〈落葉篇〉芽吹き
「お前はいつも同じ方を見ている」
男に後ろから声がかかる。男はその声を無視する。すると後ろから、また別の声がした。
「放っといておやり、ラーシュ」
丸みのある声だった。ラーシュと呼ばれた男は未だ自分を無視する背中に肩を竦める。
「しかしアイリス、あれはあなたがここに呼んだのでは?」
ラーシュが自分を呼んだ声の主に傅く。真っ白な髪と肌をしたその人物はラーシュの頬に手を添えると、「傍にいてくれるだけでいい」と言って口付けた。
「あの子はまだ、未練があるから」
くすくすとアイリスが笑う。それに同調するように、ラーシュも笑みをこぼす。
背後に情事の気配を感じながら、男はただただ同じ方を見続けた。
§ § §
男は後悔した。何故ここに来てしまったのかと、目の前の光景に打ちのめされた。
そこにいたのは一人の老女。傍らにいる者達もみな老いている。老女よりはずっと若いが、しかし若者とは言い難い。
今際の際だった。老女の臨終の時だ。このあたりでは珍しいくらいに長生きをした女は最後は目を開けることもできないまま、静かに息を引き取った。
老女を取り囲む者達がおめおめと涙を流す。男は、その中に加わりたかった。彼らの肩を抱きたかった。
しかし、それはできない。男と彼らの間には壁があって、男は窓から中の様子を盗み見ているだけだったから。
「▓▓▓▓▓」
老女の名を呼ぶ。中の者達に聞こえないように、唇の動きだけで。
「▓▓▓▓▓。▓▓▓。▓▓▓▓▓▓▓」
次に呼んだのは、老女を取り囲む者達の名。
目を閉じる。瞼の裏に、何十年も昔の彼らの姿を思い浮かべる。
自分だけがあの時と同じ姿のまま、取り残されている。
男は一筋の涙を流すと、その身を黒く風に溶かした。
§ § §
「アイリス」
男はアイリスの白い手に口付ける。その手が自分の顎を持ち上げれば、誘われるままに唇を合わせる。
「もう、餌じゃなくていい?」
慈愛に満ちた微笑みの主に、自らの首を差し出す。代わりに得たのは痛みと、それから快楽。心を麻痺させる甘美な毒。
「お前を愛すよ」
答えて、身体を重ねて。幾度となく繰り返して。偽りの愛で、喪失感を誤魔化していく。
時の流れが愛する者を殺すなら、それに抗えるものだけを愛せばいい。たとえそれが、自分から老いと家族を奪った者であっても。
「愛してる、アイリス」
男が遠くを見ることは、もうなかった。