〈4-1〉俺と同じものを感じる
「――そろそろご飯食べる?」
そう言ってノエが紙袋から取り出したのはホットドックのような食べ物だった。今乗っている馬車を借りた時にどうにか買えた食糧だ。ほたるは「うん」と小さく頷くと、ノエからホットドックを受け取った。
「しばらくこればっかりになると思う。さっき店の人に話聞いたら、今みんな留守にしがちみたいなんだよね。そうなると人間も食べれるメシってあんま売られなくなるから、街には寄らずに直接ノストノクスに行くことにした。どうせ寄っても食糧は手に入らないだろうし」
そういうことだったのか、とほたるはノエの話を納得しながら聞いていた。ノエが馬車を借りた店で大量の食糧を買い込んだのは見ている。てっきり次の街までが遠いのかと思ったが、そもそも寄らないらしい。「分かった」ほたるが淡々と答えれば、ノエが「水もあるから安心して」と付け足した。
「馬を休ませる時以外はずっと移動になるから、しんどかったらちゃんと言うんだよ」
「うん」
ほたるは食事に集中しているふうを装って、短い相槌だけ打つと咀嚼を続けた。
ノエとうまく会話が続かない。いや、話したいという気持ちにならない。これまでどおり話してしまえば全てが有耶無耶になってしまう気がして、口が重たくなる。
この馬車を借りた時だってそうだ。馬車を借りた金も食糧を買った金も、あの民家から拝借したもの。後で返すとは聞いているが、何から何まで人のものを勝手に使っている以上、どうしても気になってしまう。
でも、この感覚が正しいんだ――自分に言い聞かせる。ノエの感覚に慣れたくない。彼を理解したいという気持ちは、もうしっかりとしまい込んだ。だから最後まで正しい距離を保ち続ければ、この価値観は守られる。
黙々と食べながらほたるが考えていると、ノエが「ちなみにほたるさ」と会話を再開した。
「何?」
「料理できる?」
「……なんで?」
唐突な質問にほたるの顔が険しくなる。何故今そんな話をする必要があるんだと思いながら続きを待てば、ノエが「しなきゃいけないから」と恐ろしいことを口にした。
「食糧、日持ちするように材料の状態で買ったんだよ。このまま持ち歩いても傷みはしないけど、食べる時は流石に火を通した方がいいと思う」
意外と真っ当な内容に、ほたるはなるほど、と頷いた。だが、すぐには答えられない。母には一人で料理をするなと厳しく言われていたからだ。
「……料理って、どのくらいのものを想定してる?」
「ん? 火を通すだけだよ。マッチと串はもらってきたから、いい感じに焼くだけ。火は俺が準備できるから」
「……それくらいなら多分……大丈夫、だと思う」
恐らく。確信はないが、きっと大丈夫なはずだ。何せ母に単独調理を禁じられたのは、自分がやるとあまりに酷い料理が出来上がってしまうせいだから。
「ほたる」
ノエが胡乱げな目でほたるを見る。「何」ぶっきらぼうに返せば、「隠しても無駄だよ」とノエが続けた。
「ほたる、料理できないんでしょ」
「……なんで」
「俺と同じものを感じる」
言われて、ほたるの眉間に力が入る。
「ノエと一緒にしないで欲しい」
「いいや、する。他のことはしないけど、料理に関してはする」
「なんで」
「ほたるって、しっかり火を通そうとして炭にするタイプじゃない?」
「っ!!」
なんで分かるんだ――思わず大きく目を見開けば、ノエが「やっぱそうだ!」と顔を輝かせた。
「だよね、火を通すだけって言ってるのに答えに悩むってそういうことだよね。でも現代の調理設備で炭にするなんてヤバくない?」
「は!? 自分だって同じだって言ってたじゃん!」
「俺は焚き火ですー。火加減が難しいんですー」
「ッ、言い方……!」
