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【改稿版】マリオネットララバイ  作者: 丹㑚仁戻
【後篇】第一章 瓦解する安らぎ
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〈2-1〉どういう基準なの

 その後も二度、ノエは牢からいなくなった。理由はほたるにも分かっている。聞かずとも、戻って来るたびにノエがどんどん弱っているからだ。いつもよく喋るはずの彼は口数も少なくなり、どれだけ休んでも起き上がろうとすることすらしなくなった。

 そんなノエを見てほたるができるのは、自らの膝で彼の頭を支えることだけ。これを始めたのは一度目の拷問の後だ。しばし休んだノエは石の床で頭が痛いと起き上がろうとしたが、どう見ても辛そうだったため、横になっていてくれと膝を差し出したのだ。


 それからはずっと、この体勢だ。足が痺れるのも、同じ体勢でいるのも少し辛かったが、ノエの方が辛いのだとほたるは己を叱咤した。自分が耐えることでノエが少しでも楽になれるなら、あちらこちらに感じる痛みだって気にならない。

 今はただ、ノエが少しでも休めるように――そう思いながら静かに時間の流れに身を委ねていると、しばらく黙っていたノエが「ほたる」と気怠げに口を開いた。


「何?」

「何か話してくれない?」

「なんで? 休んどきなよ」

「話してないと意識飛びそうなんだよね。流石にここでそれは避けたい」


 そう言ってノエが目元に力を入れたのは、そうしなければならないほど瞼が重たくなっているからだろうか――ほたるは見たことのないノエの姿に眉根を寄せると、「傷は治るのに、しんどいのは治らないの?」と苦しげに問いかけた。


「血を流しすぎたからね。治す分で結構消耗もするし……でもまだ大丈夫」


 ほたるに答えるノエの顔は青白かった。目の下には隈が浮かんで、唇の血色も悪い。声だって、いつもよりずっと小さく覇気がない。どう見ても大丈夫には見えないその様子に、ほたるの表情が曇っていく。


「……もうやめようよ。何か調べてるのかもしれないけど、ノエの方が先に参っちゃうよ」

「あと少しなんだよね。散々煽ったからそろそろ向こうの親が出てくる。そしたらやめられる」


 なんでそこで煽るのかという呆れは、心配に掻き消された。ノエの頬に手を伸ばし、触れる。


 冷たかった。こうして顔に触れたことがないから普段との違いは分からないが、きっといつもよりもずっと冷たいのだろう。そう思うと、胸が張り裂けそうになる。


「ほたる?」


 ノエが不思議そうに名前を呼ぶ。その声を聞きながら、ほたるはノエの頬につうと指を這わせた。


「ノエの身体は道具じゃないよ。ここまで頑張ったから最後までやりたいのは分かるけど……でも、ノエが辛いのはやだよ」


 労わるように、慈しむように指を動かす。ノエはその指に軽く頬を寄せると、ふっと笑みをこぼした。


「やっぱり、ほたるは無価値じゃないよ」

「……何、急に」

「こっちの話」


 ノエがゆるく笑む。いつもと同じ笑い方なのかもしれないが、顔色が悪いせいで随分と儚く見えた。暗い、とも取れるかもしれない。

 ただの体調の悪さのせいか、それとも本当にそういう笑い方をしているのか。ほたるが判断に迷っていると、ノエがほたるを見て思い出したような顔をした。


「そういえば服、汚れちゃったね。っていうか靴もないじゃん。ここ出たら新しいの買おっか」

「靴は確かにないと困るけど、服は洗えばいいよ。いくら経費でもそんなしょっちゅう新しいの買ってもらうの悪いし」

「でも染みになっちゃったら取れないかもよ? それに洗っても他人の血だらけになった服とか嫌でしょ」

「平気だよ。ノエの血なら今更嫌とか思わない」


 ほたるの口からするりと言葉が出る。本心だった。確かに血の汚れは泥汚れよりも忌避感があるが、洗ったならもうどちらも変わらないように思える。それが全く知らない誰かの血なら違ったかもしれないが、ノエの血だと分かっているから嫌だとは感じない。


