〈2-2〉信じるはずないでしょ
ノエは遠くからの音を聞きつけると、空いている手で口元に人差し指を当てた。それを見て、ほたるの顔に悲痛が浮かぶ。その理由はノエにも分かった。だから安心させるように微笑んで、彼女の頬に伸ばしていた手を自分の方へと戻した。
重たい身体を叱咤して、戻した手を両脇の床に突く。どうにか上体を起こそうとすれば、背中に手が添えられた。ほたるだ。自分がしようとしていることを察して、手を貸してくれているらしい。
ノエは内心で感謝しながら起き上がると、今にも崩れ落ちそうな背中を近くの壁に委ねた。
足音がすぐそこから聞こえてきたのは、ほたるにもう少し離れるよう目線で指示した直後のことだ。
「《――良い気味だな》」
聞こえてきたのは、男の声。知っている声だ。だが、この場所では初めて聞く。そのことにノエは誤魔化しが効かなくなったことを悟ると、ニッと顔に笑みを浮かべた。
「《また変な組み合わせだね》」
ノエが笑みを向ける先には五人の男達がいた。うち三人は今までと変わらない。特にリード以外の二人は荷物持ちのようなものだから、数に入れる価値もない。だが新しく現れた二人が、ノエにこの時間の終わりを教えた。
「《お前、青軍側じゃなかったっけ?》」
そうノエが問いかけたのは最初に声を発した男だった。紫眼対策の目隠しをしていないのは意外だったが、彼がここにいる理由を考えれば何も不思議なことはないか、とすぐに納得する。何故ならこの男にはつい最近会ったばかり――街で自分を足止めした男だからだ。こいつのせいでほたるは人殺しをする羽目になってしまったと思うと、ノエの中に沸々と怒りが込み上げてくる。
あのまま首を捩じ切ってしまえば良かった。いや、出遭った瞬間に、すぐ。そうすればほたるを苦しませることはなかったし、この先に起こることも変わったはずだ。
だが、その感情は顔には出さない。ずっと薄く笑ったまま男を見ていれば、「《情報が古いな》」と別の方から声がした。
「《いつまでも青軍か赤軍か気にしているわけがないだろうに》」
そう言って笑ったのは、新たに加わったもう一人の男。杖をついているが、外見年齢は壮年と言える程度にしか老いていない。そして、彼もまた顔は隠していなかった。その理由を知るノエは男に目を向けると、「《あんたがそれ言います?》」と嘲るように首を傾けた。
「《戦争やってた頃はめちゃくちゃ血気盛んだったじゃないですか、ソロモン様は。未だに赤か青かってだけでしょっちゅう殺し合いだってしてるくせに》」
「《だから情報が古いと言っているんだ。ここ数年はその中に私の系譜の者はいない》」
ノエにソロモンと呼ばれた男はそこで言葉を切ると、「《どうだ?》」と街で会った男に問いかけた。
その男の目が、ほたるに向く。
「《間違いありません。この娘は、例の裁判にいた種子持ちです》」
それを聞いて、ノエはやはりそのために連れてきたのか、と溜息を吐いた。
「《だそうだ。お前がいつまで経ってもその娘を食わない理由がやっと分かった》」
そうノエに言ったのはリードだった。「《食ったら自分が死ぬなら食えるわけがない》」馬鹿にするように笑い、ほたるに視線を移す。
そうされたほたるは酷く緊張していた。当然だ、理解できない言葉を話す男達に注目されているのだから。しかもほたるは彼らが味方ではないと知っている。尚更恐怖を感じるだろう。
ノエは隣から聞こえる息遣いでほたるの緊張を悟っていたが、興味のないふりを続けるしかなかった。庇ってやりたいが、あまり肩入れしているように見えてしまうのも良くないからだ。あくまで仕事の範囲でやっていると思われる程度にしか、この場ではほたるのために動いてやることはできない。
だからノエが肩を竦めるだけで済ませると、リードの言葉を受けてソロモンが一歩前に足を踏み出した。
「《なら、この娘がスヴァインの子か》」
確信したように言えば、ほたるの肩がびくりと跳ねた。
「初めまして、お嬢さん」
日本語で語りかける。するとほたるの顔は一層強張って、その喉からこくりと音がした。
