〈6-3〉また一人か
一人ぼっちの見知らぬ場所は、ほたるを余計に心細くした。
座り込んで、膝を抱えて。大きなマントで隠れた足の間にはだらりと伸ばした両手がある。そしてその手の中には、冷たく重い感触。想像していたよりもずっと重いそれが、ほたるに自分は今一人なのだと、誰もこの身は守ってくれないのだと語りかけてくる。
もしかしてノエは、このために持って来たのかも……。
ぼんやりと考える。ノエは最初からこうなることを見越していたのかもしれない。だから自分が一人でも身を守れるようにこれを持ち出したのかもしれない。
だからこれは、ノエにとっても想定内の事態なのだ――そう考えるようにしても、心細さは消えなかった。
ノエのことは信じてはいけないと思っているのに、もう手遅れなのだと何回も思い知らされる。どれだけ目を逸らしても、自分が心底彼を頼り甘えてしまっているのだという事実は消えない。
そもそも私はなんで、ノエを信じたくないんだっけ……。
考えて、怖いからだ、と思い出す。
怖いのだ。ノエのことも、彼と共にいることで自分の価値観が変わってしまいそうなこともも。
だが、それよりも。
大事な人に背を向けられることが、恐ろしくてたまらない。
「っ……」
一度は信じたくせに。大事な人だと思っていたくせに。
けれどあの日のノエに父の姿を見てしまったせいで、彼もまた父のように自分にあの目を向けてくるのかと。不要だと言って殺そうとしてくるのかもしれないと思うと、どうしようもなく怖くなる。
だからノエのことはもう信じてはいけないと、大事ではないと自分に言い聞かせてきた。自分にとってどうでもいい人であれば、いくらでも離れてくれたって構わない。
だが、大事な人は駄目だ。母は死という形で自分の前から永遠に消えて、父はこの命を摘み取ろうとしてきた。
必死に手を伸ばした背中は、ついぞこちらを向くことはなかった。
それが、辛い。もしかしたら今度はと希望を持って、そしてその希望が何度も失望に変わったから。もうこれ以上傷つきたくないから、ノエを受け入れたくない。こんなにも甘えてしまっている相手をもう一度受け入れたら、いつか背を向けられた時に耐えられる気がしない。
だから、ノエを信じたくない。未来では自分を捨てるかもしれない人に手を伸ばしたくない。
思えば、出会った頃も似たようなことを感じていた。それは相手が見知らぬ人物だからだとばかり考えていたが、今はもう違うと分かる。
ノエと父は似ているのだ。外見や性格ではなく、その存在が。吸血鬼であるということが、父の正体を知らずとも薄々自分に訴えかけてきていたのかもしれない。
人間よりも少し低い体温だとか、纏う雰囲気だとか。そしてあの、紫色の瞳も――
「見たことあるんだろうな……」
ぽそりと、声にならない声で呟く。ノエの紫眼を見る以前に、あんなものを見た記憶はない。しかしノエはこの記憶や認識が操られているという。ということは、あれを向けられるのは初めてではないのだ。記憶には全く残っておらずとも、もしかしたら心が覚えていたのかもしれない。
あれは危険だと。自分を害するものだと。
そんなものを綺麗だと感じるなんて、自分はとんだ大馬鹿者だ。
ほたるが自嘲気味に吐息を漏らした時、キィ、とドアが開く音がした。
「っ……!」
ノエじゃない――そう直感したのは、足音がなかったから。
風で開いたのかと思うくらい、人の気配がしない。床板が軋まない。ノエならばこちらを安心させるために何か声をかけてきそうなものなのに、それもない。
自分の鼓動がやけに大きく聞こえた。と同時に、まずい、と額を冷や汗が流れる。いつだったかノエが言っていた。近くにいれば、この鼓動が聞こえると。ならばこんなにもドクドクと大きな音を立てていたら見つかってしまうと思うのに、静まれと願えば願うほど大きくなっていく。
その振動が腕を伝わっていって、カチャリと、手元で小さな音が鳴った。
「――また一人か」
知っている声だった。思わず顔を上げれば、すぐ目の前に見知った人物がいた。
「い、壱政、さん……」
けれど安心はできない。理性のなさそうな相手でなくて良かったと思うが、彼は警戒しなければならないと以前ノエに聞いている。
「……どっちですか?」
「何が?」
「い、壱政さん、は……私を……」
「助けに来たと言って信じるか?」
「っ……」
見透かされていると思った。自分が彼を警戒していることも、恐れていることも。
だが壱政が顔色を変えることはなかった。相変わらずの無表情で、「来い」と冷たく言い放つ。
「大人しく付いてくれば怪我はさせない」
「……どうしてここが分かったんですか?」
聞いたのは何故だろうか。ほたるは自分でもよく分からなかったが、しかしもう口から出た言葉は取り消せない。
