〈天烏篇〉無益
隣で眠る女に見向きもせず、青年はベッドを抜け出した。
服を着て、外に出る。夜の寒さにぶるりと身体を震わせ、きゅっと首を服に埋める。すると肌にこびりついていた女の残り香が鼻腔を突き刺して、青年は思わず胃の中身を地面にぶちまけた。
そこに固形物がないのは、何日もろくに食べていないから。宿を提供してくれる者達は食事も出してくれたが、以前は好きだった料理でさえ喉を通らない。
酒でも飲めれば違ったのだろうか――淀んだ目で吐瀉物を見ながら、ふと考える。
仲間を奪った者達に復讐すれば、気が晴れると思った。しかし現実は違った。怒りの向け先がなくなれば今度は喪失を強く感じるようになって、それが青年から生きる気力を奪った。
死にたい。死ねない。命を絶とうとするたびに、仲間達の最期の顔が浮かぶから。
よく知った笑顔ではなく。蛆に食われ腐った顔が、自ら死ぬのかと青年を責め立てる。
お前が置いていったのだと。お前だけが助かったのだと。ドロドロに朽ちた仲間達が、よく知った声で耳元で囁き続ける。
だから青年は生きていた。だが、死んでいた。日に日にやつれ、身なりは汚れ、死体のような顔つきであてもなく彷徨い続ける。
状況が変わったのは、死神に捕まった時のこと。
「敵に仲間を売った同胞殺し……どんな悪人かと思えば、ただの浮浪者か」
青年は死んでいた。しかし、死を覚悟した。本物の死を目の前にして、自分にもついにその時が来たのだと歓喜したかった。それなのにできなかったのは、その死神があの死体の山よりも邪悪な何かを纏っていると気が付いたからだ。
これに与えられる死は自分の知る死ではないと、仲間と生き残るために身に付けた警戒心が悲鳴を上げる。
だが、逃げられなかった。
「私の子におなり。その才を私のために使いなさい」
逃げれば死ぬ。逃げなくても死ぬ。
判断を迷った青年の口に、ドロリとした何かが押し込まれる。
それはどんな食べ物も拒んだ喉を押し開くように青年の中を進んで、その身体に根を張った。
「また来るよ」
死神が姿を消す。青年は必死に腹の中身を吐き出す。けれど出るのは胃液ばかりで、鉄臭いそれは一向に出てこない。
何を飲まされたのかは分からない。
ただ、何かが。逃れられない何かが己の中に植え付けられたと。そしてそれは己の全てを支配しようとしているのだと、青年は理解した。
§ § §
「――俺に仕事をさせたいんだろ? なら条件がある」
しばらくして再び姿を見せた死神に、青年は笑いかけた。
相手に売るのはこの能力だけ。それ以上は取りすぎだと、釣り合いの取れない商売などしてやらないとばかりに相手を見据える。
出し渋ったところで得られるものが何もなくとも。失うものさえもうその手に残っておらずとも。
それでも青年はまた、己を売った。