〈4-5〉詰めが甘い
ほたるを部屋に残したノエはノストノクスの建物の中を歩いていた。勿論、人目につかないように。外にスヴァインの子を敵視している者達がいる以上、そのスヴァインの子がここにいると思われるような行動は避けなければならない。とはいえここは廊下を歩き回る者が少ないから、ほんの少し耳を澄ませて注意すれば簡単に誰にも見られないよう移動できる。
そうして目的の部屋までやってくると、中から部屋の主以外の声がしないことを確認してからドアをノックした。
「どんな状況?」
ドアを開けながら部屋の主――エルシーに問いかける。すると窓の外を見ていたエルシーはゆっくりと振り返って、「帰っていたのか」と意外そうな顔をした。
「色々あってね、ちょっと予定変更。で、どうなってるの?」
ノエが問い直せば、エルシーは窓の外を示すように目線を動かした。
「見てのとおりだ。スヴァインの子を出せと騒いでいるよ」
「にしちゃァ多くない? ここまで集まるにはもう少し時間かかると思ってたんだけど」
「皆スヴァインが戻ってきていると考えているからな」
エルシーがノエに向き直る。そのままじっと相手の目を見つめて、「同胞殺しがあった」と口を開いた。
「ソロモン様とリロイ様が亡くなられた。二〇名近い血族と共にな」
「物騒だねェ。それがスヴァインの仕業だって?」
「そう見る者がほとんどだ。何せ直前に、彼らの一部にスヴァインの子を捕らえたと触れ回っていた者がいたらしい」
その言葉を聞きながら、ノエはだろうな、と内心で溜息を吐いた。あの広間で行われていたのは宴だ。執行官である自分を捕らえたこと、そしてスヴァインの子であるほたるも手中に入れたこと――それを祝していたのだ。序列上位の者しか参加していなかったということは、情報統制は行われていたのだろう。だが執行官のことはともかく、スヴァインの子を手に入れただなんて話は周囲に自慢したくて仕方がなかったに違いない。
とノエが考えていると、エルシーが「スヴァインには会えたのか?」と問いかけてきた。
どう答えるべきか――しばし考える。恐らくエルシーは自分達が捕まり、そしてスヴァインの起こした騒ぎに乗じて逃げたと思っているだろう。しかしもう少し調査すれば、ノストノクスはあの場にスヴァインはいなかったと結論付けるはずだ。ならばエルシーの勘違いに乗るのは、都合が悪い。
「そう簡単に会えると思う?」
「なら捕らえられたのは……」
「俺らじゃないよ。誰かは知らない」
ノエの口から淀みなく嘘が出ていく。いつもどおりならこれで終わりだ。エルシーは自分の嘘に気付かないか、気付いても見なかったふりをする。だからノエは次の話題を切り出そうとしたが、エルシーが少し驚いたような目で自分を見ていることに気が付いた。
「お前にしては珍しいな」
「何が?」
「詰めが甘い」
その言葉と同時にエルシーが何かを投げつけてきた。ノエは咄嗟にそれを掴み、手の中を見る。そこにあったのは見慣れた懐中時計――鍵だ。ノクステルナと外界を行き来するために使う、執行官に支給された鍵。裏の数字の刻印は先日使ったものと全く同じで、ノエはエルシーに全てを知られていることを悟った。
「私は何も知らない」
エルシーが念を押すように告げる。
「ついでにそれを見つけた者の記憶は消した。今執行官が減ると困るからな」
「だから誰かは聞くなって?」
「必要ないだろう?」
鋭い濃紺の瞳がノエを見つめる。全てを悟りつつも見ないふりを貫く友の姿に、ノエの表情が曇る。
「私の記憶を消したいのなら好きにしろ。だがその前に忠告しておく」
「忠告?」
「これが初めてのミスなら、お前はもう限界だ」
「…………」
エルシーのその言葉は、真意を理解すると同時にノエの胸に突き刺さった。これはミスではない。ミスではないが、間違いなく自分の選択の結果だと自覚していたから。
リード達にこの鍵を回収されていたことは、三度に渡る話し合いの時にそれとなく探って分かっていた。だからあの場所から逃げる時、探さねばならなかった。ノストノクスが調査に入るのも時間の問題だから、自分があの場にいたと示す唯一の証拠は残しておけないと分かっていた。
それでも放置したのは、ほたるを一刻も早くあそこから遠ざけたかったからだ。どこにあるか分からないこんな小さなもののためにあの広い建物の中を探し回って、その間に彼女の意識が完全に戻ってしまうことを避けたかった。しっかりと思考できる状態で、あの広間を見せたくはなかった。
たとえもうそこに死の残滓すら残っていなかったとしても。遠く離れた場所でそうかもしれないと考えるのと、その現場で気付くのとでは、前者の方がまだいいに決まっている。