挑発するようなノエの態度にほたるの眉間には深い谷ができた。羞恥と怒りがその谷に一気に押し寄せて、これまでの悲惨な黒い物体達が脳裏を駆け巡る。
思えば、調理実習は屈辱の時間だった。クラスメイトにはお前は触るなと言われ、教師には諦められ。家で練習すればいつもにこやかな母の顔すら曇る。
『火加減を調整して、ちょうどいいところで火から離せばいいの』
たったそれだけだと言わんばかりの台詞を何度聞いたことか。そのちょうどいいところが一向に訪れないから、いつだって自分の作る料理は真っ黒になるのだ――思い出すと、頭の中がカッと熱くなった。
「私だって別に焦がそうと思って焦がしてるわけじゃないもん! 火はちゃんと通さないと危ないじゃん! それなのにいくら焼いても中身生なんだから表面は諦めるしかないでしょ!?」
「分かる。こっちは昔生焼け肉食って腹下しまくったから絶対に火は通してやるって気概で臨んでるんだよ。なのになんであいつら中身焼けないの?」
「そうだよね、おかしいのは食材の方だよね!?」
「絶対そう」
初めて得られた共感。四〇〇年生きていても身に付けられない能力を、たった十八年しか生きていない自分が習得できるはずもない。
おかしいのは周りで、自分は至って普通なのだ――ほたるがうんうんと納得していると、ノエが安心したように笑みをこぼした。
「元気で良かった」
「っ……」
その瞬間、ほたるは今の状況を思い出した。慌てて顔を背け、しかし露骨すぎたかと胸にチクリと棘が刺さる。
いくらノエだって、こんな態度を取られて気分が良いはずがない。だったら悪いのは自分だから、謝らなければならない。けれど謝ってしまえば、そこから絆されてしまうかも――ほたるがなかなか声を出せずにいると、ノエは「俺と話したくないのは別にいいよ」と優しい声で告げた。
「でも体調が悪いかどうか分かりづらいのはちょっと困るかな」
「……それは……ごめん」
迷った末に謝罪を絞り出す。背けていた顔をゆっくりと戻すも、視線は上げられない。
きっとノエはこのために自分を挑発するような言い方をしたのだろう、とほたるは口中が苦くなるのを感じた。この口数の少なさが心持ちのせいなのか、それとも体調のせいなのか。それを確認したくて彼は人の感情を引き出すようなことをしたのだ。
まんまと乗ってしまった自分に情けなさを感じたが、それ以上にノエにそうさせてしまったことが、心苦しい。
ノエのことは怖い。信用したくない。だから彼を拒むことに罪悪感を抱きたくない。……けれど、困らせたいわけじゃない。
しまったはずの感情が少しずつ顔を出してくるせいで、したいことと感じることの折り合いが付けられない。
「謝んなくていいよ。次から少しだけ気を付けてくれれば」
落ちた視線の先で、ノエの手がこちらに伸びてくるのが見えた。ノエがほたるの頭を撫でる時の動きだ。
ほたるがそれをぼんやりと目で追いかけていたら、不意にノエの手が止まった。誤魔化すようにその場で軽く空気を握って、それ以上ほたるには近付かずに元の場所へと帰っていく。
それが何故かたまらなく苦しくて、ほたるはぎゅっと下唇を噛んだ。
何も思うな。考えるな。彼と距離を取ることを望んだのは自分なのだから、相手にもそうされることが嫌だと思うな――何度も何度も自分に言い聞かせる。そのせいでほたるが黙り込むと、ノエが「そんなことよりどうする?」といつもの調子で尋ねてきた。
「……どうするって、何が?」
「焚き火なんだよね」
「焚き火?」
「料理に使う火」
「……あ」
言われて、ほたるの思考が止まる。
「多分俺とほたる、どっちが焼いても高確率で炭になると思う」
珍しく至極真剣な表情をするノエを見ながら、ほたるはこれは大事に食べよう、と手の中のホットドックを優しく持ち直した。