〈3-2〉……もういいよ
「――お、やっと民家あった」
ノエがそう言ったのは、最後の会話から三〇分近くが過ぎてからだった。
周囲は未だ荒野が続き、街は見当たらない。そんな中にある民家は異質だったが、よくあることなのか、ノエは気にならないらしい。小さな家に向かって迷うことなく歩いていくと、ドアの前で立ち止まった。
「誰もいないね。ちょっと片手になるよ」
その言葉と同時にほたるを支えていたノエの左手がなくなる。ほたるは一瞬バランスを崩しかけたが、ノエが残った右手でしっかりと支えていたため落ちずに済んだ。
いや、落ちた方が良かったのかもしれない。未だノエから逃げたい気持ちは消えていないから、落ちればそのまま走って逃げられたかもしれない。
どうせすぐ追いつかれるだろうけど……――ノエ達吸血鬼の移動速度を思い出し、無駄なことか、とほたるは眉を曇らせた。それにこの腕の力もそうだ。身体を支えるのが二本から一本になったせいで体勢が変わっただけで、びくともしないのは変わらない。疲れている様子だってない。
人間の身で吸血鬼から逃げることなんて不可能なのだ。そうほたるが実感した時、ガッとドアの方から鈍い音がした。
「ッ……」
見れば、ドアが開いていた。恐らく鍵はしまっていたのに。ノエが左手でドアノブを掴んだのは見えていたから、鍵ごと無理矢理開いたのだろうとほたるは状況を理解した。だが、理解しただけだ。
「しばらく留守にしてる感じかな。ほたる、下ろしても逃げない?」
家の中に入りながらノエがほたるに問いかける。いつもと同じ優しい声だったが、ほたるにはいつもと全く違うように聞こえた。
「……逃げたら、」
「そりゃ追いかけるよ。あんまり何回も逃げるようなら縛るなり気絶させるなりしなきゃいけなくなるから、できれば自主的にじっとしてて欲しいんだけど」
「……分かった。逃げない」
ほたるが答えれば、ノエは丁寧に彼女を下ろした。「ちょっと待っててね」柔らかい声で言って、家の中を物色し始める。
ほたるは下ろされた場所に立ち尽くしたまま、その姿を見ていることしかできなかった。
「…………」
ノエが怖い。無人の家に平然と入ってしまうところも、悪びれる様子なく家の中を漁るところも。それから、逃げようとすればすると言ってきた行動も。そこに悪意がないこともそうだが、自分の倫理観ではやってはいけないと断言できる行為を当たり前のようにするノエが、怖い。
だが、恐ろしいのはそれだけではなかった。確かにそれらも怖いが、何よりそういった行動のせいでどうしても思い出してしまうのだ――ノエが、大勢を殺したことを。
「やっぱ保存できる食糧しか置いてないね。黒パンしかないんだけど食べれそう?」
しばらくすると、ノエはそう言ってほたるに紙袋に入っていたパンを差し出した。見たところ傷んではいない。しかしほたるはそれを受け取ることができなかった。
「なんで……なんでこんなこと平気でできるの? 泥棒じゃん。ドアだって壊して……」
「後でノストノクスからちゃんとお礼と弁償はするよ」
「でも……!」
ほたるがノエを見上げる。そこにいたノエは困ったように眉尻を下げて、いつもと同じようにほたるを見ている。
そんな彼を見て、ふとある疑問がほたるの脳裏を過った。
「本当にノエ、なんだよね……?」
見た目は間違いなくノエだ。仕草も、口調も。だが行動がまるで違う。ノエがこんなことをするところなんて見たことはないし、やりそうだと思ったこともない。
だからこの人は、もしかしたらノエではないのかもしれない。ノエと全く同じ姿をした別人なのかもしれない。
そう願ってほたるが問えば、相手は「そういう疑い方なんだ」とへらりと笑った。
ああ、ノエだ――直感がほたるの視界を滲ませる。拙い現実逃避は一瞬で終わってしまったのだと、その感覚がほたるに悟らせる。
「だって、おかしいじゃん。こんなこと……それにノエだったら私の血を飲んだら死んじゃうはずなのに、どうして……」
「ごめんね、それは教えられない。ただまァ、こんなことっていうのは今までしなかっただけで、元々たまにやってたよ。ここの連中はノストノクスの仕事に協力する義務があるし、執行官っていうのは状況に応じて行動しなきゃいけないから」
「…………」
ノエの説明は彼の行為を正当化するようなものだったが、ほたるには受け入れることができなかった。受け入れたら、あの広間でノエがやったことまで正当化されそうだと感じたからだ。
あれは何のためにやったの? ――逃げるためという理由だけでは、到底ほたるは納得することができなかった。
ノエは自分を守ることが仕事だから、確実に逃げ切れる方法を取ったのかもしれない。けれど、あんなのはおかしい。ノエは逃げるだけならもっと前からできたと言っていた。ならばあれは起こらなかったかもしれない出来事なのだ。
それなのにあれが起こったのは、ノエが逃げなかったから。彼が情報を集めるためと言って時間を引き延ばしたから。
本当に? ――浮かんだのは、ノエの行動を否定する考えではない。
もしかしたら彼は、あのために時間を稼いでいたのではないか?
