〈3-1〉思い出しちゃった?
夢心地だった。頭がふわふわしていて、あらゆる感覚が遅れてやってくる。
だから視界を塞がれたとほたるが気付いたのは、無数の嫌な音が響いた後。湿っぽく、それでいて硬い何かを砕くような、そんな音だ。
そして音がしたと理解した時にはもう目元に当てられていた何かはそこから離れていて、ほたるの目は広間を映していた。
だが、それはほたるの知っている風景ではなかった。
「なにこれ……」
黒い霧が広間を覆い尽くしている。あまりに濃すぎるせいで、テーブルやその上の料理を見ることができない。
だからほたるは諦めて近い場所へと目を移した。ノエだ。破れた服、そこに染み込んだ黒っぽい赤。それを見ていたくなくて目線を上げていけば、鮮明な赤に辿り着いた。
「ノエ、ちが……」
ノエの唇に赤い血が付いている。怪我でもしたのかと無意識のうちに手を伸ばす。けれどその指先が目的の場所に届く前に、ほたるの手はノエのそれに捕まった。
「もう毒抜けちゃった?」
「どく……?」
「ちょっと残ってるかな。まだ立つと危ないから座ってな」
そう言ってノエはほたるの手を離すと、自分の指で口元を拭った。そして立ち上がり、何かを拾う。小さなそれが枷の鍵だとほたるが理解したのは、ノエが口を使って器用に腕の拘束を外したからだ。
あの鍵は、男の人達が持っていたんじゃなかったっけ?
ぼんやりとほたるの中に疑問が浮かぶ。その人達はどこだろうと見渡すも、広間には何故か自分達以外に誰もいない。
「ひと……かぎが……」
ぽつりぽつりとほたるがこぼせば、ノエが「ん?」と首を傾げた。
「あァ、これは消えないんだよ。中に太陽の光を吸わせた炎輝石が練り込まれてるから。って、今言っても分かんないね」
苦笑しながらノエがテーブルの方へと歩いていく。先程よりも黒い霧は薄くなっていたが、まだ視界は悪い。しかしノエはそんなことお構いなしにテーブルの上のグラスを手に取ると、その中を満たしていた血液を一気に飲んだ。
一杯、二杯、三杯――いくら大きくないグラスとはいえ、そこに残っていたものを全て飲み干してしまうのではないかというくらいに何度も何度もグラスを煽っていたノエの手が止まったのは、五杯目が空になった時。飲みすぎたと言わんばかりに口元を手で押さえ、渋い顔をしたノエをほたるが呆然と見ていると、その視線に気付いたノエがへにゃりと眉尻を下げた。
「はしたなくってごめんね。ほたるには最低限しかもらわなかったからまだきつくって」
言って、深呼吸する。「うん、もう大丈夫。多分足りた」自分の腹を撫でながら頷くノエに、未だほたるの思考は追いつかない。
「なんで……」
疑問は一つではなかった。
この黒い霧は何なのか。何故急に誰もいなくなってしまったのか。
他にもおかしなことがある気がする。それなのに、頭が働かないせいでその疑問を見つけることすらできない。
「貧血……は、良かった。大丈夫そうだね」
いつの間にかほたるの近くに来ていたノエは彼女の瞼に触れて確認すると、安心したように息を漏らした。
「毒は完全に抜けるまでまだ時間かかるかな。おいで、運んであげるから」
ノエの腕がほたるを抱きかかえる。無抵抗のままほたるがそれに身を委ねると、ノエは立ち上がって広間を後にした。
§ § §
ノエの腕に抱かれながら、ほたるは変わりゆく景色をぼうっと眺めていた。いつの間にか建物からは出て、今は広い荒野のような場所を歩いている。道は、一応はあるようだ。舗装されているわけではないが、そこだけ砂利のようになっていて植物が生えていない。
空は赤かった。昼間だ。けれど薄っすらと青い月も浮かんでいるから、早朝か、夕方だろうか。どちらなのかはもう少し時間が経ってみないとほたるには判断がつかなかった。
ここはどこだろう。どこへ向かっているのだろう。
まだ頭はぼんやりとしていたが、少しずつ思考が働き始めているのを感じる。
「ノエ、どこ行くの?」
ほたるが問いかければ、ノエは「とりあえず民家探してる」と苦笑を返した。
「こんな格好だからね、どこかで綺麗にしないと。ほたるだってもう何時間も食べてないし……意識ははっきりしてきた?」
「意識? そういえば、なんで……」
「俺が咬んだから。今のほたるなら傷はもう治ってると思うよ」
「咬んだ……」
その言葉に、ほたるの記憶が蘇る。
『ねえ、ほたる。毒じゃなきゃいいんだよね?』
あの広間で、そう問われた直後。確かに首に痛みを感じた。一瞬でよく分からなくなってしまったが、しかし咬まれたような痛みがあった。
どうして? ――ノエが咬み付いたから。
何のために?