「前に俺の匂いつくの嫌って言ってたのに」

「それは嫌だよ」

「どういう基準なの」


 ノエがくつくつと笑い声を漏らす。その声を聞きながら、ほたるは自分が今嘘を吐いたことに気が付いた。流れで今までどおり答えてしまったが、自分の発した言葉は正しくないと感じるのだ。

 けれど、あまり後ろめたさはなかった。ノエが楽しそうだからだ。だからほたるも一緒になって笑っていると、ノエがふうと笑いを抑えるように深呼吸をした。


「ま、経費が嫌なら俺が個人的に自分の服買うついでに買おっか。それならいい?」

「……そっちの方が気後れする」

「なんでよ。相手が買ってくれるって言うなら素直に甘えることも覚えな。まァでも、人は選んでね。変な奴に借り作ると後がややこしいから」

「ノエって時々妙に保護者っぽいよね」

「頼れる大人でしょ?」


 ノエは冗談めかして言ったが、それを聞いたほたるの声は「……うん」と小さくなった。


「頼りにしてるよ。だから、自分の身体は大事にしてね。ノエが死んじゃったら嫌だよ」

「そんな心配しなくて大丈夫だよ。ここの奴らも、今のところ俺のこと殺す気はないだろうし」

「……そうなの?」


 そうは見えないけれど――ほたるが眉をひそめれば、「正確には死なないって思われてる」とノエが補足した。


「死にそうになったらほたるの……従属種の血を飲むだろってね。向こうの狙いはそれだよ。自力で口を割らせられなくても、ラミア様からの大事な預かりものを食えば俺の弱味になる。だから餓えさせた俺をほたると同じ檻に入れてる」

「……ノエ、お腹空いてるの?」

「めちゃくちゃ空いてる」

「……あんまり近くにいない方がいい? その、私の匂いとか……お腹余計空いちゃわない?」


 ノエの話はほたるにも理解できた。だから、不安になった。

 ノエが楽になればと思って膝を貸していたが、もしかしたらこれはむしろノエを苦しめていたのではないか。ノエは気を遣って自分に合わせてくれていたのではないか。

 ほたるが泣きそうな顔になれば、ノエが「ここにいてよ」と笑った。


「本気でヤバかったらこんなことしてもらってないよ。食えないのは慣れてるから、自分の限界も分かる。ただ……」

「ただ?」

「理性飛ばしてほたるのこと咬み殺したくない。だからもしまずいと思ったら、自制が効くうちにほたるの血もらうかも」


 困ったような顔でノエがほたるを見つめる。その言葉の意味を理解して、ほたるは愕然とした面持ちとなった。


「……ノエ、自分が何言ってるか分かってる?」

「分かってる分かってる」

「分かってないよ! 私の血なんて飲んだらノエが死んじゃう!」


 この血は吸血鬼にとって毒なのだ。ノエの序列は確かに高いのかもしれないが、この血を毒にしているスヴァインの種子はそれよりも更に上。ノエに飲めるわけがない。


「でも俺、ほたるのこと殺したくないよ」

「それは……っ」


 何も言えなかった。もしノエが理性を失い自分に襲いかかれば、彼の懸念どおり自分は死んでしまうのだろう。そして、この血を口にしたノエも命を落とす。だがもし自制できるうちにこの血を飲んだなら――その先に待つものにほたるがぶるりと震えた時、ノエが「なんてね」と笑った。


「ちょっと頭働いてなくて口が滑った。大丈夫、ほたるの嫌なことはしないから」

「……本当?」

「本当。ほたるに怪我させないって約束だからね。俺が咬み付いたら意味ないし」


 そう言って苦笑したノエは、いつもと同じに見えた。いつもどおりの、ほたるを安心させるような振る舞いだ。

 それがほたるには苦しかった。まるで自分がノエの命よりも約束を重んじていると取られているように感じる。実際には違うのに、ノエはそれを受け入れた上で自分を安心させようとしていると分かるから、もどかしくて仕方がない。