だから、選んだ。後で多くの者の記憶を書き換えればいいと。多少この身を危険に晒すが、それよりもほたるの精神の保護を選んだ。
いずれこの手を離れる少女を優先した理由は分かっている。エルシーの言うとおりだからだ。束の間の平穏のために、これまでだったら絶対にやらなかったことをした――ノエはゆっくりと目を閉じると、「……お前の記憶には手を出さないよ」と首を振った。
「だってお前は何も知らないんだろ?」
目を開けながらエルシーを見て、笑いかける。脳裏にちらつくのはほたるの顔。他人の記憶を軽く扱うことを厭う、苦しげな顔。
「ノエ……」
エルシーが顔に悲痛を浮かべたのは何故だろうか。ノエは答えを知っている気がしたが、気付かなかったふりをした。
「……お前がそう決めたならそれでいい」
暗い声で言って、エルシーがノエを見つめる。
「そんなことよりほたるだ。あの子の命はあとどれくらい持つ? ニコラスがかなり進行が早いと言っていたが」
「ニッキーが? 伝言だけ伝えてくれればよかったのに……」
余計なことをと言わんばかりにノエが顔をしかめれば、「ノエ」とエルシーが説明を求めるように呼んだ。
「正直分かんないよ。本当に急に進む時がある。あと何回もそれが起こったら一週間も持たないかもしれないし、起こらなかったら何ヶ月も頑張れるかもしれない」
これは本当のことだった。急激に進むきっかけについては伏せているが、ほたるの寿命が読めないのは紛れもない事実。
ほたるには前向きな内容を伝えるようにしているし、ノエ自身もそう思うようにしている。けれどこうして言葉にすると彼女の命の脆さを急に実感させられた気がして、ノエの眉間には知らず知らずのうちに力が入った。
だからかもしれない。ノエを見るエルシーが、苦しげな面持ちとなったのは。
「……調べようか? 親以外の者が種子を発芽させる方法を」
「やめろ」
低い声だった。エルシーの言葉を遮るように、低く攻撃的な声がノエの口から出た。
そして、その声と同じ鋭い目でエルシーを睨みつける。
「ほたるは絶対に人間のまま元の世界に帰す。余計なことしてる暇あるならスヴァインを探せよ」
怒りを感じさせる姿だった。だがそれを向けられたエルシーは怯えることなく、むしろ厳しさを湛えた表情でノエを睨み返した。
「それは庇護欲とは違うぞ」
「違わねェよ」
「自分でも分かっているだろう? あの子はお前が養っていた子供達とは違う」
諭すように、咎めるように。かつて彼女にだけ話した自分の過去を引き合いに出され、ノエの拳にぐっと力が入る。
「お前が人間と我々を完全に分けて考えているのは知っている。だがな、お前の都合であの子の生きる機会を奪うな」
「……うるせェな。つーかお前の立場で俺に法律破らせようとすんなよ」
「お前ならどうせ私の目くらい簡単に誤魔化せるだろ」
そう溜息を吐くエルシーの目には諦めがあった。だがそこには同時に、ほたるへの思いやりも見て取れる。だからエルシーが善意でほたるを吸血鬼にした方がいいと考えているのはノエにも分かった。分かったが、受け入れるわけにはいかない。
ほたるを、吸血鬼にするわけにはいかない。
「ほたるは人間だ。人間として生きて、人間として死ぬんだよ。ここで過ごしたことも全部忘れて、何十年も笑って生きてその後に死ぬんだよ。それ以外の生き方なんてない。……絶対に俺がさせない」
いつもよりもずっと、重たい声で。顔に笑みもなくノエが決意を告げれば、エルシーは「……お前のことも忘れるのに?」と眉根を寄せた。
「人間のふりをして面倒を見てやるわけでもないんだろう? 二度と関わらないつもりか」
「面倒は見るよ、できるだけ幸せに生きられるように。無理矢理連れてきたせいで奪った未来もあるだろうから、その責任は取る。だけどほたるは俺を知らなくていい。俺も直接は関わらない」
ほたるを助けるのは、彼女の知らないところで。母と父を同時に失った彼女がそれでも幸せに生きられるように。人との関係に恵まれるように。両親がいないことを後ろめたく思うことがないように。
それさえできれば、ほたると直接関わる必要はない。
「何故そんなまどろっこしい真似を? その口振りじゃあ面倒を見るのもほたるにとってはただの偶然になるように手を回すつもりなんだろう?」
エルシーが怪訝な顔で問いかけてくる。それを視界の端で捉えながら、ノエはゆっくりと口を開いた。
「ほたるの人生から俺が完全に消える――それで初めて、ほたるは幸せになれる」
それしかないのだ。そうすること以外に、彼女の後ろを付き纏う死の影は消えない。だから自分は消えなければならない。
ノエが静かに答えれば、エルシーが暗い表情で目を逸らした。