〈3-3〉泥棒みたい?
民家のクローゼットを漁りながら、ノエは耳を澄ませてほたるの様子を探った。
あれから、彼女が動いた気配はない。ずっと同じ場所で立ち尽くしているだけだ。そうなるのも無理はない、と思う。それは彼女にとって今この状況がその倫理観に背くものであり、更に自分という恐ろしい相手と一緒にいるのだから仕方のないことだ。
本当は、ほたるにあんなものを見せる気はなかった。どこかのタイミングで毒にはならないと説明して、その上で血だけもらって、後は彼女のいない場で全て終わらせるつもりだった。
それができなかったのは、その前にほたるがスヴァインの子だと知られてしまったからだ。正体を知られたほたるをあの牢に一人にすることなんてできるはずがない。
だから、あんなものを見せる羽目になってしまった。吸血鬼達が一斉に自死する姿を。その痕跡を。己の本性を。
視界は塞いだし、毒で意識も朦朧とさせたが、それでも彼女は気付いてしまった。ならば気絶させておくべきだったとも思うが、しかし仮に気絶させておいたとしても、あの状況から逃げ出したら疑問に思うだろう。
それに何より、怖かった。自分の身体を支えることもままならなかったから、力加減を誤ってただ痛みだけを与えてしまうのが怖かった。下手したら大怪我をさせてしまうかもしれないと思うと、できなかった。
自分が恐れたせいで、彼女を恐れさせた。
『でももう……ノエ、知らない人みたいだよ……』
ほたるにそう言われた時、心臓が捩じ切れるかと思った。触れようと伸ばした手を避けられた時、息ができなくなるかと思った。
誰かを裏切り、軽蔑と拒絶を向けられることには慣れていたはずなのに。そういう人付き合いしかしてこなかったはずなのに。
自分を見て怯えきったほたるを見ていたら、全て話してしまいたくなった。あれは自分の望みではないのだと、そうしなければならないのだと弁明して、許しを得たくなった。
だが、それはできない。そんなことをすれば、この手で彼女を――
「…………」
ノエは大きく息を吸うと、気分を無理矢理切り替えた。
これでいいのだ。事情がどうであれ、ほたるの前でやったことは間違いなく自分の行動。そうして彼女を怯えさせてしまったのも、信用を失ったのも自分の責任。
これまでやってきたことを思えば自業自得以外の何物でもない。そしてその生き方を受け入れたのは他でもない自分自身なのだ。
自分がやるべきはほたるを人間として元の生活に帰してやること。そして彼女の世界から完全に消えること。どれだけ彼女に恐れられようとも、それさえ遂げられれば何の問題もない。
ノエは目の前にある服をいくつか手に取ると、ほたるの元へと戻った。
「――男物しかなかった。これ着れそう? その間に今着てるの洗っちゃおうか」
ほたるに服を差し出す。ここを離れる時にテーブルの上に置いておいたパンにはやはり触った形跡はなく、今渡した服もなかなか受け取ろうとしない。
「人の物を勝手に使うのはやだ?」
問えば、ほたるはこくりと小さく頷いた。
「ブランケットとかだったらどう? 身体洗った後、とりあえず何か羽織っておかないと。服も洗うから乾かすのにも時間かかるし」
「……お風呂も勝手に借りるの?」
「泥棒みたい?」
その問いにほたるはぎゅっと眉根を寄せた。恐らく彼女はそうしなければならないことは理解しているのだろう。けれどこれまでに育まれた価値観が邪魔するのだ。
それは確かに彼女の美徳と言えるかもしれない。だがこの状況では違う。本人の意思をできるだけ尊重してやりたいが、この格好で歩き回った方が危険なのだ。
「今回だけ我慢してくれない? このままノストノクスに行きたいんだけど、歩いて行ける距離じゃないんだよね。だから馬車を借りたいんだけど、こんな格好だと目立って、必要以上に周りの記憶を誤魔化さなきゃならなくなる。それは多分、ほたるの嫌なことだと思うんだけど」
「っ……」
ノエが言えば、ほたるの唇が真一文字に引き結ばれた。考えるように目を動かして、時折唇を噛む力を強くして。そんな彼女を見ながらノエが待っていると、やがてほたるがおずおずと口を開いた。
「……ちゃんと、ここの人に謝れる? 勝手に借りてごめんなさいって、ありがとうございましたって、言いに来れる?」
