫、すぐに美味いと感じるようになる」
クラトスがほたるの頭を押さえつける。「ッ……」強い力に抗うこともできず、ほたるの口がその傷に触れる。唇に力を入れて耐えようとしたが、更に強い力が頭からかかるせいでほたるはたまらず口を開けた。そうしないと唇の裏側に自分の歯が刺さってどうしても痛みに耐えられなかったのだ。
「んぐっ……」
喉から胃液がこみ上げる。けれど吐き出せない。口が塞がっている。ほたる自身も吐きたくなくて咄嗟に飲み下そうと喉を動かせば、口の中に入ってしまっていた血液が唾液と混ざって胃へと送られていった。
ほたるがその事実に気付いたのは、自分の舌が勝手に動き出した後。傷口の血を舐め取るように、抉り出すように。舌が勝手に動いて、喉がこくりこくりとそれを飲み込むから。
頭がぼうっとする。自分の行動が止められない。気持ち悪いと思っていたのに、もっともっとと傷口に吸い付く。
「ここまで進行していたのか。なら早く済みそうだ」
紫色に染まった視界でそんな声を聞いたが、ほたるにはもう何も考えられなかった。