〈4-2〉なるべく早く下ろすから
結局、料理は馬車の御者にしてもらうことになった。一回だけ自分達でやろうとしたら見事に二人して炭を作ってしまったから、これでは食材が足りなくなるとノエが提案したのだ。
休憩のたびに毎回ホットドックのようなものを食べ続けて、二日。ほたるとノエはノストノクスに戻ってきていた。
初めて外から見る巨大な建物にほたるが驚いたのは最初だけ。すぐにそれ以上の驚きが彼女を襲った。建物を取り囲むように、それはもう大勢の吸血鬼達が集まってきていたのだ。
「何があったの……?」
少し離れたところから見ているのに、彼らが激しい怒りを抱いているのが感じ取れる。声もそうだが、空気が重苦しいのだ。見ているだけで逃げ出したくなるような怒りがそこには漂っていて、ほたるの足を竦ませる。
「スヴァインの子の存在が公表されたらしいからね。文句言いに来てるんだよ」
ノエは事も無げに答えたが、ほたるには恐ろしくてたまらなかった。以前聞いた計画では、彼らはそのうちスヴァインの子の死を望み始めるらしい。つまり自分だ。あの広間で向けられたような悪意を、今度はあんな大勢に向けられるのかと思うと恐怖で身体が固まってしまう。
「大丈夫だよ。俺が絶対にほたるには怪我させないから」
聞き慣れたその言葉は、確かにほたるを安心させた。けれど言葉だけだった。今までだったら言葉と共に手を握ってくれていたはずなのに、彼の手は元の位置から動かない。
その苦しさにほたるが視線を落とした時、ノエが「悪いんだけどさ」と続けた。
「ちょっと抱っこさせてくれない? あいつらに気付かれないように抜け道使うから」
気後れしたようなノエに、自分から一歩近付く。「分かった」気持ちを隠すように淡々と答えれば、ノエが優しく抱き上げてきた。
「なるべく早く下ろすから」
気遣う言葉に何も答えられないまま、ノエの肩に頭を預ける。全身を包む安心感には気付いていても、急がなくていいと、ほたるは言うことができなかった。
§ § §
ノエがほたるを連れてきたのは、ノストノクスにある彼の私室だった。ノエがはっきり言ったわけでもないのにほたるがそうと分かったのは、以前ここで使っていた部屋の真上だったから。そして同時に、微かだが部屋の空気の中に、ノエに抱きかかえられた時の匂いを見つけたからだ。
「そのへん座っててくれる?」
ほたるを下ろしながらノエが言う。そのへん、と示されたところにはソファがあった。ほたるが使っていた部屋のものとは違い、三人掛けの長いものが一脚だけ。そしてその上には何故かタオルがあったが、どう見ても敷物として使っているものではない。
「あの、これ……」
「ん? あァそれ。そのへん放っといて」
「……洗い物じゃないの?」
「違うよ。使おうと思って出してやめただけ」
「…………」
本当だろうか、とほたるはそっとタオルに視線を戻した。ノエは確信があるようだが、畳まれていないそれはほたるには使ったものとしか思えない。
それに〝そのへん〟と彼が指したものもおかしかった。具体的にどこを指したのかは分からなかったが、恐らくテーブルや床のことなのだろう。ほたるがそう判断したのは、そのテーブルや床の上にも同じようなタオルや服、更にはコップが落ちていたからだ。
「…………」
無性にそわそわする散らかり方だった。全体的には整頓されているし、落ちているものも多くはない。更には部屋が広いから、一見するとあまり散らかっているようには見えない。
それなのにどういうわけか、なんとも言えない不安を感じる物の散らばり方だった。思わずソファの上のタオルだけでなく、床に落ちていた物も拾って、タオルを下敷きにテーブルに乗せる。すると急に心が楽になって、ほたるはどういうことだろう、と難しい顔をした。
「あれ、ほたるもその顔するの?」
荷物を置いていたノエがほたるを見て首を捻る。「……その顔?」ほたるが問えば、「なんか気持ち悪そうな顔」とノエが答えた。
