〈7-2〉だったら幻覚かもしれない
『スヴァインに君の保護を頼まれていたからだ。君の、父親に』
クラトスの言っていることは、ほたるにはよく分からなかった。何故ならそれは、ほたるの知るスヴァインの行動とは合わないからだ。
「嘘……だって、あの人は……私をっ……」
「君を?」
「……こ、殺そうとして……っ」
口に出した途端、実感がほたるの胸に突き刺さった。そう、スヴァインは――父は自分を殺そうとしたのだ。もうとっくに理解していたことなのに、改めて口にするとこんなにも苦しい。
だからほたるはうんと顔を歪ませたのに、彼女を見るクラトスは相変わらず落ち着いた様子で「本当にそうか?」と疑うような問いを口にした。
「もし彼が本気だったなら、君は今ここにはいない」
「それはノエが……ノエが、助けてくれて……」
「ノエは助けさせてもらったんだろう。でなければ奴もとっくに死んでいる」
断言する口調だった。その言葉の強さが、ほたるの胸の痛みを少しだけ和らげる。
「殺すふりだったってこと……?」
「恐らくは」
「なんでそんな……!」
「それは私にも分からない。私が知っているのは、スヴァインは確かに君を守ろうとしていたことだけだ。そして……ノエ達がそれを台無しにした」
クラトスの声がほたるの頭の中にするりと入り込む。あの父の振る舞いは嘘だったのだと、自分を嫌っているように見えていた行動すら事実とは違っていたのかもしれないと、ほたるの中に希望を生む。
けれどそれは一方でノエ達を貶めた。だから希望を得ても、すぐに縋り付くことができなかった。
「こんなふうに存在を公表されてしまっては、君はもう安全に生きていけない。たとえその身の種子がなくなろうと、スヴァインへの手がかりとして多くの吸血鬼達に追われ続けるだろう。そしてただの人間となった君をノストノクスは絶対に守らない。種子持ちでなければ処分することはないだろうが、それでも記憶を消すことで関係を完全に絶ったとするのがノストノクスのやり方だからだ」
それはノエから聞いていた話と同じで、けれど確実に違った。種子さえ取り除けば元の生活に戻れると彼は言っていたのに。その先にはもう、命の危険はないと思っていたのに。
「でも……ノエは……わ、私を守ってくれるって……仕事じゃなくなっても、生きられるように付き合ってくれるって……」
そうだ、ノエは自分を生かそうとしてくれている。約束してくれている。あんなことがあってもその言葉だけは信じられているのだ。ずっとずっと疑い続けて、彼を信じる気持ちを拒み続けて。それでもノエがこの命を守ろうしてくれていることだけは、彼が自分と交わした約束だけは信じられていたのだ。
だから、ノエのことは疑いたくない。クラトスがいくらそれは嘘だというようなことを言っても、きっと間違っているのは彼の方なのだ。ノエのことをもう信じられないと思っていても、それはあくまで離れられるのが怖いだけで、ノエ自身のことを本気で疑えているわけではないから。
それなのに、クラトスは憐れむような目をほたるに向けた。
「可哀想に。あの男に心を囚われたか」
その悲痛な表情が、ほたるの心をざわつかせる。信じたのは間違いだったのだと囁きかけてくる。
「奴は他人の心に入り込むのが異様に上手い。自分に強い敵意と警戒心を抱いていた者の心さえ解き、己に心酔させることができる。そして不要となれば、それまでの態度を覆し簡単に裏切る」
「っ……」
ほたるの息が詰まる。自分のことを言われているのかと思った。今の自分の状況と、そして未来に待ち受ける仕打ちを。
「私が思うに、ああいう奴は誰のことも信用しない。仲間だと思わない。その口から出るのは全て自分を信用させるためだけの言葉だ。そこに心は伴わない」
クラトスの言葉が、ほたるの記憶を刺激する。
『俺は誰のことも仲間だと思ってないよ』
確かにノエははっきりと言った。クラトスが言うことは間違いではないと。ならば――
『その口から出るのは全て自分を信用させるためだけの言葉だ。そこに心は伴わない』
これも事実なのではないか?