考え始めた瞬間、ほたるははっとしてノエの顔を両手で掴んだ。
「おおっ? ちょ、急に動いたら危ないって」
「どこも悪くない!?」
「え?」
「ノエ、私の血飲んだんでしょ!? どこもおかしくなってない!?」
あまりの剣幕にノエが足を止める。ほたるに両頬を掴まれて驚きを湛えていたその顔は、すぐにいつものゆるい笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、むしろ絶好調」
「本当に……?」
「本当本当。だからあそこからも逃げられたでしょ?」
「それは……」
逃げたのだろうか――ほたるの中に疑問が浮かぶ。
あまり逃げたという感覚がない。何故なら周囲には誰もいなかったから。誰もいない場所から出ただけだから、逃げたという表現は適切ではない気がする。
なら、あの人達はどこに?
必死に記憶を辿る。けれどうまく思い出せない。靄がかかってしまったかのように記憶が不鮮明で、はっきりとした答えが得られない。
覚えているのは、ノエがこの血を飲んだこと。そして――
『自決すんのはお前らだよ』
ノエの、声が。
「っ……!!」
突然訪れた理解にほたるの身体が強張る。あの声と一緒に嫌な音が聞こえたのはなんとなく覚えている。それらの記憶は曖昧でも、広間が黒い霧で満たされていたことは間違いない。
あの黒い霧は、霧じゃない。吸血鬼達の成れの果てだ。あの場にいた全ての吸血鬼達が一斉に死んだのだ。きっとノエの言葉どおり、自決して。
――ノエが、彼らを殺した。
「やっ……」
咄嗟にノエの腕から逃れようともがく。だがそんなほたるを強くなった腕の力が止めた。
「は、離して!!」
「思い出しちゃった? 多めに毒入れといたんだけど」
「ッ、そのために咬んだの!? わざと、毒を……!」
ほたるの顔が引き攣る。ならば毒を盛られたのと同じではないか。血を飲むために仕方なく毒が入ってしまったのならともかく、ノエは意図してこの身を毒で侵したのだ――理解すると同時に、恐怖がほたるの全身に襲いかかった。
ノエは人を殺した。大勢殺した。いとも簡単に、きっと躊躇うこともなく。逃げるためならそこまでする必要はなかったはずなのに、それでも彼は全員の命を奪った。
そんな人に、自分は抱きかかえられている。自分にも毒を食らわせるような人に、この命を預けている。
「ッ……」
恐ろしかった。知っているはずのノエが、得体の知れない存在に感じて。
だから、逃げたい。逃げたいのに、ノエの腕から逃げ出せない。力が強すぎるのだ。どれだけほたるが力を込めてもノエの腕はびくともせず、そのせいで恐怖ばかりが募っていく。
「ごめん、怖いのは分かってる。でも離れた方が危ないから」
そう告げるノエの顔は、ほたるからは見えない。逃れようと顔が外に向いているからだ。だがほたるはノエの方を向こうとも思わなかった。そしてノエが、それを咎めることもなかった。
「約束は守るよ。ほたるには怪我させない。ほたるにはあんなことしない」
その声はいつもよりも少しだけ、思い詰めたようで。けれどいつもと同じ優しい響きで。
大勢を殺めた言葉を吐いたのと同じ口から発せられるその声に、ほたるは自分の感情がぐちゃぐちゃになるのを感じた。