〈1-3〉私にもう頑張る意思がないの
ノエのいなくなった牢は、ほたるにはそれまでよりもずっと広く冷たく感じられた。
彼はどこに連れて行かれたのだろう。何を話していて、どうして自らの手足に枷を付けたのだろう。
分からなかった。ノエ達の会話はほたるには理解できなかった。ラミアの名前が何度か出たのは辛うじて分かったが、それも大して意味はない。
二人の会話の雰囲気から考えようと思っても、ノエはいつもどおりへらへらしていたものだからよく分からない。相手の男の方は厳しい態度だったものの、しかしノエと話す人は大体がそうだ。ノエには場の空気に合った振る舞いをして欲しいと何度か思ったことがあるが、今回は今までで一番強くそう感じた。
「ノエ……」
ノエがいないというだけで、ほたるは不安で仕方なかった。牢を広く感じるようになったはずなのに、冷たい石の壁が自分に迫ってくるような感覚もある。気持ちはどんどん暗くなって、ノエが目覚めていたことで忘れかけていた現実が首を絞めてくる気がする。
もし、ノエが戻ってこなかったら。
考えることすら恐ろしい。けれど同時に、今更何を恐れるのかと全てを諦めた自分が嗤う。
完全に父に捨てられ、母も殺され、更に実の父親もとっくに殺されていた。それなのにノエすらもいなくなったら自分にはもう誰もいなくなる。ノストノクスだって助けてはくれない。まだスヴァインとの関係を知られたわけではないが、そのうち彼らも知ることになるだろう。
だからもう、自分を助けてくれる人はいない。心配してくれる人も。
「……情けない」
誰かに助けてもらうことしかできない自分が。そしてその誰かを全て失ってしまいそうな自分が。
ノエはもう、ここには戻ってこない方がいい。こんな無価値な人間を助けるためにその身を削る必要はない。
誰かに助けてもらうことしかできなくても、助けてもらわないという選択はしてもいいはずだ。
何故ならノエはまだ、生きているから。ここで去れば彼が安全な場所に行けるなら、その方がずっといい。
もう、大切な人が死ぬのは嫌だ。
「ッ、お母さん……!」
母の最期の姿が、頭に焼き付いて離れない。母は絶望したのだろうか。それとも、幸福だったのだろうか。大好きな夫が帰ってきたと、たとえ虚構でも幸せを噛み締めながら眠るように殺されたのだろうか。
そうであってくれと、思う。スヴァインは人の認識を歪められるのだから、その最期はできるだけ苦痛のないものにしてくれていたと信じたい。
私にはそうしてくれなかったけれど――どろりとした悲しみが、ほたるの心を淀ませる。
でももう、いいのだ。このままここで死ねば、あの恐怖をもう感じることはない。そしてノエが去ってくれていたならば、大切な人が殺されるかもしれないと怯える必要もない。
もう、それでいい。生きているのが苦痛なら、さっさと終わらせてしまいたい。
ゆらゆらと石の床に倒れ込む。冷たい床は体温を吸い取って、身体が芯から冷えていく気がする。
どうか、ノエが戻ってきませんように。どうか一人で無事に逃げてくれますように。
自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返しながら、ほたるはゆっくりと目を閉じた。
§ § §
ノエが牢に戻ってきたのは、それから一時間以上経った後のことだ。人の気配を感じて、もしそれがノエならばこんなところは見せていられないと身体を持ち上げて。
そうしてほたるが待っていると、暗闇から三つの人影が近付いてきた。
「ッ……!」
そこには、ノエもいた。だが彼の姿を見てほたるは言葉を失った。出て行く時は確かに自分の足で歩いていたのに、今は二人の男達に引き摺られて戻ってきたからだ。両腕を抱えられ、裸足の爪先が石の床に擦れる。牢に入れられる時は完全に放り込まれるような状態で、ノエは倒れ込む際にほとんど手を突くことができていなかった。
「ノエ……!」
吐息のような声で呼びかける。その隣まで近付いて、触れる。するとノエは重たげに目を開いて、人差し指を口元に当てた。
喋るなと言われているのだ。それはきっと、まだ男達が近くにいるから。二人とも顔を隠してはいるが、それで遮られるのは視界だけだろう。いや、視界すら遮られていないかもしれない。顔を隠すための布ならば、外側からは何も見えなくても内側からは十分に視野が確保できるものを使っているかもしれない。
