〈7-1〉知ったところで意味はない
ほたるは目を覚ますと、横たわったまま、またか、と溜息を吐き出した。
ここは牢屋だ。一ヶ月にも満たない短い間に三回も牢に入れられるなんて、呆れを通り越して笑いたくなってくる。
広さは、これまでの二回に比べると一番狭い。しかも隅に大きな水瓶らしきものがある。上の口が広い、樽のような形の水瓶だ。蓋はしっかりと閉まっているようで、中身が何かは分からない。そんな、ほたるでも中にすっぽりと収まってしまいそうなくらいに大きな異物が幅を取っているから、余計に牢の中が狭く感じた。
それに妙に鉄臭いのも嫌だった。見たところ周囲にそれらしき汚れはないから、この鉄格子が臭いのだろうか――そう思いながらほたるがやっと身体を起こした時、「目が覚めたか」と近くから声が聞こえてきた。
「壱政、さん……」
牢の外に立っていたのは壱政だった。壁に背を預け、手には読みかけらしき本を持っている。
「ここ、どこですか」
「知ったところで意味はない」
「っ……なんで私を……」
「俺は命令に従っただけだ」
「命令……?」
ほたるが訝しげに返すと、壱政はやっとパタンと本を閉じた。けれど彼が目を向けたのはほたるではない。彼女とは反対側の暗闇だ。
一体何があるのかとほたるは疑問に思ったが、その答えはすぐに現れた。
「時間通りだな。お前の読みはいつも正確で助かる」
「いえ」
暗闇から現れたのは男だった。ほたるにも見覚えのある男だ。たった一度見ただけだが、しっかりと覚えている。そして、その名前も。
「……クラトス」
ほたるが呟けば、クラトスは柔和な笑みを浮かべた。
「私を知ってくれているのか。嬉しいよ」
「…………」
相手から敵意は感じられなかった。それが、ほたるの頭を混乱させる。ノエからはクラトスやその配下は自分を恨んでいるかもしれないと聞いている。何故なら自分の存在がきっかけでクラトスはノストノクスから遠ざけられたからだ。
だから壱政のことも警戒した。それに彼に攫われここに閉じ込められているという状況も、ノエの話と相違ないと思える。けれどクラトスのこの態度だけが、ほたるの理解とは違っていた。
「俺は外にいます」
壱政が声をかけた相手はクラトスだった。片手には本、そしてもう片方の手にはそれまで壁に立てかけてあったらしい棒のようなものを持っている。
あれはなんだろうと無意識のうちにほたるはじっと見て、すぐにその正体に思い当たった。
刀だ――テレビや教科書でしか見たことのないそれに、ほたるの喉がこくりと動く。銃だの日本刀だの、これまで見たことのなかった武器を目にしている状況が恐ろしい。それだけ何かおかしなことが起きているのだと、どれだけ目を逸らそうとほたるに訴えかけてくるからだ。
「もう少しいても構わないぞ?」
クラトスが意外そうに問う。しかし壱政はやはり表情を変えず、「時間の問題だと思うので」と短く答えた。
「過大評価では?」
「なら俺が暇になるだけです」
その会話の意味はほたるには分からなかった。そもそも何故彼らが日本語で話すのか分からない。壱政は確かに日本人だが、クラトスは明らかに違うのだ。壱政が日本語しか話せないのならまだしも、そうではないということは知っている。それなのに普段使う言語ではなく自分にも分かる言葉で話すのは、まるでこちらに聞かせようとしているかのよう。
思い出すのは、ソロモン達のこと。彼らは最初自分達の言葉で話していたのに、途中で日本語に切り替えてきた。だがそれは善意の行動ではなく、悪意によるものだ。こちらを怯えさせるために、彼らはわざわざ日本語で話してきた。
だからきっと、クラトスもそうなのだろう。ならばただ怯えているだけでは駄目だと、ほたるは必死にクラトス達の会話の意味を考えようとした。
……だが、分からなかった。二人の話しぶりで考えようにも、そこで会話が終わってしまったからだ。
会話を終えた壱政が暗闇に歩いていくと、微かにキィ、とドアのような音がした。恐らくその先が出口なのだろうとほたるにも分かったが、しかし牢の中にいる以上、知ったところであまり意味はない。
「あなたが、ここに私を……?」
自分の近くに残った相手に問いかける。答えてくれるかは分からなかったが、何もしないよりはいいはずだ。
そう思ってほたるが目元に力を入れると、彼女の問いを聞いたクラトスは「ああ」と頷いて、申し訳なさそうに眉尻を下げた。全く悪意を感じさせないその姿に、ほたるの虚勢がほんの少し、力を弱める。