「ノストノクスがやるよ。言ったでしょ? こういうことは珍しくないって。だからそこらへんはちゃんとしとかないと、ノストノクスの信用問題になっちゃうから」
ノエの答えにほたるが目を落とす。だが、受け入れる気になったらしい。「……分かった」囁くようなか細い声をノエは確かに聞き届けると、「じゃァご飯も食べてくれる?」とほたるの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「こういう家って、火を起こさないと色々と使えないからさ。二、三〇分くらいかな。俺が準備してる間、ここで食べて待っててくれる?」
「……何か手伝うよ」
「ほたる、暖炉使ったことある?」
ノエの言葉に、ほたるの顔がしゅわ、と歪む。その反応にノエはこっそりと笑みをこぼすと、「時間かけてパン食べててよ」と言って、暖炉のある部屋へと向かった。
§ § §
一時間ほど経った後、パチパチと爆ぜる暖炉の火を前にほたるはほうっと息を吐いた。
暖かい。強張っていた身体の力が抜ける。温かい湯で全身を洗った時に少し温まった気がしていたが、こうして火に当たっているとそれでは不十分だったのだと気付かされるようだ。
暖炉の周囲には洗った自分達の服がかかっている。ノエ曰くここは洗濯物を乾かすための部屋だそうで、太陽の上らないノクステルナにおいてはよくある設備らしい。
洗濯紐にかけられたワンピースは、元々色が黒だったということもあって染みは見当たらない。洗ったのはほたるではなくノエだ。ほたるは髪についた血を落とすのに時間がかかるだろうからと、その間にノエが洗うと申し出たため甘えてしまった。断ろうとしたが、ほたるの入浴中は暇だからと言われてしまえば押し問答になる予感がしたから、それ以上食い下がることはしなかった。
そのノエは今自分の身体を洗いに浴室に行っているから、ここにいるのはほたる一人。
一人でいることに久々に安堵を覚える。ノエとはあまり口を利きたくなかったから。自分のためにあれこれしてくれている彼には申し訳ないと思うが、彼の顔を見ているとどうしても色々なことを思い出してしまうから。
人を大勢殺したことも、こうして他人の家を我が物顔で使うことも。着替えや浴室を使うことを最初に拒んだのは、自分の倫理観に合わないからだけではない。
これに慣れてしまえば、何かがおかしくなる気がしたのだ。
例えば、ノエが人を殺したこと。あれを仕方のないことだったのだと思いたくない。事故だったならまだしも、あんなふうに故意に大勢殺めてしまうことを仕方のないものだと考えてしまえば、もう何だったら悪いことだと思えるのか分からなくなる。
自分が変わってしまうのが恐ろしい。そして何より、失いたくない。
この価値観がこれまでの人生で形作られたものなのであれば、それをしてくれたのは母なのだ。あんなふうに殺されてしまった母が、自分にくれたもの。それを失うのは怖かった。手放してはいけないと思った。
もし本当にこの体から種子が取り除かれる日が来たら、その時にはきっと母の死の理由は別のものとして記憶を書き換えられるのだろう。母の死ごと別のものにされてしまうのかと思うと、絶対に変わらないものを一つだけでもいいから持っておきたかった。
「っ……」
急に涙が押し寄せてきて、ほたるは必死にそれを押し留めた。
泣きたくない。本当は母の死を悼みたいけれど、それは今じゃない。今悲しみのままに泣いてしまえば、自分はきっとノエに甘えてしまう。彼に抱いた恐怖や嫌悪感から目を逸らして、彼に与えられる安心感に身を委ねてしまう。
そうなればもう、この価値観が変わっていくのを止められない。
泣くな。悲しむな。何も感じるな――何度も何度も頭の中で繰り返す。
割り切れ。ノエを利用しろ。死ぬまでこの価値観を守りきれ。
自分はきっと、近いうちに死ぬ。ほんの少しの時間なのだから、決してノエに甘えようとしてはいけない。心を許してはいけない。この態度を、後ろめたく思ってはいけない。
ノエにどう思われようと、気にする必要はない。
仮にもし生き残ったとしても、この命を食らう種子さえ取り除けば、彼のことは全て記憶から消されるのだから。