愕然としたほたるに、「守ってやれなくてすまない」とクラトスが申し訳なさそうな顔をした。
「もしかしたらスヴァインは、ノストノクスが君への興味を失うようにしたかったのかもしれないな。執行官の前で君が自分にとって無価値だと示そうとしたのかも……」
「けど、あの人は……お母さんを……っ」
殺した――口にできなくて言葉を止めれば、クラトスは記憶を辿るように視線を落とした。
「澪、だったか?」
「お母さんを知ってるの……?」
「名前だけはな。スヴァインは彼女を私と関わらせようとはしなかった。まあ、あれだけ愛していれば当然だ」
クラトスは納得したように言ったが、それを聞いた瞬間、ほたるの中から悲しみと怒りが溢れ出した。
「じゃあなんでスヴァインはお母さんを殺したの!?」
今しがた口に出せなかった言葉を、怒りが勢い良く押し出す。他者がそう思うほど父は母を愛していたのに何故あんなことをしたのか。自分のことは芝居だったとしても、母のことは間違いなく実際に起こったことだ。
悲しみと怒りと、混乱と。それらが綯い交ぜになった激情が、ほたるの体温を上げる。
「殺したのか?」
「ッ、そう言ってるでしょ!? 私とノエの目の前で! あの人はお母さんを食い殺したの!!」
ほたるが力いっぱいに叫べば、クラトスは考えるように口元に指を当てた。瞼を伏せ、しばし沈黙する。そしてその目をほたるに戻すと、「有り得ない」と首を振った。
「それでも実際にあったことなの! 私だって信じたくないけど……でもっ……」
「遺体に触れたか?」
「……触ってない、けど」
ほたるの勢いがしぼむ。遺体という単語と、それに触れていないという事実が、ほたるの怒りの熱を下げる。
そうだ、私はお母さんに別れすら言えていない――思い出して、引いていったはずの熱が目元に集まった。
「だったら幻覚かもしれない」
「え……?」
ぼやけた視界にクラトスの真剣な顔が映る。彼の発した言葉の意味が、今にも零れ落ちそうだったほたるの涙を堰き止める。
「スヴァインならば可能だ。君を守る種子は彼のもの――彼の幻覚からは守らない。そしてノエは彼より序列が低い。ならば二人して嘘の記憶を埋め込まれた可能性がある」
「なんで……」
「分からないが、母親が死んだと決めつけるのは早計だ」
ほたるは全身に鳥肌が立ったのを感じた。けれど不快ではない。嫌なことがあったわけではない。
これは歓喜だ。クラトスの言葉を理解して、ほたる自身が考え反応する前に身体が喜びに震えたのだ。
「お母さんが、生きてるの……?」
「十分に有り得る」
力強くクラトスが頷く。ほたるの目が大きく見開かれる。
母が、生きている。死んでしまったと思った母が生きている。
その希望はほたるの目に溜まっていた涙を溢れさせた。悲痛ではなく、喜びの涙を。
けれどほたるは、喜びに浸ってばかりはいられなかった。
「だから問題は、君の命の方だ」
「っ……」
クラトスの声がほたるを現実に引き戻す。母が生きている。ならば自分には、生きる理由がある。
それなのにこのままでは、一ヶ月も生きていられない――絶望したほたるを代弁するように、クラトスが「母親が生きていても、君が死に瀕していたら意味がない」とはっきりと告げた。
「でも……スヴァインがいなきゃ……」
「確かにノストノクスの監視を掻い潜って会いに来るのは難しいだろう。だが問題ない。私に君の中の種子を取り除くことはできないが、発芽させることならできる」
「……秘密じゃないの?」
「秘匿されていることは事実だ。何せ我々は種子を与えた相手に強い執着を持っていることが多い。愛し子なら尚更な。そんな相手が他人の力で生まれ変わるなど、想像するだけでも耐え難い。だから昔はそれで諍いが起こることがあったんだ。そのせいで邪道として封印されることになったが、私はそれ以前から生きているから知っている。何度かやったこともある」
淡々と、しかし安心させるようにクラトスが力強く説明する。
「私は保護を頼まれている身だから、この状況では仕方なかったとスヴァインも納得するだろう」
ほたるの中に微かにあった不安を、その声が払拭する。
それで説明が終わったのか、クラトスは「まだ何か心配が?」とほたるに寄り添うように問いかけた。その問いに、ほたるの頭の中にノエの姿が過る。
自分を騙していたかもしれない人。クラトスを信じるならば、同時に見限らなければならない人。
どちらもは、きっと取れない。ノエを信じたら今度はクラトスを疑わなければならなくなるから。
父が自分を守ろうとしていたこと。母が生きているかもしれないこと。彼にもたらされたそれらの希望を捨てなければならなくなる。
けれどどうしても、ノエを疑いきれない。全てが嘘だったと思いたくない。
「ノエは……人間のままでいてって……」
そう言ってきたノエは、本心を話しているように見えたから。まだ彼を信じていなかった時でさえ、これは本当だと思えたことだから。
だがクラトスの険しい表情が、そんなほたるの心を翳らせた。
「……君に吸血鬼になられたら困るからだろう。君はスヴァインの子だ。さっきも言ったが、吸血鬼と成れば君はスヴァインに次ぐ序列を持つことになる。アイリスの系譜で言うと第二位……それは、君以外にいない。現在の序列最上位は私も含め第三位だからだ。勿論、スヴァインやアイリスは例外だが」
だからノストノクスは自分を受け入れない――聞いたばかりの情報が、ほたるの脳裏に蘇る。
「ノエは体制側だ。万が一にでも君がその力を得ないように、奴は君が吸血鬼となることを厭うように仕向けていたはずだ」
「っ……」
それは、ノエのあの言葉が嘘だったと。本心に見えたことすら演技だったと示すかのようだった。
ならば自分が信じたノエは全て偽物で。だから信じることは間違いで。信じようとするこの気持ちすらも、彼に誘導されたもので。
そんなことをするノエは、やはり父と同じなのではないか。クラトスの言うとおり相手を己に心酔させて、そしてある時突然、手のひらを返す――何よりも恐れていたことを、平気でやる人なのではないか。
そんな人を、希望と天秤にかけてまで信じようとする意味はある?
失望が、恐怖が、ノエを信じようとしていた気持ちを弱らせる。
「本当に全部、嘘だったの……?」
「ああ」
「けど……」
「本人の口から聞かなければ信じられないか?」
問われて、そうだ、とほたるは気が付いた。ノエの口から聞きたい。こんなよく知らない人の話ではなくて、ノエの言葉を聞きたい。彼の中に一つでも〝本物〟を見つけたい。
……たとえそれが、クラトスの話を肯定する内容であっても。
ほたるがおずおずと頷けば、クラトスは「ならば尚更今のままではいけない」と真っ直ぐにほたるを見つめた。
「奴に嘘偽りなく答えさせるためには、君は奴よりも強い力を得なければならない」
「ノエを……操れってこと……?」
そんなのは違う。そんなことはしたくない――顔を強張らせたほたるに、クラトスがゆっくりと首を振る。
「そこまでしなくてもいい。上位の者が相手なら、流石の奴でも下手な嘘は吐けない」
だから真実を聞きたければ、力を得る必要がある。
明言されずとも浮かんだそれに、ほたるの息が止まる。
「どうする? 神納木ほたる」
その声が、ほたるの心を決めた。