ほたるはノエの指示に従ってぎゅっと口を噤むと、男達が去るのを待った。幸いにも彼らはほたる達にそれ以外の用はなかったらしい。二人に目をくれることなく来た道を戻っていって、足音も小さくなっていく。だからすぐにその姿は暗闇に消えて見えなくなったが、ほたるが確認するようにノエを見れば、彼は小さく首を振った。
そうしてまた待って。待って、待って。もう話しても大丈夫だとほたるが知ったのは、ノエが口を開いたからだ。
「何もされてない?」
掠れるような声だった。出ていく前よりも明らかに弱っている彼を見て、ほたるの顔が悲痛に歪む。改めてその姿を確認すれば、前よりも血の汚れが増えているように思えた。
けれど、確信はない。もう傷が塞がってしまっているからだ。それでもほたるがそれらの痕跡から目を離せなかったのは、やはりノエの状態のせいだろう。
「……何されたの?」
苦しげにほたるが問いかける。自分の問いを無視された格好になったノエは苦笑をこぼすと、「ちょっと話し合いしてただけだよ」と言って、寝たままほたるの頬に手を伸ばした。
「ほたるは無事そうだね」
「……うん」
「一応ラミア様からの大切な預かりものって言ってあるから、正体がバレないうちは大丈夫かな」
ノエはほっとしたように笑ったが、ほたるの頬に触れていた手は力なく落ちていった。
いつもならばもう少し触れているはずなのに――ノエの行動にほたるの表情が曇る。普通に話しているが、ただ手を伸ばしていることすら辛いのだと、思わず床に落ちたその手を取った。
「ほたる?」
「……冷たい」
「人間よりは体温低いから」
「……いつもよりも冷たい」
きゅっとノエの手を握り締めれば、ノエからは苦笑が返ってきた。
「ッ……何されたの」
ほたるの声に力がこもる。
「だから話し合いだって、」
「嘘。話し合いならこんな弱るはずない」
ほたるにもあれが話し合いの雰囲気ではなかったことくらい分かっていた。そもそも自分には言葉が通じないのだから、ただの話し合いならばここですればいい。だが彼らがそうしなかったのは、ここではできないことをするためだ。
「拷問みたいなこと、されたの……?」
あまりに非日常的な単語すぎて、口に出すことすら憚られる。だがほたるにはそれしか考えられなかった。あんなふうに連れて行かれた者が弱って帰って来るだなんて、その先で痛めつけられでもしない限り有り得ない。
「……まァ、そんな感じ? でも大丈夫だよ。どこも怪我残ってないでしょ?」
「ッ、なんでそんな無頓着なの!? 怪我が治っても痛かったんじゃないの!? それにっ……本当に平気なら、自分で歩けたはずでしょ……」
ほたるの声が詰まる。ここに戻ってきた時のノエの姿が、スヴァインに抱えられた母の亡骸を彷彿とさせたから。
「私のせい……? 私のこと聞かれて、黙ってたから……」
「ほたるのせいじゃないよ。あいつらは確かにほたるの情報を欲しがったけど、ほたる個人っていうよりはノストノクスの仕事のことを気にしてたから」
「それが私のことなんじゃないの?」
ノストノクスの仕事が具体的に何を指すのかは分からない。しかし自分の情報を欲しがったということは、それはスヴァインの子の情報を求めたということではないだろうか。
ならばそれを尋問されたノエは、自分のせいで苦しめられたようなものではないか――考えると恐ろしかった。この様子ではノエは何も話さなかったのだろう。ならば相手はノエが口を割るまで同じことを続けるかもしれない。
今回は生きて戻ってこられた。だが、次もそうとは限らない。
「ノエ……一人なら逃げられるんじゃないの? だったら逃げてよ。置いてってよ。もういい……もう、約束は守らなくていい。私にノエがそこまでする価値なんてない……」
「そんなこと言わない。もうそういう打算じゃないんだよ」
「だったら尚更っ……! だって……頑張ってるうちに、ノエは嫌になってくるかもしれないじゃん……私を守ることが嫌になったら、今度は私のことも嫌になるかもしれないじゃん……。お父さんみたく私のこと……疎ましくなるかも……」