「……ノエに血を飲まれることが嫌なんじゃないの。毒にならないならいくらでもあげるし、何回でも咬んでくれたって構わない。でも、現実は違うじゃん。だから……それが嫌で……」


 だから本当に大切なのは約束よりノエの命の方だ――どうか伝わってくれと願いながらノエを見つめれば、ノエは「ありがと」と言ってへにゃりと笑った。


「俺が変なこと言ったから余計な心配させちゃったね。ほたる、今それどころじゃないのに」

「別に何もないよ」

「あるでしょ。思いっきり悲しんどきなって言ったじゃん」

「……今にも死にそうな人見てたら悲しんでられないよ」


 少し言い淀んだのは、それが言い訳だったからだ。「まだ平気だって言ってるのに」呆れたように息を吐くノエを見ながら、ほたるの胸に罪悪感が募る。それはノエに本当のことを言わなかったからでもあるし、言い訳で誤魔化した自分の本心のせいでもあった。


「……私、悲しいのか分からないの」


 ほたるが言えば、ノエが驚いたように目を瞬かせた。


「お母さんのことは悲しい。お父さんの、スヴァインのことも……辛い。でも……」


 脳裏に浮かぶのは、もう一人のこと。こうして意識していなければ思い出せない人のこと。


「ねえ、ノエ。私のお父さん……本当のお父さんって、殺されてたんだよね……?」


 確認するように問う。あの時の会話をどこまで正しく理解できているか分からないから。正しく理解していないかもしれないから。

 だから否定を期待してほたるは問いかけたが、ノエから返ってきたのは「そう言ってたね」という肯定だった。


 それが、ほたるの罪悪感を大きくする。


「私、おかしいのかな。お母さんのこと考えると悲しくてたまらないのに、本当のお父さんのことは……何も、悲しめない。酷いことをされたとは思うんだけど、でも……凄く遠い出来事にしか思えなくて……」


 いくら考えようとしても、どうしても実の父のことは他人事としか思えなかった。母にされたことの残酷さは理解できる。子供の立場なら可哀想だと言われることが起こったのだと分かっている。けれどどうしても、実感が追いつかない。

 そんな自分は、人としてどこかおかしいのでは――だからスヴァイン()にも愛されなかったのではないかと、はっきりとは分からない己の異常性を想像してほたるが吐息を震わせる。

 そんなほたるをじっと見ていたノエは、不意に「俺の父親って俺が子供の頃に殺されたんだけどさ」といつもの調子で話し出した。


「それ、悲しいと思う?」

「私がってこと……?」

「そう」


 なんでノエはこんなことを聞いてくるのだろう――分からなかったが、ほたるは彼の父の死を心に思い浮かべた。

 けれど――


「……ノエが悲しいなら、辛いことだと思う。けど……ごめん。私自身が悲しいかはよく分からない」


 ああ、やっぱり自分はおかしいのかもしれない。人の死をきちんと悲しめないのかもしれない。

 そう思ってほたるが表情を暗くした時、ノエが「でしょ?」と分かっていたとばかりに笑った。


「そんなもんだよ、今まで存在を意識したことがなかった人のことなんて」


 気楽そうに言って、ノエがほたるの頬に手を伸ばす。いつもと違ってもたれかかるような指先の力のかけ方は、無理をして腕を上げているせいだとほたるには分かった。けれど、無理をしないでと拒むこともできない。

 ノエが辛いと分かっているのに。このまま触れていて欲しいと、ノエの手に自分のそれを重ねて頬を押し当てる。


「だから別にほたるがおかしいワケでも、薄情なワケでもないと思うよ。それに今は何とも思えなくても、もしかしたらそのうちやっぱ悲しいってなるかもしれないし」


 欲しかった言葉が、触れた腕を通して頭の中に染み込んでくる。「……そうかな」こんなに甘やかされていいのかという疑問は、一瞬だけ浮かんで消えていった。


「そうだよ」

「……そうだといいな」


 それはきっとノエの言葉が正しいと、自分が異常ではないと証明してくれるから――ほたるが安心感に身を委ねていると、ノエの指先がぴくりと動いた。

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