〈19-4〉変なこと言わないでよ
食事を終えた後、ノエはほたるの怪我の様子を見ていた。場所はほたるの部屋だ。風呂に入る前に必要だろうと言えば、澪に知られたくないとほたるの方からこの部屋を提案してきたのだ。
「うん、もうだいぶいいね。包帯もいらない」
包帯を解いた下にあった傷は、既にしっかりとしたかさぶたになっていた。水に濡らせばふやけてしまうかもしれないが、何かで強く引っ掻かない限り剥がれることはないだろう。
「……まだ一日経ってないのに」
「言ったでしょ、浅かったって」
自分の傷、もとい治癒力を見て渋い顔をするほたるに笑いかけ、気にするほどのものではないのだと言い聞かせる。それでどれだけの気休めになるかは分からないが、揃って深刻な顔をするよりずっと良いだろう。
ノエは解いた包帯をゴミ箱に捨てると、「ほたるの父さんっていつからいないんだっけ?」と未だ傷を確認していたほたるに問いかけた。
「お父さん? えっと……小学校上がった頃かな」
「一回も帰ってきてないの?」
「うん」
そう答えるほたるにいつもと違うところはない。少し後ろめたそうで、しかしそれを押し隠そうとする表情だ。ノエはベッドに腰掛けるほたるの隣に座ると、「ほたるさ、」と話し続けた。
「本当に父さんと話さなくていいんだね? そう何回もこっちには来れないよ」
「だからそう言ってるじゃん。連絡したって話すことないし……」
「二度と会えないかもしれないっていうのは、話す内容にはならない?」
じっとほたるを見つめる。ほたるはその視線に居心地悪そうにすると、「ならないよ」と口を窄めた。
「なんで?」
「だって迷惑になっちゃうでしょ」
「忙しいから?」
「そうだよ」
「自分が嫌われてるからじゃなくて?」
「っ……それもあるけど、でもそうじゃなくても連絡されたら困るはずだよ」
ほたるの様子におかしなところはない。だが、それがおかしい。ノエは食事中から抱いていた違和感が徐々に形になっていくのを感じながら、「だけどさ」と話し続けた。
「ほたる、ここに帰ってくるまでは母さんが父さんのこと呼んでるかもって言ってなかった?」
どうか肯定してくれと願いながら、問う。だがほたるから返ってきたのは、「何言ってるの?」という不思議そうな声だった。
「そんなこと言ってないよ。迷惑になるんだからお母さんがそんなことするはずないじゃん。お父さんが勝手に来ることはあるかもしれないけど……」
決まりだ――ほたるの答えに、ノエは違和感の正体を知った。
「どうしたの? ノエ。なんかさっきからおかしいよ?」
「……おかしいのはほたるの方だよ」
ほたるに答えるノエの声は、暗い。表情も険しかった。「ノエ?」相変わらず不思議そうにするほたるを見て、その瞳に悲痛が混じる。
「……ほたる。ほたると母さんの言動は、俺らに操られた人間とよく似てるんだよ」
似ている、とぼかしたものの、もうノエの中には確信があった。
「『忙しくて迷惑になるから連絡しない』……二人とも、父さんの話題になるとそれしか言わない。ほたるは今までそんなこと言わなかったのに、ここに来て急に言い分が変わったの気付いてる?」
「そんなことないよ。変なこと言わないでよ」
そうノエに言うほたるの顔には確かに恐れがあった。何を不気味なことを言っているのだと怯えるような目におかしなところはない。
けれどそれこそが自分の考えが正しい証拠だとノエはきつく目を閉じると、ゆっくりと瞼を持ち上げながら笑みを作った。
「……そうだね。俺の勘違いだったかも」
言いながらほたるの頬に手を添える。しかしすぐにその手を更に伸ばし、ほたるの頭を自分の胸に押さえつけた。「どうしたの?」聞こえる声に「なんでもないよ」と返して、ほたるには気付かれぬよう眉間に皺を刻む。
少しでも気を抜けば、震える吐息がこぼれてしまいそうだった。そうかもしれないと分かっていたはずなのに、いざ目の前にするとどうしようもなく胸が苦しくなる。
ほたるの認識が、記憶ごと塗り替わっている。
自分達の手によって洗脳されていないと起こらない現象が、ほたるの身に起きている。こうなってしまえばもう、いくら周りが口で説明したところで無駄だ。正しい現実を思い出させるには洗脳を解くしかない。
だが、いつから? ――考えれば、すぐに答えは分かった。
『いいよ、お父さんとは話さなくて。お母さんも連絡してないなら私がするのも変だし』
『でも話しておいた方がいいんじゃないの?』
寂しいのに夫には連絡しないという澪の言動に違和感を覚えて、念の為にほたるはどうなのだろうと確認した。ほたるならきっと、父親に連絡することには後ろめたい気持ちを抱くだろうと思った。自分の知る彼女らしい答えが返ってくることを、期待した。
『話さなくていいよ、忙しいもん』
その答えは、それまでのほたると少し違った。母親の手前、言葉を選んだのかもしれない。だがそうと楽観視できるほど、直前の問いと答えの間にほたるが一瞬だけ見せた姿はよくあるものではなかった。
自分の問いに答えるまでの、ほんの一時。僅かな時間だったが、ほたるの顔から完全に感情が消えていた。それは認識が強制的に塗り替わり、脳が記憶の整合性をつけるための処理をしている時の顔そのもの。何度となく見てきた、記憶を書き換えられた者の顔。
つまりあの瞬間、事前にほたるに仕掛けられていたものが動き出したのだ。恐らくはほたるが、本気で父親に連絡してみることを考えたから。
今まで無事だったのは、あの時までほたるは一度もそうしようと思っていなかったということだろう。父親に嫌われていると思っていたのだから無理はない。どうせ応えてくれない相手に声をかけてみようと思えるほど、ほたるはもう父親に期待していなかった。しないようにしていた。
だがあの瞬間は、それでも父親と話すことを考えたのだ。これまで避けていたものを直視しようと前を向いたのに、そのせいでその気持ちを握り潰されるだなんてなんという皮肉か。
「ノエ、本当にどうしたの? ちょっと苦しいよ」
「……あァ、ごめんね」
自分がきつくほたるを抱き締めてしまっていたと気付いて、ノエが少し腕の力を緩める。その腕の中で不安げにこちらを見てくるほたるに笑いかければ、「やっぱり変」と渋い顔をされた。
「その……何かあるなら言ってね? ノエにはここまで連れてきてもらったし、それに色々と良くしてもらってるし……」
気まずそうに目を逸らしながら言うほたるに、ノエは何も返すことができなかった。
ここまで連れてきてしまったから、ほたるの認識は塗り替えられてしまったのだ――その事実が、苦しい。
もしかしたら他にもあるのかもしれない。後から動き始める何かが、まだほたるには仕掛けられているのかもしれない。
そう考えると恐ろしくなる。命の危機に陥った時に相手を殺そうとすること、父親に近寄ることを避けること。他に何が有り得るだろう。そもそもどちらもスヴァインの仕業ならば、彼は一体何故そんなことをしたのか。
ほたる達に父親のことを探られたら困るから? ならば父親はスヴァインの協力者だったのだろうか。
それとも――
「ッ!」
「ノエ?」
思考に沈みかけたノエの耳に、知らない足音が届いた。