〈5-1〉完全に油断してたでしょ
自分は何を見落としているのだろうか――ほたるはノエのいなくなった部屋で一人、ソファに座って考え込んでいた。
ノエは、他人の命を容易に奪える人だ。それ以外の善悪観念も、きっと自分とは大きく違う。
だから怖かった。母を殺したスヴァインと同じだと思った。そんな人に心を許すだなんて恐ろしくてたまらないし、一緒にいるうちに自分の価値観まで変わっていってしまうのは避けたかった。
けれどノエは、父とは違う目でこちらを見てくる。父が母に向けていたものとも違う、安心する眼差し。ノエがしたことは恐ろしくとも、彼の目は、触れてくる手は、この心を蝕む不安や恐怖を和らげてくれる。
もしかしたらノエは本当に、父のように自分を見限ることはないのかもしれない。母からもらったこの価値観を守ろうとすることすらも、肯定して助けてくれるのかもしれない。
そうは思っても、やはり信じるのは怖かった。何故ノエが自分にそんなに良くしてくれるのかが分からない。仕事だけではないのはもう理解しているが、ノエの言う〝自分が先にノエにしてあげたこと〟というのが全く思いつかないからだ。
ならば聞けばいいとは思っても、以前聞いた時に内緒だとはぐらかされている。今問うてもきっとそれは同じだ。だったら、拒絶されると分かっている質問をする気にはなれない。
だから、踏ん切りが付かない。ノエにとっての自分の価値が分からないから、結局ノエは仕事のために自分を甘やかしているだけだという考えが消せない。
完全に心を許した後で、父のようにもういらないと切り捨てられるかもしれないと思うと、もう一度信じる勇気が出ない。
『ほたるは何も間違えてないよ。だから怒らないし、我慢もしてない。ほたるの機嫌は多少取ってるけど、それはほたるに少しでも楽な気持ちになって欲しいからだよ』
その言葉を信じて甘えてしまいたい。それなのにそうしてみようかと考えるたびに、頭の中に父の顔がちらつく。それはしてはいけないことだと、恐怖が、焦燥が、その思考を絡め取るのだ。
「っ……」
なんで自分はこんなに情けないのだろう。なんでいつまでもどうするか決められないのだろう。
同じところをぐるぐると回って、中途半端な拒絶と受容と繰り返して、そうしてただただノエに嫌な態度を取ることしかできない。
こんな人間、仕事でなければ自分だって関わりたくない。いつまでもうじうじしているなと苛立って、見限ってしまうかもしれない。
だからしっかりしなければと思うのに、そのために答えを出そうと考えると結局同じところに戻ってきてしまう。
「――ほたる」
「ッ、ひゃい!?」
変な声が出た。近くから突然ノエの声が聞こえたからだ。「『ひゃい』って……」くすくすと笑う声はやはりノエのもの。どうしてここにいるのかとほたるがぐるんと顔を向ければ、そこには呆れ眼のノエがいた。
「完全に油断してたでしょ。出てく時にここは安全だけど、一応警戒してって言ったの忘れた?」
「……覚えてる」
「じゃァなんでそんな驚くの」
「……完全に油断してたので」
ノエの言葉を借りて返す。嫌味や反抗心からではない、事実だったからだ。考え事に耽ってしまっていたから、ノエが戻ってきたことにも気付かなかった。そもそもそれだけの時間が経ってしまっていた自覚もない。
「隣いい?」
ノエが目でソファを示す。
「……うん」
許可なんていらないのに――思っても、ほたるは口に出せなかった。以前は許可なんて取らず、もっと近くに座っていたのに。しかしその距離が悲しいと言う権利は、自分にはない。
「これからどうするの?」
暗くなった気持ちを誤魔化すように尋ねれば、ソファに腰を下ろしたノエが「ん?」と首を捻った。
「スヴァインを誘き出すためにノストノクスに人が集まるようにしたんでしょ? でもここにいたってスヴァインは来ないよ。……あの人は、私を助けようとしないよ」