「手荒な真似をしてすまないね。何せ君は私を覚えていないだろうから」
「あなたを……?」
それは、裁判のことを指しているわけではないように感じた。かと言って何の話かはほたるには見当もつかなかった。覚えていないと言うからには以前会ったことがあるのだろうが、ほたるにはあの裁判の日よりも以前にクラトスに会った記憶などなかったからだ。
「本来ならこんな牢ではなく、もっと綺麗な場所で君をもてなしたかった。ただこれからすることを考えると、どちらにせよ牢が必要になる。くつろげる場所に連れていけるのはその後だ」
そう語るクラトスからは、やはり敵意は感じられなかった。どちらかと言うと思いやりや、親愛に近いものを感じる。
だからだろうか、いつの間にかほたるから緊張が消えていた。この人は自分を傷つけることはしないのではと、警戒心すらも緩んでいくのを感じる。そんなことでは駄目だと己を叱咤していないと、彼を警戒し続けられない。
「これからすること……?」
相手の態度を疑うようにほたるが問えば、クラトスが少し真剣な表情を作った。
「君は、残りの寿命はどれくらいだと聞いている?」
「……長くて半年。でも、裁判をした頃の話だから……」
ほたるが素直に答えたのは、知られても困らないと思ったからだ。知られたところで状況は変わらないし、それに少なくとも相手に敵意はない。
だからほたるはあまり気張らずに口を動かしたが、その答えを聞いたクラトスの眉間には力が入った。
「一月だ」
「え?」
「今の君は、どれだけあがいても一月も持たない」
「…………」
クラトスの言葉にほたるは何も反応できなかった。
短い、とは思う。けれどとうに生きることは諦めてしまった。今すぐにでも殺されるという目にも遭ってしまった。死への恐怖は勿論あるが、そこに現実感が伴わない。
短いとも思うし、意外と長いとも思える。一ヶ月も生きられないことは確かにほたるの身体を強張らせたが、同時に今更だという気持ちが、動揺しそうになるほたるを宥めるのだ。
「君に寿命を教えたのはノエか」
クラトスの声は、暗かった。まるで憐れまれているようなその声が、「……だったら何」とほたるの気持ちを尖らせる。
「奴も酷なことをする。死を目前にした者に、嘘の寿命を教えるなんて」
「嘘……?」
何の話だろう――考えて、ほたるは自分の言葉が足りなかったことに気が付いた。
「嘘は吐かれてない。半年って裁判の頃だって言ったでしょ。それにその時に短ければ三ヶ月だとも聞いてる。今は確かに一ヶ月しかないかもしれないけど、それはここ最近で急に進んだからで……」
だからノエは嘘なんて吐いていない。そう主張するようにほたるは説明したが、クラトスの表情は晴れなかった。
「それが嘘だと言っているんだ。君は壱政の前で種子に守られたそうだね? その時点で君の寿命はどれだけ長く見積もっても三ヶ月もなかったんだよ。壱政はそれをあの場でノエに伝えている」
だから、ノエが嘘を吐いていたと。クラトスが言いたいことはほたるにも分かったが、信じることはできなかった。信じたくなかった。「そんなはず……」思わずこぼせば、クラトスが「事実だ」と首を振った。
「君に我々の文字が読めるなら、ノストノクスにある記録を全て見せても構わない。種子が宿主を動かせるほどの状態になるのは、どの記録でも死の直前だ。ノエの立場でそれを調べないはずがない」
クラトスが真剣な目でほたるを見つめる。そうされたほたるは、何も言えないまま彼の話を聞き続けるしかなかった。
「平和に生きてきた子供が、突然自分の命はあと三ヶ月もないと言われて怯えないはずがない。怯えが強ければ恐怖から逃れるために自死を選ぶかもしれないし、何も手につかなくなるかもしれない。ノエ達はそれを防ぎたかったんだろう。だが善意からではない。君が自ら協力しないとスヴァインを追えないからだ。だから奴らはあの手この手で君の恐怖を和らげようとしたはずだ」
「それは……でも……スヴァインが見つからないと、私が死ぬからで……」
やっとのことでそれだけ絞り出す。クラトスの話がどこまで事実かは分からない。考えたくない。けれどもし事実だとしても、スヴァインを見つけなければ困るのは自分も同じだったのだ。
だからノエがクラトスの言うような行動を取ってもおかしくはない――そんな希望を込めるようにほたるが発した言葉は、「確かにそうだ」と肯定された。
しかし、頷いたクラトスの表情は険しいまま。