「ッ……」
背筋が冷たくなったのは、そこに信憑性を感じてしまったからだ。ノエは情報を集めるためではなく、彼らをああしてまとめて始末するために時間を稼いでいたのではないか。逃げるために殺したのではなく、殺すために逃げなかったのではないか。
考えれば考えるほど恐ろしくなる。こんなのは飛躍しすぎだと思いたくても、一度浮かんだ考えはなかなか消えない。それに仮にこれが事実で、ノストノクスという組織のやり方で、そしてそこで働くノエの仕事なのだとしても、やはり受け入れられなかった。どんな事情にせよ、ノエという人まであんなことを平然と行えるのはおかしいから。
あれを罪だと思わないのは、おかしいから。
ほたるが顔を青ざめさせると、ノエはそれまでよりも少し、表情を険しくした。
「今ここにいるのは俺で間違いないよ。ほたるがずっと一緒にいた、ほたるの知ってる俺。見せられる証拠はー……ないんだけど」
自分の身体を確認して、お手上げとばかりに眉根を寄せる。「右手……」ほたるがぼそりと言えば、ノエは「あァ!」と明るい声を出した。
「まだあるかな……お、薄っすらある」
それは火傷の痕だった。ラミアの城でノエが負った傷だ。他の傷とは違ってこれだけはすぐに治らないらしく、ノエの手の甲の肌は少し歪なままだった。
「これで信じられそう?」
ノエが優しく問いかける。その声に、ほたるはきゅっと下唇を噛んだ。
「でももう……ノエ、知らない人みたいだよ……」
「っ……」
その瞬間、ノエの眉がぴくりと動いた。だが、俯くほたるの視界には入らない。
「血を飲んで死ななかったこともそう、あの時やったこともそう。それに毒も……っ……私の血を飲むためじゃなくて、わざとっ……」
怪我はさせないと言ったのに。身の安全を守ってくれると言ったのに。
「裏切る、ならっ……言ってって、言ったじゃん……!」
唇が震える。目から涙が溢れる。ノエが恐ろしいこともそうだが、それ以上に。
約束してくれたのに、どうしてこんなにも呆気なくその約束を破ってしまうんだ――悲しさと悔しさが、ほたるの胸を押し潰す。
「裏切ってない」
ノエが強い声で言ったが、ほたるは顔を上げることができなかった。
「確かに毒はわざとやった。だけどそれは、ほたるにあれを見せたくなかったからだよ。あんなもの覚えていて欲しくなかった。毒が効いてるうちは意識がぼんやりするから、そもそも記憶に残りにくいんだよ。思い出そうとしてもあんまり思い出せないでしょ?」
「…………」
それは、裏切っていないと言えるのだろうか。他人の記憶をノエの都合で勝手に変えてしまうようなことは、裏切りとは違うのだろうか。
ほたるには判断できなかった。ノエと自分では価値観が違うのは分かっている。彼にとって他人の記憶は容易に書き換えられるもので、そしてそこにきっと躊躇いはない。
その感覚を、理解できる気がしない。
「こんなやり方しかできなくてごめんね。血も……もらってごめん。ほたるが有り得ないこととして毒じゃないならいいって言ったのは分かってたんだけど、あの場で説明してる余裕なくて」
ノエの声が遠くに聞こえる。ノエが、遠い人のように感じる。
ほたるが何も言えずにいると、ノエが「ほたる」と呼びながら屈んで視線を合わせた。
「怒っていいよ。俺のこと嫌ってもいい。言い訳みたいなことしたけど、ほたるに俺が裏切ったと思わせちゃったことには変わりないから。俺は約束を守り続けるけど、ほたるはもう俺がそうするって期待してくれなくたっていい」
