〈1-2〉でも事実だし?
腹が痛い――ノエが目覚めて最初に感じたのはそれだった。理由は分かる。スヴァインに斬り裂かれた傷がまだ治りきっていないのだ。
太陽に灼かれでもしない限り単純な怪我ならすぐに治るというのに、まだ治らないのはそういう攻撃をされたから。ほたるの前に吸血鬼が飛び出してきたと認識した瞬間、あの男は内臓を破壊するように爪を動かしたのだ。
本来あるべき姿から大きく変えられれば、その傷は治るのに時間がかかる。あの一瞬でそんなことをするだなんてとんでもない奴だと思ったが、それでも相手は確かに驚いてくれたらしい。お陰で自分は生きているし、ほたるとノクステルナまで逃げ切ることができた。
ただ、気絶している間に別の者達に攫われたのは完全に予想外だった。移動先を選ぶ余裕はなかったが、それでもなるべくひとけのない場所を選んだはずだったのだ。
手が滑ったか、それともたまたま人がいたか――どちらでも変わらない。結局、自分はほたるに怪我を負わせてしまった。その事実は変わらない。
『気絶してたんだもん、しょうがないよ。こんなの怪我のうちに入らないし、それに……その前に庇ってくれたでしょ』
ほたるはそう言ったが、問題はそこではないのだ。怪我の状態から見て、恐らく気絶させるために殴られたのだろう。だから運が良かった。これでもし相手の目的が昏倒ではなく殺害だったら――考えただけでもぞっとする。彼女が怪我をした瞬間、自分は近くにいたというのに気を失っていたのだから。
だが、今は違う。今はもう意識ははっきりとしている。腹はまだ痛むが、全く動けないほどではない。
ノエが目線を鋭くしたのは、遠くに人の足音を聞きつけたからだった。念の為ほたるに言葉を発しないように指示を出し、気配の方を睨みつける。
足音は、三つ。
そのままノエが暗闇を睨みつけていると、やがて三つの人影が二人の前に現れた。
「なんだ、リードじゃん」
他二人を従えるようにして現れた男にノエが笑いかける。日本語ではない。自分達の言語だ。ほたるを不安にさせてしまうことは分かっていたが、彼女の情報はあまり与えたくない。
「起きたのか」
リードと呼ばれた男が嘲るように笑う。彼の肌は黒く、ノエよりもずっと逞しい体躯をしている。そして彼の後ろにいる二人は目隠しのような布を被っていて顔は見えないが、彼らの手の中では頑丈そうな枷が静かに存在を主張していた。
「回復するまでゆっくり寝かせてくれたってことは、俺に何か聞きたいことでもある?」
「話が早いな」
それしか理由なんてないだろうに――とノエは思ったが、言わないことにした。まだ相手の目的が分からないのだ。ほたるのことがどこまで勘付かれているかも分からない以上、下手に煽ることはしない方がいい。
「ノストノクスがスヴァインの子の存在を公表した。そしてその直後、お前があんな僻地に従属種の小娘を連れて現れた。一体どんな繋がりがある?」
ノエにリードが問いかける。ノエが「僻地にいたのはそっちも同じじゃん」と答えれば、相手は「見張りを強化していたんだ」と鼻を鳴らした。
「まさかお前がそれに引っかかるとは思ってもみなかったが……しかしあの傷なら無理もないか。それで、俺の問いの答えは?」
「ノストノクスの発表との繋がりってやつ? んなモンないよ。普通に考えれば分かるだろ」
「普通に考えればな。だがその出来損ないはペイズリーの血族だろう」
言いながらリードがほたるを見る。ノエはその視線で彼女が身体を強張らせたことに気が付くと、「やっぱ分かる?」とその注目を自分に引き戻した。
「お前の血の匂いで分かりづらいがな。俺にはあの魔女がそう何度も開花に失敗するとは思えない。かと言ってラミアの系譜の連中は意図的に従属種を増やすことは避ける。一体、それは何だ?」
それ、と再びほたるを目線で示され、ノエはすかさず笑みを作った。
「ラミア様のお気に入り」
「……笑えないな」
「でも事実だし?」
直前に発したとおり、リードの表情は険しくなった。それまではただノエを嘲るように見ていたが、今は訝しむように、そして警戒するようにほたると交互に見比べている。自分の思惑どおりの反応にノエが笑みを深くすると、リードはそれを見て嫌そうな面持ちとなった。
「あの方は何を企んでるんだ? ノストノクスがこんな大きな発表をしたというのに、お前という駒を従属種なんぞの傍に置いておくなんて。しかもろくな仕事じゃないんだろう? お前のような卑怯者があんな深手を負わされるなんてそうそうないことだ」
「ろくな仕事だと思わないんだったら聞かないでよ。俺がラミア様に殺されるって」
「バレなければいい……だろ? お前がよく言っていることだ」
リードが言葉を切る。そしてほたるに目を向けて、「それとも、そいつなら知っているか」と考えるように呟く。
「っ……」
ほたるがびくりと肩を揺らせば、ノエがそっと彼女の前に手を出した。
「あんま怯えさせないでよ。下手に記憶いじるとラミア様にどやされる」
「……ならお前に聞くしかないか」
苦々しい顔で言ったリードに、ノエは「何、リードもラミア様怖いの?」とへらりと笑った。
「当たり前だ。序列最上位の方とは下手に揉めるものじゃない」
「あァ、ラミア様の怒りを買うとそっちはリロイ様に怒られちゃうのか」
彼の親の名前を出せば、リードは少しだけ眉間に力を入れた。
「そんなところだ。だがお前ならいくら痛めつけても文句を言う者はいない。ラミア様だってしょうがないと切り捨てるんじゃないか? お前は素行が悪すぎる」
「育ちが悪いもんでね」
この先の展開を想像して、ノエは内心で胸を撫で下ろした。リードが堅物で良かったと思う。序列上位の者に逆らうことは皆避けるが、こうしてその機嫌まで気にする者はあまり多くない。しかも自分の親とはさほど友好的な関係でない者にまで気を遣ってくれるのだから、この状況では有り難くすら思う。
でなければきっと、力尽くでどうにかするしかなかった。ほたるの前でまた、血を見せることになっていた。
ノエはそこまで考えると、「あ、そうだ」と思いついたような声を出した。
「話し合いの場所は変えてもらえない? 箱入り娘でね、色々と耐性ないのよ」
「元よりそのつもりだ。無駄に泣き喚かれてもうるさいからな」
「紳士だねェ」
嫌味を言えば、リードが後ろの二人に目配せした。その合図で二人は動き出して、鉄格子の間から持っていた枷を牢の中に滑り込ませる。ノエがそれを受け取れば、ほたるが不安げな顔でノエの服を引っ張った。
「大丈夫だよ」
ほたるの理解できる単語を使って笑いかける。けれど、彼女の表情は晴れない。本当はもっと安心させてやりたいが、まだ彼らがほたるの素性に気付いていないため日本語で話しかけることができない。
ノエは不便だな、と苦笑をこぼすと、自分の手足に枷を付けながらリードを見上げた。
「俺がいない間にこの子に手出ししないでよ。お前らを敵に回すのとラミア様にキレられるのだったら、お前らをどうにかする方がずっといい」
「だったら協力することだ」
「それはそっちの忍耐力次第でしょ」
彼らを満足させられる情報は持っている。が、教えることはできない。我慢比べをしながら相手のことをできるだけ探ってやろうと考えながら、ノエはゆらりと立ち上がった。