「君は自分がスヴァインの子であることは理解しているかな?」
ソロモンが笑いながら問いかけるのを聞いて、ノエはやっと「ちょっとおっさん」と声を発した。
「見てて気持ち悪いんですけど。変質者みたいな声のかけ方しないでくれます?」
「お前は本当に無礼な奴だな。だがまあ、今は気分がいいから許してやろう。それにお前はもう死ぬ」
ノエに向けた言葉だった。だが、それに反応したのはノエではなかった。
「っ……」
ほたるが弾かれたようにノエを見る。その瞳は不安で揺れ、顔には驚きと悲痛が現れている。ソロモンはそんなほたるの様子を見ると、「おや」とノエに向けていた目を戻した。
「君はこの男に死んで欲しくないのか」
「……当たり前でしょ」
ほたるがソロモンを睨みつける。答えたのは、もう日本語が分からないふりをする必要はないと理解していたからだろう。それはノエも分かっていたが、珍しいほたるの姿に内心で驚いていた。
「随分絆されたな。だったら、君達二人のどちらかを生かしてやると言ったらどうする?」
問われて、ほたるはソロモンに向ける視線を強くした。
「考える時間すらいらないのか。全く、お前の人心掌握にはいつも驚かされるよ、ノエ」
「そりゃどうも」
ノエは笑いながら答えたが、一方で自分の口中が苦くなるのを感じていた。ノエの位置からはほたるの横顔しか見えない。だから言葉で答えなかったほたるが何を選んだのかはソロモンの反応で知った。初対面の人間にすら確信を与えたということは、ほたるは相当はっきりとその瞳で意思表示していたのだ。つまりそれだけ彼女は、目の前の男達に敵意を抱いているということ。
それが、不安だった。
ほたるの中の種子は、ほたるの命の危険を察知して反応する。そしてほたるはそれ以外にも、自らの命を守るために相手を殺せと刷り込まれている。
スヴァインを前にした時は何も起こらなかったが、あれは相手が命令の主だからだろう。あの場でもう解かれていたと考えるのは早計だ。ほたるを殺そうとしたスヴァインが何故あんなものを仕込んでいたかは分からないが、今も有効だと考えた方がいい。
ただ襲われて、恐怖していただけでもそれらは動き出したのに、こうしてほたるが明確な敵意を抱いていたらどうだろう。強すぎる敵意は本人も知らないうちに殺意となってしまうのではないか。相手を殺さねば自分が死ぬと考えてしまったら、あの指示が動き出してしまうのではないか。
もしそうなってしまえば、今度こそほたるは自分のしたことに押し潰されてしまうのではないか。
ノエが考えていると、ソロモンがほたるに「君も哀れだな」と向き直った。
「まだこんな子供なのに、この男の保険のために心を囚われてしまうだなんて」
「何言って……」
ほたるが怪訝に眉をひそめる。それを見て、ソロモンが目を細める。
「この男は君を囮にして逃げるぞ。そういう奴だ」
「おい」
ノエが思わず低い声を出せば、ソロモンは満足そうに笑った。
「嘘。信じるはずないでしょ」
「嘘じゃない。こいつは実際に何度もそういうことを繰り返してきた」
「だから何。どうせ私は――」
「ほたる」
ノエがほたるを止めたのは、その先の言葉が分かったから。ほたるが自分を信じてくれているのは嬉しい。だが、それ以上言ってはいけない。まだソロモン達は知らない――スヴァインがほたるを重要視していないことを。
知られていない情報は、いつどんな役に立つか分からない。だからそれ以上言うなと首を振れば、ほたるははっとしたように口を噤んだ。
しかしソロモンは、その二人のやり取りを別のものと捉えたらしい。
「仲が良いな。まさかお前も少しはこの娘に情を持っているのか?」
「…………」
そんなことはない――即座に否定しようとしたノエの口が止まる。言わなければならない。そんなわけがないと、笑い飛ばさなければならない。
それなのにできなかったのは、何故だろうか。
「なら順番を変えようか」
ソロモンの顔に、嫌な笑みが浮かぶ。
「スヴァインの子――お前から死んでもらおう」