暗い気持ちを誤魔化そうとしたからか、代わりに選んだ話題もまたほたるを心を暗くするものだった。
自分にはもう利用価値はない。ノエは優しくしてくれるが、彼だってとっくに分かっているはずだ。あの牢では有耶無耶にされてしまったものの、状況は全く変わっていない。
スヴァインはこの体に巣食う種子を取り除いてはくれないし、発芽というのだってしてくれない。だからそのうち自分は死ぬのだ。直接手を下そうとして失敗したのだから、ここで命を狙われているならちょうどいいと捨て置くに決まっている。
あの牢にいた時に比べれば、もう死んでしまっていいという気持ちは弱くなったけれど。だけど生きられる希望もなければ、生きたいという願望もない。
無意識のうちにほたるが俯けば、ノエは「確かにそうだね」と肯定した。
「でも、こっちに全く興味がないワケではないと思う」
「……気を遣ってくれなくてもいいよ」
「遣ってないよ。事実を言ってるだけ」
その言葉がほたるの顔を上げさせる。するとすぐにノエと目が合った。彼が背もたれに片腕をかけてこちらを向いていたからだ。いつもと同じ気の抜けるような笑みが、ほたるを少し楽にした。
「吸血鬼ってね、ねちっこい奴が多いのよ。いつ誰に抗えない命令をされるか分からない中で長く生きてるせいかな、一度自分のものって思ったら物凄く執着する。特に獲物に対しては凄いよ。殺し損ねたほたるが他の奴に殺されるって、考えただけで結構ムカつくと思う」
「……だから先に殺そうとするかもってこと?」
「うん。それに俺にも苛ついてると思う。俺のことは殺し損ねた上に、ほたるっていう獲物を横取りされたから」
ほたるは何のことだろうと思ったが、確かにスヴァインからすればそう見えるかもしれない、と納得した。
「なら、ノエも狙われるってこと?」
「その可能性は大いにあるよ。勿論、ほたるのこともね。思ってた理由とは変わっちゃうけど、殺し損ねた相手はちゃんと始末したいって考えてもおかしくない」
「…………」
それはまだ、自分にも利用価値があるということ。だからほたるは安堵するはずだった。実際に少しばかりほっとしたし、頭でもまだ終わりではないと理解できている。
それなのに何故か、ほたるは自分の眉間に力が入るのを感じた。どれだけ表情を変えたくてもうまくいかず、それどころかどんどんその力が強くなっていく。
「辛い?」
ノエのその問いに、ほたるは自分の感情の正体を知った。
「辛い、のかな……」
「自分の命が危ないから? ――それとも、相手が父親だから?」
「ッ、父親じゃない!!」
大きな声が出た。ほたるは自分の声の大きさに驚いたが、そんなことは考えていられなかった。何故こんなにもノエの言葉を否定したいのか、自分でもよく分からなかったからだ。
けれど、一つだけはっきりと分かっていることがある。
「父親じゃ……ないもん……」
それだけはどうしても譲れなかった。父は父で、スヴァインはスヴァイン。同一人物であったことは理解しているが、どうしても心が拒絶する。
あの時自分を殺そうとしたのはスヴァインではなく父であると、そう言われることを。
そんなほたるにノエは小さく息を吐くと、「ほたる、父さんのこと嫌ってなかったでしょ」と優しい声で話し出した。
「え?」
「今まで父さんに嫌われてるって話はしても、自分もそうだとは一言も言ったことないよ。それに今だってそう。スヴァインのことは悪い奴だと思ってるんだろうけど、そのスヴァインと父親を他人に一緒にされることは嫌なんじゃない?」
「っ……」
なんで分かるのだろう――ノエの言葉にほたるの胸がきゅっと締め付けられる。こうして他者にはっきりと言われると自分がおかしい気がしてくる。スヴァインと父は同一人物で、自分はスヴァインに殺されそうになった。つまり父に殺されそうになったのだ。間違いなくそれは理解しているし、状況を把握するために何度も考えた。だから父に対しても嫌悪感のようなものを持たないといけないと分かっているのに、スヴァインに対してはそういう感情は向けられても、父に対してはできそうにない。