それが、恐ろしい。ノエが死んでしまうこともそうだが、大事な人に背を向けられる苦しみも同じくらい耐え難い。ただ一方的に求めて受け入れなかった父相手ですらあんなにも辛かったのに、ここまで心を許した相手に疎まれ、見限られたら。
その恐怖と死の未来だったら、どちらがいいかだなんて決まり切っている。
「私にもう頑張る意思がないの……自分のこと、死ぬならさっさと死ねばいいって思ってるの……! だからやめてよ……私のために頑張らないで……」
自分の命を諦めれば辛い想いをせずに済むなら、もうそれでいい。どうせ何をしたって数ヶ月しか生きられないことは決まっているのだ。だったら悪足掻きせず、いつでも終わらせてしまって構わない。
だからどうか、ここから去って欲しい――涙を堪えながらノエを見つめる。未だ横たわったままのノエはしばらく黙っていたが、やがて「終わり?」と首を傾げた。
「え……?」
「まだ言い足りないことはない?」
「……話聞いてた? ノエに逃げて欲しいって言ってるの」
確かに感情的な喋り方になってしまったが、それははっきりと伝えたはずだ。しかしノエはゆるく笑んでいるし、話も噛み合っていないような気がする。
困惑でほたるが何も言えなくなっていると、ノエはそれまでよりもはっきりと顔に笑みを浮かべた。
「俺、逃げるの上手いのよ」
「……だから何」
「まだほたるを連れて逃げ切れる算段はある」
ノエは当然のようにそう言ったが、ほたるには強い焦燥感が襲った。
「ッ、それがいらないって言ってるの! もしかしたらまた拷問されるかもしれないじゃん! その前に動けるようになったら逃げてって言ってるの!!」
ほたるが声を荒らげるも、ノエの様子は変わらない。
「それはほたるの都合でしょ。俺はそれやっちゃうと他に差し障るんだよ」
「他って……」
「言ったでしょ、あいつらが欲しがってるのはノストノクスの情報だって。俺はそのあたりのこと詳しく調べとかなきゃいけないの。だから拷問されたってそれは俺の仕事のためであって、ほたるのためじゃない。逃げるのはその後だよ。分かった?」
まるで幼子に言い聞かせるように、ゆっくりとノエがほたるに語りかける。自分のためではなく、仕事のため――それはほたるを些か安心させたが、すぐにその話を全て受け入れることはできなかった。
ノエの言う仕事が、自分と無関係のものだとは思えなかったから。
「……本当に? 本当に私のためじゃない? あの人達が知りたいのは、私のことでもあるんじゃないの?」
ノエの仕事は、スヴァインの子を守ること。彼らが求めているのがノストノクスの情報でも、その中には彼の仕事のことも含まれているかもしれない。
もしそうならば結局、ノエが痛めつけられるのは自分のせいではないか。ノエは言葉を変えてこちらを言い包めようとしているだけで、事実は変わらないのではないか。
その疑いが、不満が、ほたるの目元に力を入れる。するとノエはほたるの顔に空いている方の手を伸ばし、「そんな怖い顔しない」と笑った。
「確かにそういう意味では、一割くらいはほたるのためかな。でも残りは全部仕事。だからほたるに逃げてくれって言われてもどうしようもないんだよ」
ほたるの頬に触れながら、ほんの少しだけ困ったように眉尻を下げる。「逃げるだけならもうとっくにやってるよ」そう言うとノエは軽くほたるの頭を撫でて、手を自分の腹の上に戻した。
「ということで、たとえここで痛い目に遭い続けてもほたるのこと嫌だって思うことはないよ。だってそれとほたる、ほぼ関係ないもん」
欲しかった言葉が、ほたるの口からほっと息を押し出す。こんなことを望んでは駄目だと分かっているのに、はっきりと口にされると自制心が簡単に崩される。
安心と嬉しさが、ほたるの胸にじわりと広がる。それらはノエの危険と引き換えになると分かっているのに、反論の余地すら奪われてしまっているせいで突っぱねることができない。
「ほたるがこの先どうしたいかは逃げた後で考えよ。今はじっくり悲しい気持ちに浸ってな。そのうちそれも飽きてくるから」
「……飽きるの?」
「飽きるよ。俺は飽きた」
ノエが目を細める。誰の死をそんなに悲しんだのだろう――ほたるは気になったが、ノエの目があまりにも優しすぎて何も聞くことができなかった。