ノエの指がほたるの目元に伸びる。その指を、ほたるは咄嗟に避けた。行き場を失ったノエの手は少しだけそこに留まって、しかし何もせずに彼の膝へと戻っていく。
「……できれば割り切って欲しい。俺のことが怖いのは仕方ないし、信用もできないと思う。だけど俺の立場も、俺自身も変わってない。だからほたるには、自分が生きるために俺を使ってるって考えて欲しい」
そこまで言うと、ノエは姿勢を元に戻した。「あとご飯も食べてね」手に持ったままだったパンを軽く振って、苦笑混じりに言う。
「……信用して欲しいとは、言わないの?」
「言えないでしょ」
「っ……だったら説明すればいいじゃん……! こういう事情だったんだって、説明してくれれば、私も……っ……」
少しはノエのことを理解できるかもしれないのに――ほたるが声を詰まらせれば、ノエは「しないよ」と笑った。
「なんで……」
明確な線引きだった。けれど分からない。何故ノエが弁明しようとしないのか。そして何故、線引きされたことがこんなにも辛いのか。
だがほたるは何も言えなかった。もう一度問う勇気がなかった。
本当は、知りたいことはたくさんある。ノエがあんなことをした理由も、自分の血を飲んでも平気だった理由も。そして何より――
何故彼は、あの場にいた全員の命を奪うことができたのか。
それらの答えは全て同じな気がする。そしてノエは、そこに自分が踏み入ることを拒んでいる。
ならばこれを問えば、ノエは。
「っ……」
ぞっとした。問うたその先に待っているものに。ノエを拒んだのは自分の方なのに、ノエからもそうされてしまうかと思うと恐ろしくてたまらなかった。
だからほたるは、聞き分けたふりをするしかなかった。
「……もういいよ。ああしなかったら多分、私もノエも死んでたんだろうし」
「無理しなくていいよ。俺の想定が甘かったのは事実だから」
そう告げるノエの声は優しい。まるで直前の線引きがなかったかのようにほたるを慰める声だ。
いつもと同じ声。この声はこんなにも空っぽだったのかと、ほたるは愕然としながらただ耳を傾けることしかできなかった。
「ほたるさ、あそこで見たことは誰にも言わないでね。俺がほたるの血を飲んだことも含めて」
ノエが少し真剣な声で言う。さっきよりも中身を感じられるその声に、ほたるは「言ったら……?」と小さく尋ねた。
「口を封じなきゃいけない。ほたると、ほたるが言った相手の。って言ってもほたるの記憶はまだ弄れないし、傷つけることもしたくないから……誰とも話せない状態にすることになると思う」
「話せない状態って……」
思わずノエを見上げる。何か恐ろしいことをされるのではないかと、全身に力が入る。
だがノエはそんなほたるを見てへにゃりと表情を崩すと、「この話やめてもいい?」と小首を傾げた。
「あんまりそういうの考えたくないんだよね。それにほたるは聞きたいことがいっぱいあるかもしれないけど、どうせ説明してあげられないからさ」
だからこれ以上問うてくれるなと、ノエの目がほたるに訴えかける。その目は冷たくはなかったものの、しかし確かにほたるの心を締め付けた。
「とりあえず着替えようか。ちょっと何かないか探してくるね」
言い終わると同時にノエがほたるに背を向ける。
すぐそこにあるその背中が、ほたるにはやけに遠くに感じられた。