それが、理解できない。事実と感情がうまく噛み合わなくて、己の幼稚さを責められているような気になってくる。
「スヴァインが、きっと……私の記憶を操って……」
そんなことはない、と思うけれど。
彼にとって自分の記憶など書き換えるに値しない。それでも自分の中にある感情を受け入れたくなくて、都合の良い言葉として口から出ていく。
だが――
「うん、それはあると思う」
ノエが当然のようにそう答えたから、ほたるは思わず「嘘でしょ……?」と問い返した。
「嘘じゃないよ。実際、ほたるの記憶や思考が弄られてるのは見たことがある」
「……お父さんに連絡しちゃ駄目ってやつ? でもあれはノエの勘違いだったんじゃ……」
「勘違いじゃないよ。それに他にもある。だからほたるの言うように、父親に対する認識も操られてるかもしれない」
「何言って……」
ノエが何を言っているのか分からなかった。言葉の意味は分かるのに、何の話をしているのか分からない。ノエの言う内容に、全く心当たりがなかったから。
「多分ほたるってさ、今まで父親が明らかに外国人なのも気にしたことなかったんじゃない?」
そのノエの質問は、更にほたるを混乱させた。
「外国人……? あの人のどこが……」
父の顔を思い出す。確かに日本人離れした彫りの深い顔立ちで、瞳の色素も薄い。けれど日本人だ。たまにいる、外国人の血が入っていないのにそのように見える顔立ちの人。だがよく見れば確かに日本人で、そう思って見てみれば日本人にしか見えないような外見の人。
父もそれだ。スヴァインというのは外国人の名だが、それは名前だけ。通称か何かだ。だから彼は日本にいたし、母と暮らしていたのだ。
「ノエ……目、大丈夫……?」
ほたるがうんと顔をしかめれば、ノエは少し悲しそうな面持ちとなった。
「ほたるの言うとおりかもね。人の認識は、他人が勝手に手を加えるモンじゃない」
「……なんで今、そんなこと言うの?」
不安だった。ノエのその言葉が、表情が。今まで平然と人の認識や記憶を書き換えることを話していた人がそんなふうに言うのは、何かそれだけ深刻な出来事があったのだと思わされてしまうから。
もしかして本当に、私の方がおかしいの?
ほたるの胸に不安が満ちる。思い出すのは、つい今しがたのノエの発言。自分の記憶や思考が書き換えられているのを見たことがあると彼は言っていたではないか。勘違いではなく実際にそうなのだと、彼のこの表情が物語っているではないか。
ならば本当に自分はおかしいのではないか?
考えてみるも、分からなかった。父の外見についてもう一度思い出してみるも、とてもではないが外国人だとは思えない。それどころか考えれば考えるほど頭の中で父の顔がぐにゃりと歪んでいって、得も言われぬ気持ち悪さがほたるの額に脂汗を浮かべた。
父は日本人で、スヴァインは外国人の名で。父とスヴァインは、同一人物で。
耳の奥から激しい鼓動が聞こえる。その鼓動が聞こえるたびに、どんどん体温が下がっていくのを感じる。吐き気が、頭痛が、更に鼓動を激しくする。
「ノエは外国人って……でもお父さん、は……」
ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。全身が波に揉まれているかのように、視界も思考も平衡感覚を失ってどこかへ飲み込まれていく感覚がする。
けれどほたるは考えることを止めることができなかった。波から逃れようとするとまた引き戻されて、もっと深く飲み込まれそうになる。
スヴァインは外国人で、間違っているのは私の方だ。
皮膚の下を這うような不快感が、ほたるに絡みついてきた時だった。
「――わっ!」
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