「ノエが別の場所にいるから。他の奴らは騙されているみたいだがな」
「壱政さんは、なんで……」
「大勢が奴を追いかけているんだ。ノエみたいな奴が本気で逃げる気なら、誰にも見つからないように動く」
その言葉でほたるは今ノエが何をしているかを知った。恐らく彼は人々をここから離そうとしているのだ。
しかしその事実はほたるを安心させてはくれなかった。何故ならそれはノエが遠くにいることを意味している。彼の目論見を見破った人物がここにいるのに、助けてくれるはずの人は近くにいないということになる。
「さっさとしろ。どうせすぐに奴は戻って来るんだろう?」
壱政の手が伸ばされる。以前と違って瞳は黒いままだ。けれど、恐ろしかった。捕まってはいけないと思った。
だから、銃を撃った。
手探りで安全装置だと言われたものを触って、腕を持ち上げて。壱政の腹に向けて人差し指に力を込めた。鼓膜を穿つような銃声もした。反動で腕も大きく上に振れた。
それなのに――
「なんで……?」
壱政に銃弾は当たっていなかった。これまでよりも少しだけ横に動いたように見えるのは、避けられたからだろうか。
ほたるが状況を理解しきれないでいると、壱政が面倒臭そうに溜息を吐いた。
「あいつの入れ知恵か。ならもう時間がないな」
「っ!? ぁ……」
ほたるの口から声が漏れたのは、喉に強い衝撃が襲ったから。壱政の右手がほたるの首を掴んでいるのだ。強い力で押さえつけられて、あっという間に血流が滞って頭に熱が集まる。
もう一度銃を撃とうとしたが、手には何の感触もなかった。狭まる視界の端でそれを見つけたのは、壱政の左手の中。
取られた。逃げられない。
その事実だけが頭の中に浮かんで、けれどすぐに意識ごと暗闇に沈んでいった。
§ § §
ほたるには酷なことをしてしまった――群衆の注意を引き付けながら、ノエは食糧庫に残してきたほたるを思って眉根を寄せた。
銃なんて触ったこともないだろうに、いきなり渡されて怖くなかったはずがない。だがそうしなければならなかった。一方的な殺意に晒されたら、またスヴァインに仕込まれた指示が動き出してしまうかもしれないから。ほたるがまた、誰かを殺してしまうかもしれないから。
あの命令はほたるを蝕む。精神的にも、身体的にも。殺すために自らの身体を傷つけ血を流すこともそうだが、人間の身体で吸血鬼に近いことをしようとするせいでどれだけ負担になっているか分からない。
だから離れるつもりはなかった。しかし、離れるしかなかった。ほたるを連れたままでは、すぐそこにいる大勢の同族から逃げ切ることは不可能だからだ。
今は少しでも彼らを引き離して、一刻も早くほたるの元に戻らねば――そう思って館内を動き回っていたノエだったが、不意に妙な胸騒ぎを感じた。
「…………?」
これは、違和感だ。
何に対する違和感かは、はっきりとは分からない。群衆は自分の思惑どおりに動いている。彼らの動きにおかしなところは見当たらない。それなのに、何かがおかしいと感じる。
思えば、隠し通路が壊れたこともおかしかった。あれは建物が崩れてもなるべく無事で済むよう、独立した造りであるはずなのだ。それなのに壊れたのは、偶然影響が出るような爆破の衝撃を受けてしまったのだと思った。
何故ならノストノクスの建物の構造を知るのはごく一部の者だけ。執行官であっても知っているとは限らない。自分やエルシーの他には、設立時から上層部に名を連ねていた者くらいだ。そしてそういった者達はこの建物には手を出さない。そんなことをすれば均衡が崩れる。複数の異なる系譜の者を抱える組織を成立させるためには、お互いに牽制し合いつつも規律を守り、他者に攻撃する隙を与えてはならないからだ。
だからそんな者達がこの建物に手を出すこともなければ、情報も漏らすはずがないと思っていた。だからあの通路は安全だと思っていた。
だがもし、知っている者が意図してやったなら?
誰ならやるだろう。誰なら今この状況からその可能性があると考えられるだろう。
必死に思考を巡らせて、そして、一つの答えに辿り着く。
「ッ、クラトス……!」
自分とエルシーが、このノストノクスから引き剥がした男。彼ならばこの建物の壊し方を知っている。そして彼の配下には執行官がいる。それも、自分やエルシーに気取られることなくこちらの動きを探れるような奴らが。
見られたことに気付かなかったのは、いても気にならない者が相手だからだと思った。しかし違うのだ。いても気付けない者に見られていたのだ――彼らの名が、ノエの脳裏に浮かんだ直後だった。
――ガウンッ!
ここでは有り得ないはずの銃声が、遠くから。
「ほたる……!」
ノエは顔を青ざめさせると、彼女を隠した場所へと向かった。