「だがスヴァインが見つかれば、君にはもう用がない」
「っ……」
クラトスの言葉がほたるの胸を締め付ける。そんなことはない、とは言えなかった。ほたるも一度は考えたことがあるからだ。
「ノストノクスは登録のない種子持ちは処分する。君の名前は、未だにそのリストの中にない」
「え……?」
それは、ほたるがノストノクスに登録されていないということ。そこに名前がなければ殺されてしまうのに、助かるためのリストに載せられていないということ。
ほたるの顔から血の気が引く。愕然としたのは、文字通りのその意味よりも。
これだけノエ達と過ごしてきた自分が、その存在を未だに認められていないように感じられたから。
ほかでもないノエに、この存在を認められていないのでは――クラトスの話が示す現実に、ほたるの中で不安が募っていく。
求める人に背を向けられる失望が、悲しみが。
もういらないと命を摘み取られそうになる絶望が。
ほたるの身体を一気に冷たくして、凍えてもいないのに唇を震わせる。
「大罪人の子など生かす価値はない。しかも君が吸血鬼となれば、自動的にスヴァインに次ぐ序列を手に入れることになる。ノクステルナを管理するノストノクスが、自らの擁する序列最上位よりも高い序列の者を受け入れたがるはずがない。そもそもその存在すら不都合なはずだ。全ての者に恨まれる大罪人の子を守れば、それだけで民衆がノストノクスに反発する理由になる」
クラトスの声が、ほたるの震えを大きくする。
「ノストノクスは君を生かさない。勿論、執行官であるノエもそれは同じ」
つまりノエは、自分を助けない。利用し終われば処分する。だからリストに名前がない。そこに名前がなければ、処分するという行為が正当化されるから。
ならば彼がこれまでくれた言葉は、態度は……――その瞬間、ほたるの中で何かが限界を迎えた。
「で、でも! そんなはず……!」
違う。そんなことはない。信じたくない。
あまりに拙いそれらの感情を、うまく言葉にすることができない。
「だから私は君を迎えに行こうとした。ノストノクスに見つかり殺される前に、この手で保護せねばと。執行官を動かすわけにはいかないから従属種を使ったが……様子を見るだけでいいと指示していたのにまさか手を出すとは思わなかった。恐ろしい思いをさせてすまなかったね」
苦々しい顔で謝罪をしながらクラトスが屈む。ほたると同じ高さで目を合わせる。けれど、だからと言ってほたるはその話を受け入れることはできなかった。
「うそ……うそ……」
違う。そんなことはない。信じたくない。
それしか、頭に浮かばない。
「執行官には管轄が決まっている。定期的に交代があるが、君の近くには常に私の系譜の者を置くようにしていた。それなのにあの日君をここに連れてきた執行官はノエだ。自らの管轄でもないのに奴が君の元へ行った。長官であるエルシーの許可を得てな」
理解を拒むほたるに、クラトスがゆっくりと伝える。聞き漏らさないようにほたるの反応を見ながら、そして落ち着かせるように穏やかな声で。
「君の存在は私がこれまでノストノクスから隠してきた。種子持ちであることは間違いないが、その種子が休眠状態ならばそっとしておいてやるべきだと。それをノエ達はスヴァインの首欲しさに手を出したんだ」
何度も繰り返される。ノエ達が、ノストノクスが優先しているのはスヴァインの身柄だけだと。そのためにはほたるの命すら蔑ろにすると。そしてクラトスは、それを反対していた立場だと。
信じたくなくても、受け入れられなくても、ほたるの中で過去のノエ達の行動と繋がる。彼らはあの裁判でクラトスをノストノクスから遠ざけようとした。それは、彼らが対立していたという何よりの証。クラトスの言っていることは嘘ではないのだ。
「なんで……? なんであなたが、そんなこと……」
信じられない。受け入れられない。けれど少しずつ、確実に、ほたるの中に相手の言葉が染み込んでいた。
やっと問いを口にしたほたるにクラトスは優しく微笑みかけると、「当然のことだからだ」と話を再開した。
「私は幼い頃の君と何度か会っている。と言っても、いつも君は眠っていたがね。会いに行くのが夜だから、子供が起きていられないのも仕方がない」
まるで昔から知っているかのように。懐かしそうに目を細めるクラトスに、「なんで……?」とほたるの口が勝手に動く。
「スヴァインに君の保護を頼まれていたからだ。君の、父親に」
その言葉の意味が、ほたるにはすぐには飲み込めなかった。