「ここ見た奴みんなその顔するんだよね。そこまで汚いワケじゃないのに妙に不快だって」
「ああ……凄く分かる」
「ほたるも? 散らかり方がおかしいって言われるんだけど、別に普通じゃない?」
「……普通は床にコップは落ちてないと思う」
しかもしっかりと立った状態で。落ちたにしてはおかしいそれを今しがた拾ったことを思い出しながらほたるが答えると、「それは置いたんだよ」とノエが不服そうな顔をした。
「雨漏り用か何かってこと?」
「いや、普通に水か何か飲もうと思ったんだけどね。途中でやめて使わなかったから」
「……それでなんで床に置くの? 元に戻せばいいのに」
「面倒臭くて。そういう時ってもうここでいいやってならない?」
ノエの答えにほたるの顔が険しくなる。「理解できない……」ぼそりとこぼせば、ノエは「ははっ」と笑った。
「まァそんなことより座ってくつろいでなよ。この部屋なら安全だから」
言われて、忘れていた、とほたるはソファに腰を下ろした。ずっと硬い馬車の椅子に座っていたから、柔らかいクッションが心地良い。ほたるが思わずほっと息を吐き出すと、ノエが「好きに使っていいからね」と話を続けた。
「後で俺エルシーに会いに行ってくるから、欲しいものがあったら適当に部屋漁っていいよ。今思いつくなら出しとくけど」
「いや……特にないかな」
「じゃァ思い出したら言って。あと外の状態見てたら分かると思うけど、俺がいない間は絶対にこの部屋から出ないように。誰か来ても居留守でいいよ。執行官の部屋って勝手に入っちゃいけないからそれでいけると思う」
だから安全だというノエの説明を聞きながら、ほたるの脳裏にはあることが過った。
「あ、あの……」
「うん?」
「エルシーさんに会うなら、私の家がどうなってるか聞いてもらえないかな? その……」
母の遺体がどうなったか――それは、口に出すことができなかった。言えばまたしまったはずの感情が押し寄せてきそうな気がしたから。
だが、それでも聞かずにはいられない。父は父ではなかったのだから、母の遺体を正当に扱ってくれているか分からない。もしあの家で、何日もあのまま放置されていたとしたら――ずっと心の片隅にあった不安を解消したくて遠回しに伝えれば、ノエは「分かった」と優しく微笑んだ。
「確認するよう頼んどくよ。人を手配して調べに行かせるから、それなりに時間かかっちゃうんだけど」
「大丈夫。ありがとう」
素直に礼が言えたのは、ノエが自分の意図を汲んだ上で答えてくれていると分かったからだ。それがほたるの心を楽にして、そして少しだけ翳らせる。
あの広間での一件以来ノエに抱いていた別人感は、移動の間にだいぶ薄くなってきたように思う。会話も、前よりはできるようになった。信じないように気を付けてはいるが、一番ほたるの言葉を詰まらせていたのは彼への恐怖だからだ。……けれどこの状況が、やはり怖かった。
ノエはずっと変わっていない。つまり最初から彼はああいうことを平気でする人物で、そして自分はそんな人に心を許してしまっていたということ。当初は絶対に気を許してはならないと思っていたのに、いつの間にか心を解かれて、自分の中に招いてしまっていたのだ。
……ノエは、簡単に他人を殺せる人なのに。
そしてそれはきっと、スヴァインと同じことができるということなのに。
「っ……」
ノエとスヴァインの姿が重なる。ノエの感覚に慣れたくないと思うと同時に、彼もまたスヴァインのように愛していた母を簡単に食い殺せる人なのかもしれないと考えると、恐怖で身体が一気に冷え切るのを感じる。
どれだけ口では自分を守ると言ってくれていても、本気で約束を守ろうとしてくれているのだとしても。ある時突然、ノエが父のようにあの冷たい目を自分に向けてくるかもしれないと思うと、怖くてたまらない。
「ほたる?」
* * *